この手、繋いだならきっと・七
『神野さんと諸角君って付き合ってるの?』
そんな問いを初めて受けたのは、中学二年のときだった。
まさか実際に漫画みたいなこと訊かれるなんて、と笑いながら否定したものだ。修介は弟のようなものだと答えたものだ。
格好良くなって来たとは藍佳も思っていた。女子に人気が出ることは誇らしくもあった。
三人目には、もう笑えなくなっていた。
白の廊下が眩い。
部屋の外へは出たものの、ドアから離れることは藍佳にはできなかった。すぐ傍の壁に背を持たれかけさせ、深くため息を吐く。
一方で、後から出て来た名和雅年もちょうどその向かいで足を止めた。こちらを見るでもなく、まるで置物のように前を向いたまま静止している。
奇妙な空気が流れた。
いや、そう思っているのは藍佳だけだ。
心は不安で混然としている。しかし同時に<
「あの……」
呼び掛ければ、雅年は無言のままではあるもののこちらに向き直った。
まなざしは気力に乏しい。しかし堅く引き結ばれた口が示す鋼のような剛性にぞっとする。
普段であれば藍佳も気後れして笑顔とともに誤魔化したろうが、今はそれだけの余裕もない。
「あたし、どうしたらいいんでしょう……?」
そして一度堰を切ってしまえば、今度は不安と恐れを誤魔化すためにこそ、洪水のように流れ出す。
「修ちゃんはどこに行ったの? どうして出て行ったりしたの? わからない……あたしには分からない……!」
金切り声。整った面立ちが歪み、振り乱した髪とも相まって幽鬼めいて映る。ぽろぽろとこぼれる涙が止まらぬ様は哀れでもあった。
答えを欲しているわけではない。ただ、溢れ出そうとする感情をもう留め置くことができないのだ。
しかし雅年は眉すら動かすことなく、平坦に、律儀に、問うた。
「まず……僕は君たちのことをよく知らない。さすがに顔と名前は覚えたが、そもそも君と神野君はどういった関係なんだ」
しゃくり上げるばかりの藍佳を待つ間も表情は変わらない。気遣うでもなく、急かすでもなく、さりとて困惑もなく、ただ黙ったままで眺めている。
しばらくして、外聞もなく涙を乱暴に袖で拭った藍佳は語り始めた。
「……幼馴染です……」
物心ついた頃にはもう修介と一緒に遊んでいたこと。幼稚園の遠足のときに起こった事件。修介には自分がいなければ駄目だということ。
小学生になって、他の乱暴な男子たちから守っていたこと。運動会の二人三脚のこと。修介には自分が必要だということ。
高学年になって、一緒に空手道場に通ったこと。身体が大きくなっても修介は『弟』であり、世話をしてやらなければならないということ。
そのあたりから時折暗い顔をするようになって心配だということ。それでも自分がついているのだからいつかは解決するだろうということ。
最初はつっかえながらだったものが徐々に滑らかになり、終わる頃には藍佳は熱弁をふるっていた。
雅年は一度だけ左の眉を動かしたのを除けばまるで停止したかのような佇まいで耳を傾けていたが、藍佳の言葉が途切れ、話がひと段落したらしいと踏んで口を開いた。
「最初に断っておくが、僕は残念ながら独創性に欠ける。大抵はよくある一般論しか口にしない。いや、恩師の魔神じみた考え方や友人の奇説珍説の受け売りくらいはできるが」
相変わらず口調は淡々として、それでいて意思が欠落しているわけではない。
「ともあれ、あとひとつ単刀直入に尋ねよう。その『自分がいなければ何もできない』というのはまさか当人に対しても言っているのか?」
「だって修介はあたしが守ってあげないと。片付けだって下手だし、空手だってあたしの方が強かったんですから」
何を言っているのだろう。藍佳はそんな思いを抱かずにはいられなかった。
小さな頃からずっと一緒だったのだ。修介のことを一番よく知っているのは自分で、自分のことを最もよく承知しているのは修介なのだ。自分にさえ分からないものが他人に分かるわけがないのだ。
藍佳はあくまでも、解答を欲しているわけではないのである。
しかし雅年は頓着しない。
「……これはステレオタイプに当てはめての感想だが。君は役者だな。自分すらも騙している。女はすべて女優だと、誰が言ったんだったか」
そしていつものやる気の見えない顔で、藍佳の心にささくれ立った木片を突き立てた。
「心理学は学部生のときの一般教養で受講していた程度だが、確かこれは投影と呼ばれるものだったような気がする。自分が望むものを相手こそが望んでいると思い込むことだ。この場合、君にとって神野君が必要であるところを、神野君にとって君が必要なんだと置き換えてしまっている」
「いい加減なこと言わないで!」
反射的に藍佳は言い返していた。木片は息の詰まるような鈍い痛みを与える。その鈍さは不快感として何よりも強く残るのだ。
「あたしたちのことなんて何も知らないくせに! あたしさえいれば修ちゃんは……」
叫び、そしてすぐに言葉に詰まる。
藍佳には修介にも教えていない、できることがある。しかし怖い。それを実行することを思うと身体が凍りつく。
「そうだな、申し訳ない。先ほど断った通り、僕に言えるのは一般論くらいだ。ただそれだけに、誰に訊いても十中八九似たような見解を示すとは思う」
雅年にも諭す気のあるわけではない。問われたままに感想を述べているだけで、破滅の色を濃く浮かび上がらせている藍佳を止めるつもりはなかった。
「実のところ、お前は何もできないと言われ続けて臍を曲げない男というのは、一部の例外を除けば二つに分けられる。本当に何もできない上でそのことに焦りを抱いていないか、あるいは逆に大抵のことを独りで片付けられるおかげでそんな言葉は笑って流せるか、そのどちらかくらいのものだ。神野君がどちらなのかは知らないが」
それでも言葉の群れは藍佳を抉る。
激昂しているときの藍佳は理屈など知ったことではないという性質ではあるが、言葉そのものまでも聞いていないわけではない。何もできないのか、何でもできるのか、修介はそのどちらであるのかと問われたならば反射的に答えを出そうとしてしまう。
大抵のことはできる、そちらを選ぶわけにはいかない。それでは自分が間違っていることになる。
しかし同時に、何もできない上でできるようになろうともしないなどという評価も選べない。修介はそんなに情けなくない。
そして結局選ぶのは、最初から除外されていた残るひとつだ。
「修ちゃんは特別なんです!」
それ以上は続けられない。矛盾することくらいは予感できていて、その上で自分の思いの方が大事なのである。
話しかけたこと自体が間違いだったのだと痛感しつつ、これで話を打ち切るべく藍佳は身体ごと顔を背けた。
雅年も苦笑すら浮かべることなく、また彫像のように佇んで時を咀嚼する。
そのままで、どれほどの時が過ぎただろうか。
「ああ、そうだ。君にできることがあった」
不意に、雅年が呟くように言った。
藍佳はびくりと身体を震わせる。今更ながらに名和雅年という男が処刑人であったことを思い出し、先ほどの自分の態度がどう映っていたのか恐ろしくなる。
しかし、続く声に怒りは存在していなかった。
「素直にステイシアを頼ることだ。あれは君たちの味方だよ。状況の許す限り妥当で安全な指示を出すし、決して軽蔑などしない」
内容こそ皮肉めいて思えるが、やはり声は事実を指摘するだけの響きである。
藍佳もすぐには応えなかった。緩慢な動きで乱れた髪を整え、それからようやくまた向き直る。
「……そうかもしれませんね、あなたさえ許容するくらいなんですから」
怖さを誤魔化すための軽口は、むしろこちらこそが皮肉めいて。
雅年は苦い、歪みのような笑みを口の端に乗せた。
「まさに。その通りだとも」
それは藍佳が初めて目の当たりにした、人間味のある表情だった。
しかし瞬きひとつの間に消え、残るのはいつもの平坦な顔。
それでも藍佳の中の恐れが少しだけ消えていた。
今度は社交のためでも激情のせいでもなく、話しかける。
「……ステイシアは敵ですよ、少なくともあたしにとっては」
「ほう」
「あたしのこの姿、どう思います?」
藍佳は自らを示した。瞼は腫れぼったいまま、頬にも白い筋が残っているが気にしない。
170cm近い長身にすっきりとしたショートカット。涼しげな面立ちにタイトなパンツルック。
「よくできている」
雅年の批評は、正しさをもって藍佳の胸を鈍く裂いた。
不自然な部分が自動的に補正されてしまうとはいえ、<魔人>の容姿は自身の想定した姿を基としている。男女を問わず比較的整った容姿となることが多い。
だが、藍佳は頭一つ抜けていた。
「……ずっと憧れてたイメージがありましたからね」
<魔人>として得たこの容姿を、藍佳は気に入っていた。
明るく綺麗でスタイルがよくて、格好良い女。そんな、幼い頃から夢見ていた姿だ。
何も恐れるものなどないはずだった。美女がどうした、モデルがどうした、そんなものにこの自分は負けはしない。
そんな思いは、しかし初めてステイシアに遭った瞬間に崩れ去った。
まさに、遭ってしまったと言うべきだろう。魔神でもあるまいに、こんな存在がいていいのかと思わずにいられなかった。
綺麗だった。木漏れ日に目を細めて見上げる常緑の葉のように。
愛らしかった。大人びてあどけない、そんな矛盾を倶に抱く姫君のように。
優しかった。汚泥の中で煌めく宝石のように。
そしてそのくせ、どうしてかほのかに艶めかしい。胸など今の自分の方が大きいのに、華奢な身が撓る様だけで色香が匂うのだ。
勝てるわけがないと思ってしまった。自分を騙すことも強がることも忘れ、認めてしまった。
いや、それすらも構わないのだ。修介の心さえ連れて行かなければ。
けれど、ステイシアに耐えられる男がいるとは藍佳には信じられなかった。現に神官派の男ならば一度は恋心を抱くと言われているほどなのである。
もしも修介が昔のままだったなら、これほど鬱屈した思いを募らせることはなかっただろう。素直に何でも言うことを聞いてくれて、こっそり頬にキスをしてくれた幼い頃のままだったなら、安心していられただろう。
しかし修介は変わってしまった。距離を取ろうとしているのが分かる。暗い顔の理由も教えてくれない。
だから修介をステイシアに関わらせたくない。
「男の人はいいんでしょうけど、こっちにしてみたらあんなに腹立つ存在ないんですよ。どれほど怖いか分かりますか?」
いっそあれで嫌な性格だったらまだ許せただろうに、こちらの思いを慮って優しく笑うような少女なのだ。
「そうか」
雅年は小さく頷いただけだった。
相も変わらず興味がありそうには見えないが、先ほどの苦笑を見たせいか、藍佳はあまり気にならなかった。
加えて、心に秘めていた浅ましい思いを吐き出してしまったせいか空虚が生じ、けれどそこはすぐに修介のことで満たされる。
どうか無事でありますように。
何に祈ったのかは自分でも分からなかった。
やがて束縛からの解放のときが来る。
白の中、音もなくドアが開いた。
髪を僅かに揺らしながら姿を見せたステイシアの背後で、正体不明の光が幾つも煌めいている。
「ステイシア!」
間髪入れず、藍佳は飛びついた。
「修ちゃんは見つかったの!?」
「はい」
憔悴した顔で、それでもステイシアは藍佳を安心させようとほのかな笑みを浮かべた。可憐で優しくて、藍佳の敵となる笑顔だ。
「どこにいるのかは突き止めました。間接的にではありますが、おそらくは無事であろうことも確かめました。ですが……」
「どこ? どこにいるの!? すぐにあたしが行って連れ戻して来る!」
興奮のあまりにステイシアを揺さぶる藍佳の両手は、しかしすぐに横合いから払われた。
大きく広がった袖から突き出した右腕で二人の間を遮るようにして、名和雅年が割り込んだ。
「落ち着け」
「邪魔しないでください!」
睨みつけるも効果のあるはずもない。雅年の無感動なまなざしは毫も揺るがなかった。
「ステイシアには言うべきことがまだあるようだ。急ぐならなおのこと、それを遅らせる必要はないだろう」
淡々とそう告げる口調に、今となって藍佳の脳裏に不意の鮮明な声が思い出された。修介のことで頭が溢れそうなはずなのに、それすらも切り裂いて強く浮かび上がって来た。
半年前の、<火炎牛>について教えてくれた黒いスーツの男性。
背格好は似ているが顔は違う。声もあれほど重くはない。言葉のイントネーションも一致しない。そもそも自分たちが<魔人>と成ったときにはもう処刑人は<魔人>だったのだから、同一人物ではありえない。
しかしただ二つ、遮る息合いと揺るがぬ物言いがそっくりだった。似ていたからと言ってどうなるわけでもないはずなのに、たったそれだけのことが藍佳の言葉を奪っていた。
「そうですね、ひとまず話が終わるまでは落ち着いて聞いていただけるとありがたいです」
軽く咳き込みながらも困ったような笑顔で、ステイシアは部屋の中を示した。背後の光は既に消えている。
「心配要りません、藍佳さんにはすぐに向かってもらうことになります」
そこで、ふ、と眉を曇らせた。
そして藍佳にとっては初めて耳にする言葉を、儚い声で告げた。
「……いいえ、藍佳さんに行ってもらわなければならないのです。成功の保証はおろか、あなたの生還すら約束できないにもかかわらず。『
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