この手、繋いだならきっと・六






 あれは五つのとき、ある寒い冬の日のこと。

 夕方だったはずだ。遊び疲れ、一休みとばかりに二人で炬燵に当たって寝転んでいた。

 そのうちに、修介が完全に炬燵の中へ入り込んだ。もちろん藍佳もそれに倣った。

 肌をじりじりと焼く赤い光、狭い中で、潜った途端に頬へ不格好なキスを受けた。

 まだ幼児である。十代も後半となった今ほどの意味は持たない、少し積極的な親愛の情の表れだ。

 ただ、わざわざ潜ったのは大人の目が恥ずかしかったからなのだろうけれども。












 神野修介と諸角藍佳が<魔人>となった原因は、いわば事故のようなものだ。

 家族ぐるみの付き合いであった神野家と諸角家がマイクロバスを借りて二泊三日の温泉旅行へと行った帰り道、異形のものに襲われたのである。

 人の背丈を越える体高の、全身から炎を吹き出す牛。後に<火炎牛>という名であると教わったそれはマイクロバスの横っ腹に激突、金属を粘土のように容易く千切り割って貫通した。

 藍佳はそれを、十数年前に暴れていたという<災>かと思った。しかし違うらしい。後で聞いたところでは、魔神の擁する戦力の内の一体が迷い出たのだとか。

 教えてくれた人のことはよく覚えている。半年前、修介の服を買いに行ったよく晴れた日のことだ。白いシャツに黒のスーツ、黒いネクタイの背の高い男性だった。重く低い関西系の響きで告げたのだ。バス待ちの間に世間話として出しただけで素性も分からないのだが、当然のことを口にしているだけといった口調の言葉には妙な説得力があった。

 ともあれ、事故に遭ったときはあまりの事態に藍佳はただ凍りつき、泣き喚いていただけだった。

 爆発、炎上。運転手もそれぞれの両親も、五体がばらばらになった上でまたたく間に炭化していった。

 修介と藍佳は奇跡的に助かった、わけではない。やはり身体が裂け飛んで、燃えて、痛みすらよく分からない中で死に至ろうとしていたのだ。

 だが間に合った。姿こそ見なかったが、魔神ハシュメールのお蔭で<魔人>と化すことによって生き延びたのだ。

 名和雅年を見たのはハシュメールに<魔人>となる提案を持ちかけられる寸前、まだ生きている者のあることに気付いた<火炎牛>が今度こそ確実に葬り去るべく突進して来たときのことである。そのまま<火炎牛>とともに姿を消してしまったものの、当然のように屠ったのだろう。

 それから二人はずっと<伝承神殿>にいる。住んでいた家はどのような経緯があったものか、どちらも既に他人のものとなっていた。

 修介を探しに行って得た成果といえば、そんな益体もないことの確認しかなかった。

 この三日、行きそうな場所は徹底的に探し尽した。かつての住居は勿論、時折使っていたファミリーレストランや駅、駅ビルに入っている各店舗、人間だった頃に旅行で行った場所。

 しかし見つからない。見たという者すら現れない。

 藍佳はついに、最後の手段を取らざるを得ないと認めた。

 <伝承神殿>二十階。

 そこにあるのは一直線の廊下と、その奥のステイシアの部屋だけ。そう、藍佳は認識している。

 鉛のような足で、わざわざ階段を使ってここまで上がっては来たものの、無機質な光景に心がくじけそうになる。

 選択肢は二つ。行くか、帰るか。

 ステイシアの部屋には選ばれた者しか入れないという。かつては四人、今は三人。

 来てはならないとステイシアが口にしたわけではない。しかし、惑ってしまうのだ。其処は神聖な領域であり、侵してはならないのではないかとまずは躊躇してしまうのである。

 無論、だからこそ好奇心を誘われてしまう者もいる。だが今度は、扉が開かない。

 それでも不満は出ない。最近こそ<横笛フルート>への対応に追われてあまり下りては来ないが、それでも合間を縫ってステイシアはロビーで皆と談笑しているからだ。

 不意に身体が震えた。

 いっそ、この間のように最初から余計なことを考える暇もないほど切羽詰まっていればよかった。

 怖い。不安が膨れ上がってならない。それは決して、修介がいなくなったことに対してのものばかりではない。

 しかしこうしていても仕方がないこともまた、分かっていた。

 意を決して歩み出す。廊下に響く靴音はまるで他人のもののよう。近付いて来るドアは、今は閉ざされているというだけの顎に思えて。

 永遠に辿り着かなければいいのに、ほんの二十秒足らずで前へと辿り着いてしまう。

 簡素なドアノブに手をかけ、祈る。

 どうか開きますように。どうか開きませんように。

 矛盾する思いとともに、押す。

 そして扉は、音もなく開放された。






 そこはある意味殺風景な部屋だった。

 何もないわけではない。机を挟んでソファが二台、足元には毛足の長い絨毯が敷かれている。

 ただ、前後左右、果てが見えない。天井も見当たらず、薄闇がどこまでも続いて、仰ぐだけで意識が遠くなってくる。もしも宇宙に放り出されたならば、似たような気分になれるのではなかろうか。

 そして、その中で虚空にぽつりと浮かんでいるドアが異様だった。

 広さは意識の温度を奪い去る。孤独という寒さに耐えられない人間は多い。巨大なホール程度ならば問題はなかったろうが、無限を思わせる空間はあまりに冷たかった。

「……なに、これっ!?」

「私にご用ですか、藍佳さん」

 引き攣れた悲鳴を上げて恐慌を来しかけた藍佳を救ったのは、穏やかな声だった。細いのに、なぜかよく通る。

 ソファから立ち上がり、傍まで寄って来てやわらかに微笑みかけて来た。水色のワンピースの裾がふわりと揺れていた。

「大丈夫、私はここにいます。遠くなんてありませんから」

 藍佳の右手を包んだ小さな両手は暖かく、確かにここにいるのだと教えてくれる。そのぬくもりが意識の中の世界を縮めてくれた。

 恐る恐る見下ろせば、いつもの可憐なステイシア。

「初めてこの部屋に入ったときに驚かなかったのは雅年さんだけです。でも藍佳さんも慣れれば大丈夫ですよ」

 優しく言い聞かせる語調は包み込むよう。やがて藍佳も落ち着いた。

「……入れないって噂、嘘だったんだ?」

「きちんとした用件さえあれば大丈夫です。悪戯や好奇心、世間話をしたいくらいでは駄目ですけど……どうしても寂しくて仕方がないときなんかも来てくれていいんですよ」

 短く整えられた栗色の髪が小さく揺れる。ゆるやかな微笑みを湛えるくちびるは瑞々しい果実のようで、同性である藍佳の意識すら引き込む。

 ずるい、と。この一瞬、何もかもを忘れてそう思う。

「藍佳さん……?」

「あ、えっと……」

 名を呼ばれ、我に返った。ここまで来てしまったのだ。もう引けない。

 用件を口にしようとしたそのとき、予想外の姿を見つけてしまった。

 ソファに座っているロングコート姿の横顔。こちらを見てなどいなくとも判る。この部屋に呼ばれる三人のうちの一人、名和雅年。

 <伝承神殿>には月に数度しかやって来ないはずだ。三日前に見たばかりだというのに、どうして今こんなところにいるのか。藍佳はそう思う。

「なんで……」

「雅年さんですか?」

 こぼれた呟きと視線の向く先から察したのだろう、ステイシアは的確に答えを返した。

「数日前……火曜深夜から水曜未明、<魔人>によって一般人が殺害されました。直接か否かまでは不明ですが、その件に第一級警戒対象の残滓が検出されています。いずれかの閉鎖領域にでも逃げ込んだのか現在は見失っていますが、再捕捉が成り次第対応するため、雅年さんには待機してもらっているんです」

 雅年さんですから大丈夫ですよ、と続けた言葉を藍佳は聞き流した。それよりも気になる単語があったのだ。

「第一級……警戒対象?」

 初めて聞く言葉である。無論、意味は推測できる。今まで自分たちがそんな相手に割り振られることはなかったから覚えがないのだろうということも。

 不意に、背筋に怖気が走った。

「……いやそれよりちょっと待って。さっき、いつって言った!?」

「火曜深夜から水曜未明です。それ以上細かくは測定できていません」

「……そんな……」

 ちょうど修介のいなくなった時間帯であることに気付かぬはずもない。

 人が死んで、処刑人を待機させなければならないほど危険な相手が関わっていて、修介の姿が消えた。巻き込まれたのではないかと考えるのは当然のことである。

 藍佳はステイシアに詰め寄った。

「お願い、修ちゃんを見つけて! いなくなっちゃったの!」

「修介さんがですか?」

 ステイシアは少しだけ目を丸くして、すぐに藍佳の焦り出したタイミングから背景を読み取ってのけた。

「……もしかして、同じ時間帯にですか?」

「そう……どこを探しても全然見つからないの!」

 なぜすぐに言わなかったのかと詰られると思った。しかしこの期に及んでそんなことを気にしてはいられない。

 そして、そんなものを恐れる必要もなかったのだ。

 ステイシアの双眸によぎったのは緊迫の色と、そして藍佳の何もかもを理解したかのような、悲しいほどのいたわりだった。

 藍佳は声を詰まらせた。叱責などいかほどのことだったろう。奈落に突き落とされたかのように思えた。

 罪悪感からなどではない。目も眩むような激情が意識を狂わせる。

 だが、それが露わになるより前にステイシアは静謐な面差しで告げた。

「分かりました。少々お待ちください」

 もう間に合わないかもしれませんが、とは口にしなかった。

 背後でドアが閉じた。

 その音に注意を引かれた一瞬で、ステイシアは目の前どころかソファよりも向こうに在った。

 装いも変化している。

 華奢で小柄な体躯を包むのは、今や幻想じみた白と赤の貫頭衣だ。目に痛いほど白い両手を祈るかのように組み合わせ、まなざしを伏せている。

 その姿は有無を言わせぬほどに『神官』だった。今まで握られていた手のぬくもりが幻であったような気がして、無意識に藍佳は両手を擦り合わせた。

接続アクセス…………『ハシュメールの<魔人>帳ミンストレル・ノート』」

 澄んだ声が虚空に響く。

 そして、薄闇に光が浮かび上がった。淡い輝きではあるが、それでも薄闇を黒にして完全な背景としてしまう。ちょうどスクリーンを見上げているかのようだった。

 人の姿と文字とが流れてゆく。映像は次々に切り替わり、一秒たりとも留まらない。よく見てみれば、隅には地図と光点も表示されていた。

 推し量るのは簡単だった。

 領域内の<魔人>とその情報、そして現在地。この三日間は一体何だったのかと思うほど速やかに、容赦なく暴き立ててゆく。

 藍佳の顔が光でまだらに染め上げられる。

 大きく息を吸い、吐けば少しは落ち着いて来た。

 今、大事なのは修介を見つけ出すことである。ステイシアに任せておけば間違いない、はずだ。たとえ気に食わなくても堪えなければならない。

 そう自分に言い聞かせながら待つうちに、やがて映像が動くのをやめた。

 映し出されているのは修介の姿だ。横に見えていた文字列が消えたのが最後の変化だった。

 そして、地図もない。

「どうやら探査領域内にはいないようです。既に外へ出たのか、あるいは閉鎖領域に入ってしまったのか……」

「役立たずッ!」

 すべてを聞き終わる前に、そんな罵声が口を衝いて出る。

 しかしステイシアはそれを真正面から受け流し、続けた。

「かくなる上は時間軸も加えた走査を行います。大規模な構成にならざるを得ませんので、雑音ノイズを極力除くため、お二人には部屋を出ていただけますか?」

 こちらを見詰める瞳は、やはり気遣いを含んだものだ。

 藍佳のくちびるが震える。言おうとしたことは声にならず、やっとのことで口にしたのは悪態にも近い言葉だった。

「……今度こそ見つけてよね!」

 何も考えていられない。思考が滅裂で、続かない。

 乱暴にドアを開け、藍佳は逃げ出すように部屋を後にした。

 遅れてロングコートの姿もソファから腰を上げる。

「僕も見たのは初めてだったが、構わないのか?」

 低く、小さく、それでいてステイシアには届くように。

 背を向ける直前、雅年がそれだけを問う。

 先ほど藍佳にも見せた光景は、ステイシアがその気になれば領域内にいる<魔人>の個人情報と居場所を調べ上げることができるということを示唆する。自分たちの情報を掌握されているのだと気付くのは難しいことでもない。反感を抱く者もいるだろう。

 それは、ステイシアにとって望ましい展開ではない。見せることで藍佳が安心を得るよりも、むしろあの時点で自分たちを退室させていた方がよかったのではないかと、雅年は言っているのだ。

「……是非もありません。なんとかします」

 ステイシアはその意図を正確に読み取り、微笑んだ。

「でも、あなたが心配してくれたことが嬉しいです……」

 消え入りそうな声は自身にしか届かぬほど儚く、果たして聞こえたのか否か、遠ざかるコートの背は何も応えなかった。

 ステイシアはそっと目を伏せる。微笑みは寂しげに移り変わり、けれど消えることもなかった。





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