この手、繋いだならきっと・九
欧州に小国が一つあった。
歴史は浅い。<災>の大量発生による混乱に乗じて建てられた国であり、そのため元々所属していた国からは勿論のこと、周辺諸国にも真っ当な国であるとは認められていなかった。
それでも彼らは団結をもって国たることを維持していたのだ。
そんなある日のことである。
菓子屋の男が死んだ。女性へのストーカー行為の果て、直接的な接触に及ばんとして反撃に遭い転倒、頭部を強打したのだ。即死でこそなかったものの、適切な処置が遅きに過ぎた。
その死は事故として扱われた。女性の落ち度はすぐに救急車を呼ばなかったことくらいであり、状況や精神状態を鑑みてもそれを求めるのは酷だと警察は判断した。
しかし男の妻は違った。殺されたと思った。
被害者、あるいは加害者の女性は国の有力者の娘だった。だから不当な扱いになったのだと思った。
事実、そういった要素がまったくなかったわけでもない。けれども菓子屋の妻以外には納得できる結果だった。
怒り狂う妻。しかし望みは果たされない。
そんなときに、東洋人らしき男が現れて言ったのだ。お前さんの気持ちは分かる。悪は裁かれなきゃあならん。俺が殺してやろうか。
そうして妻の願いは果たされた。
次に悲嘆に暮れたのは、娘の首をねじ切られた有力者である。下手人の足取りはまったく追えず、時間だけが過ぎてゆく。
そんなときに、東洋人らしき男が現れて言ったのだ。お前さんの娘を殺させたのは菓子屋の嫁だ。理不尽だな、実に理不尽だ。俺が殺してやろうじゃないか。
そうして有力者のせめてもの溜飲は下げられた。
次に胸を掻き毟ったのは、菓子屋の妻の兄だった。
彼の前にも東洋人らしき男が現れる。権力者ってのは恐ろしいもんだ。しかしお前さんじゃあ手も足も出せんだろう。俺が代わりに殺して来てやるよ。
そうして死と恨みとが連鎖する。
まことしやかに噂が流れる。
姿なき暗殺者がいる。
そいつは憎い相手を殺してくれる。
そいつはどんな相手でも殺してくれる。
男も女もない。大人と子供もない。軍人も民間人もない。ただ粛々と一人ずつ、怨讐を匂わせながら人が死んでゆく。
恨みは、あるいは重大であったり、またあるいは下らなかったり、逆恨みであったり、濡れ衣であったり。
そのうちに東洋人の男は要らなくなった。人々が自ら殺人に手を染め始めた。何もかもが狂い、狂気が正気となって、その正気にこそ安心を求め始めた。
地獄が作られた。
<災>には精神を直接破壊する能力があるのではないかと他国に誤解せしめた、『
「幼馴染が擦れ違いから殺し合う……悪くないシチュエーションだ」
前を開けた黒のインバネスコートが揺れている。地面に落ちた影もゆらゆらと。
歩み寄って来る足取りは暢気、しかし確実に。そしてそこに音はない。
「一応期待はしながら見てたんだが……まあ、最初っから痴話喧嘩にしか見えんかったからな、当然の帰結か」
「……師匠?」
よく分からないことを言っているが、<鴉>である。多少けれん味ある物言いをするのは偶にあることだ。<鴉>一流の諧謔なのだと修介は思った。
藍佳の手を離して背を伸ばし、向き直ろうとする。
「もう用事は終わったんですか?」
「だめ、修ちゃん離れて!! 逃げなきゃ……!」
しかし今度は藍佳が腕を掴んで引っ張った。
その切羽詰まった様子に戸惑う。
「いや、あの人は俺に色々教えてくれた人で……」
「最初に言ったじゃない、凄く危ない奴が来てるって! それがあいつなの、あたし写真まで見せてもらったんだから!」
「あー、いや、その……危なくないとまでは言えないけど……」
<鴉>の仕事が復讐代行業であることを思い出し、少し言葉を濁しつつも修介は続けた。
「<ギルド>の人で、通称<
「違うの! <ギルド>なんかじゃないの!」
藍佳が揺さぶって来る。あまりの剣幕に修介も戸惑いを隠せない。
藍佳は思い込みが激しいため、言うこと全てを鵜呑みにすると碌なことにならないのだ。だから何が正しいのか取捨選択しなければならない。
そして今回、口にしたのは突拍子もない内容だった。
「あいつは<
修介も知っている名だ。
<
それは主に魔神リュクセルフォンによって成った<魔人>たちによって構成された集団である。
リュクセルフォンは、“<反逆>の”と枕詞を置かれる。体制や秩序、強者へ反逆しようとする者を非常に好むのだ。そのため彼女が<魔人>にするような人間はその大半が事実上のテロリストと化すのである。
そして<
人間社会へ明らかに知らしめてしまった<魔人>は消滅する、その法則に阻害されていなければ、あとは個々で好き勝手に動くことが多いという欠点がなければ、人類を阿鼻叫喚の地獄に叩き落としていたことだろう。
活動域は欧州を中心に西アジアと北アフリカまで広がり、構成員も大抵はそのあたりの出身だ。とはいえ、元は日本人であった者も十名に足らぬくらいはいる、とは聞いたこともある。
しかしだ。
「そんな、まさか……」
修介の頬に軽く浮かんだ笑みは、信じたくないという思いの表れ。
そしてその思いを後押しするように<鴉>がひらひらと手を振った。
「いやいや、俺は<ギルド>の<
一呼吸。
修介は頷き、藍佳は否定しようとし、しかし<鴉>は僅かに早く続けた。
「ただまあ、そっちは表向きの顔でな。本来の所属は<
ごく軽い調子だ。どうでもいいことを言い忘れ、補足した程度のものである。
担がれているのか。最初はそう思った。しかし藍佳の手に籠もった力、震えが逃避を許さない。
<鴉>を見て、藍佳を振り向いて、また<鴉>に向き直って。
まさか、という思いを殺す。不思議ではない。<鴉>は元より、飄々と殺しを行う危険な男だったではないか。
事実が何であるのかを、修介は理解した。
喉まで出かかった言葉を、すんでのところで飲み込む。
<鴉>は嘘を吐いたわけではない。すべてを語らなかっただけである。しかも出会ったときにわざわざ近付いたのはこちらなのだ。
自分が目を曇らせていただけで、決して不条理な事実ではない。
「騙された、とは言わんか。悪くない。泣き事垂れるだけが能の
修介の心を読んだかのように<鴉>は薄く笑った。
「しかし実にいい顔をする。必死に歯を食いしばる、素晴らしい
「……否定はしません」
この三日、ともに過ごしたことを修介は忘れていない。教わったことを忘れてはいない。
<鴉>は紛うことなき兄貴分だった。どこか憧れるところもあった。
暴れ出そうとする胸の内を抑え込み、その力を視線へ乗せてゆく。
うろたえてはならない。藍佳を守るというのなら、逆上して突っかかってゆくような真似は決して行ってはならないのだ。
「ああ、いや。否定、しない」
言い直したのは、<鴉>と<鴉>に心を残す己へ決別を告げるためだ。
今をもって敵対するのだ。
その意図を察し、<鴉>は見栄を切るようにインバネスコートを翻してみせた。風に吹かれた木の葉の如くにぶわりと広がる黒、周囲を埋め尽くしたそれは羽根だ。
「改めて自己紹介しておこう。<
アンドラスとは、ソロモン七十二柱にも数えられる大悪魔である。
その姿には諸説あるが、一つ挙げるならば黒い鴉の頭部をして魂も震えるほど鋭利な剣を持ち、黒い狼に騎乗する天使の姿を取るとされる。侯爵、あるいは公爵であり、三十の軍団を率い、不和を撒き、殺戮を好む。
この世界に神話や伝承に語られるような存在はなく、人の想像力が創り上げたものでしかない以上はその情報もただの設定に過ぎない。しかし無意味というわけでもまた、ないのだ。
「なに、性格から安直につけられただけで、設定上の格だとかソロモン王だとか地獄の宮廷だとかはまったく関係ないから安心しろ」
<鴉>、もとい<
修介はアンドラスという響きに聞き覚えがあるだけだ。どのような悪魔とされるのかなど知らない。それでも碌でもないものなのであろうことくらいは予想がついた。
「何が目的だ? さっきの奴もあんたの差し金なのか?」
じとりと脂汗が浮く。黒の羽根は既に周囲を覆い尽くし、逃してくれそうにはない。藍佳が逃げようと言ったときに従っていれば間に合ったのかもしれないが、もう遅い。
<
「さっきのは同僚の……ま、趣味も兼ねての実験ってところだろ。どうせお前にとっちゃ大した意味はない。でもってお前を教えたのは正真正銘、下見のついでに暇潰しをしただけでな。特に敵意も悪意も持ち合わせてないんだが……まあ、あわよくばお前を<
修介は無言のまま、強張るほどに硬く口を引き結んだ。
いつものままの雰囲気に戸惑いを伏せ切れない。ともに過ごした記憶が邪魔をする。
<
「だが正直、仕立て上げるにも興は乗らなかった。なぜならば、どうやらお前は<
その様は修介に種々の知識を伝授していたときとまったく変わらない。さほど早く喋るわけではないが、ほとんど途切れず割り込めない。
表情からも、何を考えているのかを察するのは難しかった。
今、このときまでは。
「だがやはり日本はいいな。魔神が現れる前と変わらんくらいに平和だ」
口の端が大きく吊り上がる。太く大きな歓喜の表情。纏う気配は闘志。覇気溢れる雄々しい顔で、続けて口にしたのはおぞましいまでに邪悪な言葉だった。
「壊し甲斐がある。気も狂わんばかりの憎悪を露わにさせてやりたい。子が泡を吹きながら母親を殺すんだ。父親が醜い顔で子を殺すんだ。すべての尊い約束は破壊され、狂わねえ警官がいたなら、そいつは慈悲のために絶望しながらも気丈に人々を射殺して回る。そんな未来だ」
堪えようもなく、修介の身体が震えた。藍佳もいっそう強く腕を握って来る。
<
三日間で時折目にしていた、独りで何もかもを薙ぎ倒して望みを果たしてしまいそうな顔で、<
「お前にも感じるところはあるだろう。幼い頃にものを壊すことを好むのは誰しもが通る道だ。それは消えるわけじゃあない。人間の基幹を作る一つだからな。当然、<魔人>も同じだ」
<
「反論は、まあ、あるだろう。言わなくていいぜ、聞き飽きてる。今は小難しいことを考えるより、隣のを気にかけとくこった。守るんだろう?」
「……ああ」
広く戦場を形作るように周囲を埋め尽くす、黒い羽根。それは道路の向きを長軸とした楕円を為し、半球状に上空すら覆っている。<
同時に、道を指し示してくれる師としての響きが残っているとも思える。
しかし違うのだろう。次の台詞を、修介は予測することができた。
「そして引き裂くんだな」
「俺は平和も絆も大好きだ。そいつがあるから壊すことができる。喪失の陶酔は愛してこそだ。現状、お前たちが美味いかどうかは……まあ正直怪しいもんだが、割と胸は躍るね。仮初めにとはいえ、お前は俺の弟子だ。それが、狂わんばかりに俺を憎むようになるかもしれんわけだ」
<
だが、解せない。
「俺たちに手を出したらまずいんじゃなかったのか?」
<闘争牙城>内で格下を襲えば死ぬ。それは<
腹の底が冷たい。<
慄く修介を<
「抜け道があると言ったろ? どうして確かめなかった? そうすれば教えてやったのに。雛のように口を開けて待ってるだけってぇのはいかんな」
悪態をつく余地もなかった。
要は今も、何もかもが足りていなかったということなのだろう。たった三日で掴めるものなど、強さの中のほんの僅かでしかなかったのだ。
だからといって諦められるわけがない。
「修ちゃん……」
「安心しろ、お前を守るって言っただろ」
嘘ではない。成し遂げられるか否かは別として。
藍佳がどんな顔をしているのかは判らなかった。振り向く余裕はない。一瞬たりとも<
しかしその手もゆっくりと離させる。
全身を撓める。速さを求め、力を溜める。
「さあ、その誓いを事実にしてみせろ」
謡うが如き愉悦の響きとともに、<
ふわりとした動きで、するりと距離を詰めて来る。
「言われなくても!」
それに対し、絶望的な思いとともに修介は正面から迎え撃った。
後ろへは下がれない。横へもかわせない。そんなことをすれば藍佳への道を作ってしまう。
その場に止まるのも愚策だ。修介が<
だが、消去法で選ばれたに過ぎないこの行動に勝利への道筋など見出せなかった。
そしてぶつかり合うまでに浮かぶわけもない。修介の拳はあえなく空を切り、<
あとは貫かれるだけだと修介は思った。あの金色のクラウンアームズに抉り殺されるのだ。
しかしそれは同時に最大のチャンスでもある。<
刹那の空白。
襲いかかったのは衝撃。
比喩ではなく、全身に浸透するかのような。
「っ!?」
為すすべもなく修介は吹き飛ばされ、今度は戦場を括り出す羽根が背を切り裂きながら絡め取る。
「修ちゃん!?」
「この程度で!」
駆け寄って来たのか、すぐ傍に藍佳の悲鳴。修介は崩れ落ちる前に踏み止まった。
加速した意識の中、ともすれば霞みそうになる両目を叱咤、今一度<
素手。光がない。
あの金色のクラウンアームズを、<
「……そうか」
格下に仕掛けるための抜け道があると<
おそらくはクラウンアームズなのであろうインバネスコートがそのままであることを思えば、少なくとも攻撃に用いることができないという制約を負っているのかもしれない。
目が出て来た。勝てはせずとも、稼げる時間は増えた。
「修ちゃん?」
「羽根を突っ切って逃げろ、藍佳!」
伸ばされた手を振り切り、そう言い残して修介は再び急加速する。隅に追い込まれて機動力を生かせなくなってはおしまいだ。
一方で<
「ちっ……」
待ち構えられることを嫌い、修介は途中で制動をかける。とにかく時間さえ稼げばいいのだ。あちらから来ないならば無理に仕掛けることはない。
妥当なつもりで下した、その判断が間違いだった。
動きが止まろうとした瞬間、絶妙な呼吸で<
修介ほどに速くはない。しかし停止することに力を費やし切った状態からでは即座に対応することは不可能だった。
再度の衝撃。網膜に焼きついた<
上下左右が分からなくなる。地面を散々に転がり、また背中を羽根に裂かれる。
藍佳もただ見ていたわけではない。修介の背に隠れつつ、停止しようとしたときに追い越して襲撃を加えていた。しかし<
「中途半端はいかんぜ、弟子よ。抜かば斬る、抜かずば斬らぬ、決めとけよ。お前の戦り方は動き始めた時点で鞘走らせてるようなもんなんだからな」
飄々と、<
「ついでに小娘、いい鋭さだ。不意打ちになってりゃかわせんかったかもしれんが……読まれてたんじゃあちと無理だ」
追撃は来ない。<
羽根は逃げ道を塞いでいるだけではない。左右の建造物をも覆って足場となる場所を排除している。これでは得意の多角攻撃は選択肢に入れることも難しい。
強い。頼りなく震える脚を自ら軽く打ち、修介は改めてそう思った。
力強い。ただしそう極端にではない。
それなりに俊敏でもある。しかし自分ほどではない。
藍佳よりも業に長けている。けれど絶望的な差があるわけではない。
<
核となっているのは、おそらく経験である。<
やはり、どう考えても勝てる気になれない。
だから叫ぶのだ。
「逃げろって言ってるだろ!」
<
藍佳が逃げてくれなければここで足掻く意味がない。
しかし、返って来たのはきっぱりとした拒絶だった。
「修ちゃんを置いて逃げられるわけないでしょ! こうなったら戦うしかないんだから!」
藍佳は滑るような足取りで動き出す。弧を描くように、<
「しかないってことはないだろ!」
修介もそれを放っておくわけにはゆかない。こちらからも攻撃を加えなければ容易く対応されて藍佳が危険に晒される。
前後からの挟撃。けれど呼吸は合わない。<
<
何が起こったのか、修介からはよく分からなかった。ただ、藍佳が真上へと打ち上げられたのだけが目に映った。
動きのとれない空中、あとはどうとでも料理できる。
間に合ってくれ。声ならぬ叫びとともに修介は跳躍、藍佳へ右手を伸ばす。
下からは得体の知れぬ、ざらりとした気配。藍佳の手首を掴んでそのまま掻っ攫おうとした瞬間、掴んだその腕が断ち切られた。
痛みを感じている余裕などなかった。右腕を復元しつつ咄嗟に左腕で抱きかかえ、なんとか着地する。
「何やってるんだ!?」
よろめきそうになるところを踏み止まり、修介は掴んだ藍佳の肩を力の限りに揺すった。
「俺が守るって言ったじゃないか! お前が傷つくのなんて見てられないんだよ! 俺はそのために<魔人>になったんだ!」
それは願いだった。いつしか持ち始めた願いだった。
揺るぎなかったわけではない。だから不貞腐れもした。それでも胸の奥にずっと息づいていた想いだった。
息絶えようとしたとき、自分が死んでしまうことよりも、守れなかったことを悔やんだ。もし機会が与えられるならば、今度こそこの手で守りたいと切望した。
幼馴染。勝気な女の子。<魔人>となって姿は変わってしまったけれど、この気持ちは変わらない。
「だから藍佳……」
「やだ」
お願いだから逃げてくれ、その言葉は口にするまでもなく切って捨てられる。
「修ちゃん、死ぬ気でしょ。嘘ついてもだめよ? あたし判るもん」
「俺の力は見せただろ……?」
「勝てるとは思えないし、そもそもそんなの関係ない」
黒い瞳が見詰めて来る。強引な物言いはいつものものだ。理屈など無視して、藍佳は決まり切ったことのように想いを告げる。
「あたしだって修ちゃんが傷つくのなんて見たくない。あたしはそのために<魔人>になったんだから」
まるで鏡写しのようだった。互いが互いを守りたいと、そう言うのだ。
藍佳が小さく笑う。くちびるが僅かに震えていた。
「……奇跡みたいなものなんだよ、あたしたち。願いが叶う可能性なんてほとんどなかったのに」
<魔人>と成れる素質を持つ者は五人に一人もないという。二人ともが助かる可能性は高く見積もっても二十五分の一。奇跡とまで呼ぶのは大袈裟かもしれないが、現実としては絶望的な数字である。
「……分かるよ? 男の意地とかそういうの、よく分かんないけど分かる。でも諦めないで」
「俺は諦めてなんかない!」
あの事故のことを思い出し、修介は強くかぶりを振った。今度こそ守り抜くのだと。
しかし藍佳は静かに告げる。
「違うよ、諦めてるからあたしを逃がそうとするの。勝てないと思ってる」
「それは……」
図星である。確かに、勝てるわけがないと修介は判断していた。
しかしこの判断は間違っていない自信もある。自慢にはならないが。
「勝つ気だけじゃ勝てないんだ、藍佳。勝てるとは思えないってさっきお前も言ってたろ?」
「それは修ちゃんだけだったらだよ」
「お前が加勢したって結果は変わらない。そんな甘い相手じゃない。連携だとか、そんなもので攻略できる相手じゃないんだ」
ぶつかる意思は、傷つけ合うわけではない。諸角修介を神野修介、神野藍佳を諸角藍佳へと、照れながら入れ替えた苗字のように絡み合う。
強気な言葉とはうらはらに、藍佳のまなざしは縋るような揺らぎを湛えて見上げて来た。
「……絶対に置いて行かないって修ちゃん言った」
「…………確かに言った、けど……」
修介は言葉を濁す。突き放さなければならないと理性は告げ、勿論離したくはない。
「けど、だな……」
「あたしは奇跡を諦めない。修ちゃんとあたし、二人揃ってないと意味ないもん。でも、あいつほんとに強い。だからステイシアの言う通り……やっぱりこれしかない。勇気、出す」
囁くように、藍佳。
見詰めて来るまなざしは、いっそ熱に浮かされたように潤んで。
「諦めないで。怯えないで。勝ちたい、でいいんだよ。あたしをあげる。勝たせてあげる。修ちゃん……あたしの修介……」
その足元から蒼い光が溢れ出し、周囲を染め上げた。
しかし驚いている暇はなかった。藍佳の両腕が伸ばされ、修介の首筋を捉えて逃げることを許さない。
少しの背伸び、くすぐる吐息、そしてやわらかな感触。
幼い頃の仕返しのよう。だが今、触れ合うのはくちびるだ。
押し付けるだけの口づけに、鼓動が一度だけ、痛いほどの強さで跳ねた。
異様な感覚。何かが体内で暴れ回っているような。
藍佳が修介の胸をそっと押した。離れてから、もう一度囁く。
「……ずっと怖かったんだ。もしも失敗しちゃったら、修ちゃんが受け入れてくれなかったら、あたし、どうしていいか分からなかった。だからできなかった」
「藍佳、これは……」
言葉の意味も、身体を満たす力も、理解し切れぬままに修介は幼馴染の名を呼ぶ。
藍佳は屈託ない笑顔を見せた。
「それは資格。契約の証。あたしの
「資格……?」
断片的に示された答えと藍佳の
しかし自分の中に新たに息づいたものが行うべきことを教えてくれた。
自然とゆるやかな笑みが浮かぶ。
藍佳も強く頷いた。
「あたしたちは決して強くはないけど」
差し出される右手。甲を上にして、エスコートを求めるように。
修介は力強く受け、引き寄せた。
「この手を繋いだなら、きっと誰にも負けはしない」
溢れ出して来る。互いのぬくもりがすべての惑いを溶かし、無限の勇気を与えてくれる。
抱かれた藍佳が<
インバネスコートの男は手出しする様子もなく、面白そうに笑っているだけだ。圧倒的な強者として。
藍佳はまなざしも鋭く、最大限の敵意を叩きつけた。
「あんたなんかにあたしの修ちゃんは負けない、絶対に!」
そして次に口にするのは、名乗り。厳かに、誇らしげに。
「“
そして受けて続けるのは修介。短く鋭く、想いの全てを込めて。
「……
眩いほどに膨大な蒼の光が埋め尽くす。
あるいは物理的な圧力をもっているのではないかと思わせるほどに重い輝きだ。
その中に浮かび上がる人影は今やひとつ。
一振りの剣を手に、消えゆく光の残滓を振り払い、修介が力を纏う。
美しい剣だ。背丈の半ばを越える剣身は鉄色の中にもほのかに青みがかり、そのものが光を放つよう。拳四つ分もある柄には褐色の皮らしきものが巻きつけられている。そして御守りが一つ、鍔のすぐ下で揺れていた。
『藍佳』から、言葉ならぬ意思が流れ込んで来た。ステイシアがどのような指示を行ったのか、この力がどういったものなのか。
一度、口許が泣き出しそうに歪んだ。
修介は左手で剣の腹にそっと触れた。
「……行こう、藍佳。勝とう」
できるはずだ。
この手、繋いだならきっと。
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