この手、繋いだならきっと・四






 修介にとって、藍佳は不思議な存在だった。

 幼い頃から見るからに小さくて可愛らしい女の子だったのに、恐ろしいほどに気が強かった。

 いや、気が強いと言うと語弊がある。修介が大人しく言うことを聞いている限りは優しい『姉』であり、逆らったとしても強引なくらいで怖いわけではなかった。

 ただ、ちょっかいを出して来る同級生や上級生に対しては本当に苛烈だった。あの小さな身体で信じられないほどの気迫とともに誰も彼もを追い返したものだ。

 頼もしかった。




 小学校の高学年になる前くらいまでは無邪気にそう思っていられた。












 揺らぎを抜けると、眩い光が瞳を焼いた。

 高い高い、雲一つ見当たらない空の下、広がっていたのは清潔な街並みだった。

 六車線の道路の脇には瑞々しい街路樹が配置され、さらに歩道を挟んで喫茶店、ブティック、宝石店、銀行、その他諸々。少し外れたところには探偵事務所の看板まで見られる。

 胸いっぱいに吸い込む空気が清々しい。見渡す景色にごみなどひとつもない。ひとつだけ存在する不似合いな建物さえ除けば、すべてが煌めいていた。

「これは……」

 修介は圧倒されていた。

 <鴉>に連れられ、導かれるままにやって来たこの場所は、数秒前までは薄汚い路地だった。

 とはいえ似た現象に心当たりがないではない。<伝承神殿>に入るときと同じなのである。

 果たして、インバネスコートの背は告げた。

「驚くことはないだろ。<竪琴ライラ>本拠の同類だ。魔神、<天睨>のイシュが創り出した閉鎖世界だよ」

「驚きますよ。<伝承神殿>より間違いなく広いし、店屋とかもあるし」

 興奮した修介の声に対して、返って来たのは対照的な苦笑だった。

「<伝承神殿>の中がどうなってるのかは知らんが、まあ、広いのは広いだろうな。ただ、店なんざ全部偽物だし車も走ってないだろ? ほとんどのものがただの背景に過ぎんよ。あ、自販機はなぜか稼働してるが。ありがたいこった」

「……そういえば」

 言われて初めて気付いた。確かに、人の姿はまばらに見られるものの自動車の類はまったく見当たらない。自動販売機のことはともかくとして。

 そしてそう思ってみれば、汚れの見えない街は不気味なほど無機質に思えた。

「ここは、何なんですか……?」

「<闘争牙城>……知るものぞ知る、欲望と渇望に衝き動かされた<魔人>の遊び場さ」

 足を止め、肩越しに振り向いた<鴉>が太い笑みを見せた。




 <闘争牙城>とは<魔人>のための決闘場である。

 此処には、四つの規則が存在する。

 一、『決闘』は一対一に限る。

 一、『決闘』は両者の同意によって発動する。

 一、勝者は敗者に、意思無き物をひとつ要求し、奪うことができる。

 一、向上心のない者には死あるのみ。

 入って来たその目の前に高札よろしく立てられた掲示板にはそんなことが書かれていた。

「<天睨>のイシュが定めた、この閉鎖世界の法則おやくそくだな。まあ大体予想はつくと思うが、こんなとこに来る奴は大抵物欲に目が眩んでるわけだ。中には戦闘大好きなんてジャンクもいるわけだが」

 飄々と<鴉>は解説する。

 その横に並びながら修介は疑問を口にした。

「こんなところがどうして今まで<竪琴ライラ>に見つからなかったんでしょう?」

 初めて見る景色であるのはもちろん、こんな場所が存在するのを聞いたことすらない。

 どうやって逃れていたのだろうかと、そういう意図だったのだが、回答は予想外だった。

「お前が知らなかっただけで<竪琴ライラ>が知らんはずないだろ。ただ、どう考えても滅多に用なんぞないだろうからな」

「……でも」

「<竪琴ライラ>の基本は、人間社会に迷惑な<魔人>を排除することだろ? 正真正銘<魔人>同士が勝手に潰し合うだけのこんなとこに来るのは、標的が逃げ込んだときくらいだろうよ。特性上、そういうときでさえ入って来るかどうか怪しいくらいだ」

「でも……」

 知らされすらしないというのはおかしい。修介はそう思う。

 しかし<鴉>は笑うのだ。

「言っとくがな、ここにいる連中は欲望全開な分、容赦ないぞ? 性能スペック以前に物の考え方がえげつない。今のお前なぞ多分いいカモにしかならんレベルだ」

「知ってるからって、迂闊に踏み込んだりしません」

 馬鹿にされたような気がして、少し荒い口調で言い返す。

 反射的に出た言葉だった。

 だから、からかうような<鴉>の指摘に声を詰まらせた。

「いいや、するだろうな。現にお前は今、味方よりは敵に近いはずの俺の隣を歩いてるわけだ。模範的な<竪琴ライラ>とは言えんよ」

 反論できようはずもない。本来望ましくないことだと自身でも理解はしている。

 それでも胸にわだかまる思い、指の先まで焦がすに至った望みは止めようがなかったのだ。

「当たり前だが責めてるわけじゃあない。俺は<竪琴ライラ>じゃないからな」

「それは大体分かってますけど……」

 慰められても気は晴れない。<竪琴ライラ>である自分が嫌なわけでもないのだ。現状はあくまでも、背に腹は代えられぬと判断してのことだ。

 修介の思いを知ってか知らずか、<鴉>は朗らかに続けた。

「まあそんなわけで、ここなら<竪琴ライラ>に見つかり難い上に、存分に力も揮える。注意事項としては、絶対に『決闘』を受けないことだ。同意さえしなけりゃ成立しないからな。逆に、同意しちまったら俺が傍にいたって止められねえ。そいつがここのルールだ」

「はい」

 朝から今に至る数時間で分かったことがある。

 <鴉>は比較的親切だ。細々としたことには無頓着だが、大事なことには気を配ってくれる。

 不干渉ではなく、過干渉でもなく、むしろ小学校から高校までの教師たちに対するよりも、修介にとってちょうどいい塩梅だった。

 と、そこで修介はふと思い当たった。

「でもこれ、『決闘』以外に襲われることはないんですか?」

 『決闘』には同意が要るとはあるが、『決闘』でしか戦闘にならないという文言はどこにも見当たらない。

「……あー……可能性としてはないこともない。ただ、向上心ない奴は死ねって一文があるだろ? これ、別にネタで入ってるわけじゃなくてな、『決闘』でもないのに明らかな格下に喧嘩売ったら死ぬんだよ、洒落抜きで」

 <鴉>はひらひらと手を振った。

「外でもあるだろ、一般の人間社会に明らかに知られた<魔人>は消えるってのが」

「そう言いますね。見たことはありませんけど……」

 有名な話ではある。しかし修介は作り話ではないかと疑っていた。

 今の世界は十数年前から起こり始めた異常に慣れることによって、まだ揺れている天秤をつり合っているかのように錯覚しているのだ。その錯覚は何かあれば容易く崩れ去ることだろう。

 いかに魔神が社会に知られているとは言っても、人間を<魔人>などという存在へと変えることが出来るということまで広まってしまえば大きな混乱が起こる。

 なりたいと望む人間はきっと多い。おぞましいと非難するであろう者も間違いなく多い。煽る者もいるだろう。それはやがて、人の世界を崩しかねない。

 だから、それこそ<竪琴ライラ>の広めた嘘なのではないかと思っていたのだ。

 しかし<鴉>は修介の認識を正面から否定した。

「あれはな、正真正銘の事実だ。俺は同僚が消えるのを見たぜ。黒い何かに呑まれるんだ。白昼夢みたいな光景だったよ」

 口の端を歪め、続ける。

「だからここのも冗談抜きだ。一方的にやられちまうような相手に襲われることはない。まあ……抜け道もないわけじゃないんだが、お前独りを相手に実行するのは事実上不可能だ。逆に、お前が強くなりたいと思わなくなったら死ぬんじゃねえかな。知らんけど」

「……物欲満載って向上心なんですか?」

「イシュ的には向上心なんだろ。趣味は自由だ。俺たちはそれに反しないようにしときゃいい。っつーか魔神の感性は絶妙なところで人間とずれてるっぽいからな、同じだと思ってると痛い目見るぜ?」

 どこか投げ遣りな口調の<鴉>。

 そして話を戻すと宣言することもなく、前方を指差した。

「ああちなみに、ここから真っ直ぐ行った先に見えてるあのくそデカい建物が決闘場だ」

「……だと思いました」

 最初から、それは目に入っていた。

 コロセウムだ。それも、石造りで古びた雰囲気を醸して、綺麗な街とは極めて不釣り合いな。

 しかしだからこそ、話を聞いた今は生きて見えた。

 怒号のような歓声がここまで響いて来る。

 修介は腹の底から湧き立つ思いに身を委ねた。武者震いが止まらない。それは痺れるほどの快楽だった。

 口許に浮かぶ笑みは、隠そうとも思わなかった。












 陽光を切り裂いて疾駆する。

 重力など知らぬかのように身軽に跳躍し、窓枠程度を足がかりに急制動、まったく別の方向へと切り替える。

 視界に映る景色もめまぐるしく変化するものの、修介はそれを問題としない。

 <猟犬ハウンド>と呼ばれるのは速度や機動力だけが理由ではない。

 余程意表を突かれない限り、修介の五感は標的を一瞬たりとも失わない。常に意識の中心にあって追い続けるのだ。

 今回の標的は<鴉>。道路の中央に佇んでいる。

 黒のインバネスコートを纏ったその身は、油断しているようにしか見えない。構えもとらず、棒立ちなのだ。

 しかし修介に怒りは湧かなかった。きっとそんな状態からでも凌いでくれるのだろうという期待が膨らみ、胸を満たしていた。

 考える。どこから仕掛けようか。少なくとも前方からでは駄目だ。

 <鴉>を捉えたまま、周囲の地形を理解してゆく。立ち並ぶ店、街路樹、中央の道路。その中で、最適と思われる場所をついに見つけた。

 最後に踏んだのは<鴉>の真上の信号機。死角から下方へと己が身を蹴り出し、回転までも加えた肘打ちを脳天をめがけ叩き込んだ。

 <魔人>であるがゆえの異常なまでに引き伸ばされた時の中、標的が近付いて来る。

 <鴉>はその場を動かない。ただ、無造作に右手だけを上げた。

 絶妙だった。降下速度と肘打ちの速さ、位置。その全てを承知していたかのように、力が乗り切る前に黄金の手袋は修介の一撃を受け、そのまま斜め右へと流したのだ。

 身体の制御を失った修介はそのまま地面に叩きつけられ、息の詰まるような苦痛の中、為すすべもなく転がってブティックのショウウィンドウにぶつかって止まった。

「無駄に跳ね回るな。撹乱しているつもりなのかもしれんが、仕掛けて来る瞬間だけを待ってた俺にゃ何の意味もない」

 インバネスコートの裾を揺らし、<鴉>が歩み寄って来る。

「ま、スピードは大したもんだったがね。戦格クラスランク合計は六……いや、七ってとこか。これでもし<王の武具クラウンアームズ>持ちだったら神官派でも割と上位の性能スペックだったろ」

「……あんなにも見事に受け流されるとは思いませんでした」

 修介は苦痛を堪え、身を起こしながら応えた。速いと褒められてもあまり喜べない。

 それを聞いた<鴉>が苦笑を浮かべた。

「ああ、やっぱりお前の弱点はそこか。なに、簡単な話だ。四割くらいの確率で真上から来ると思っていたからな」

「え?」

「どうして俺の頭上に都合よく足場があったと思う?」

 からかうような調子が、今の固まった思考では駄目なのだと教えてくれる。

 一度頭を真っ白にしてから考え直せば正解は容易く出せた。

「わざわざ信号機の真下に立ったから、ですか?」

「自分の都合ばかり考えるなってことだ。性能スペックだけで勝てるもんかよ。相手の行動を誘ってコントロールすることも知らないようじゃ、どれだけ身体能力が高くても三流は抜けられんだろうさ」

 <鴉>は頷き、まだ尻をついたままの修介を見下ろす。

「しかしなるほどな。強くなれんってのは、まあ、そりゃそうなんだろうな」

 どこか感心したような表情なのが不思議だった。何を考えているのか修介にはまったく読めず、戸惑い気味に見上げるばかりだ。

 二呼吸ばかりの沈黙の後、<鴉>は続けた。

「神官派のやり方は聞いたことあるぜ。最適な役割に割り当てられて、ことを片付けるんだったな? 自分の得意なことだけ確実にこなしてりゃいい、しかもかなり安全とか、それでまともに力が伸びたら逆に驚きだ。神官派最強はその辺のこと、教えないのかねえ?」

「……あの人は神殿に顔を出すのすら月に数回くらいなのに、その上みんな怖くて近寄りませんからね」

 面白くない存在が話題に出たことで修介の口許が歪む。知らず知らずのうちに眉間にも皺が寄っていた。

 そのまま立ち上がり、不機嫌そうに促す。

「そんなことより、これで終わりじゃないですよね?」

「おいおい、本来ならカウンターで胸でもブチ破るところを手加減して転がすだけにしたとはいえ、それなりには痛かったはずだが」

 <鴉>がにやりと笑った。

 あからさまな挑発である。が、むしろ望むところだった。

「このくらい、当たり前でしょう」

 身体の方は、正直なところ万全とは言い難い。たったあれしきのことで体力がごっそりと削り落されている。

 逆に、気力はこの上なく充実していた。全身を鈍い痛みが走るたびに際限なく溢れだして来る。

「それでいい」

 <鴉>は笑みを太いものに変化させた。

「強さなんてなァ、血反吐を吐きながら身につけるもんだ。ま、<魔人>の能力は千差万別だからな。短い期間で俺に教えられるもんなんざ、心構えと身の置き方くらいか。そいつを身体に叩き込んでやるよ」

 一度、インバネスコートが大きく広げられた。

 <鴉>が今度は構えを取ったのだ。

 いつしか、二人は遠巻きにされていた。少なくとも三十名。街路樹にもたれかかっている者もいれば、ビルの屋上の端に腰かけている者もある。

 しかし、先ほど<鴉>が言っていた通り、手を出そうとする者はなかった。替わりに観察しているのだろう。巧く食えないか否かを。

「野次馬が湧いて来たが、いいよな?」

「もちろん」

 頷き、音もなく今度も修介から先に踏み出した。





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