この手、繋いだならきっと・三






 小学四年生のときのこと。

 藍佳には内緒で、小さな空手道場に入門した。母親にも口止めをしておいた。

 そしてその一週間後。

『もう、しゅーちゃんってばかくしごとしちゃダメでしょ!』

 道着を着た藍佳がそこにいた。

 今から思えばそれほど不思議なことではない。同じ町内にある道場である。学校から帰って来た後で自分の姿が何度か見えなくなったのは不審だったろう。母親は約束通り藍佳にはばらさなかったかもしれないが、例えば近所の誰かには話したのかもしれない。彼女に伝わってしまう理由など幾つもあった。

 ともあれ、たった一週間でともに通うことになってしまった。

 藍佳はすぐに強くなった。寸止めだったので本気で喧嘩でもすれば勝負は分からなかったが、そんなわけにはいかない。少なくとも組手ではいいように翻弄されることが多かった。

 彼女はそれまでと変わらず世話を焼き、そして言うのだ。

『しゅーちゃんはあたしがいないとダメなんだから』




 道場には小学校を卒業するまでは通った。

 中学生のときにはまともに拳を握ることもしなかった。








 夜の街を行く。

 日中は雨が降っていたらしい。アスファルトが濡れ、蒸し暑い。

 修介は小さくため息をついた。

 身体を重く感じるのは憂鬱だからだろう。

 人波が鬱陶しくて、通りの表から裏へと入る。

 それでも暗闇とはならない。人工の明かりはどこまでも薄ぼんやりと夜を照らし出していた。

 息の詰まりそうな狭い道、やはり狭い空を見上げれば、昨夜と同じように細い月の横顔があった。

 その冷笑は昨日の敗北を思い出させる。

「……くそっ」

 抜けるような悪態が漏れた。

 手も足も出なかった。今更ながらに理解できる。あれは強さを比べる以前に、まともに戦わせてもらえていなかったのだ。

 巧く距離を維持され、屋内に誘い込まれて機動力を殺された。元々のただの廃工場のままであれば建物自体を壊しながらという手も使えただろうが、そこへ更に強靭な『蔦』が内部を這い、ことあるごとに動きを阻害して来たのだ。

 対して、勝利を収めて来た名和雅年は苦戦したようですらなかった。戦いの様子こそ見られなかったが、きっと苦手なタイプであったろうにもかかわらず、いつものやる気のなさそうな顔で帰って来た。

 どうして。口を衝いて出ようとした嫉みをすんでのところで呑み込む。

 感謝はしているのだ。かつて自分たちを救ってくれたことも、昨夜自分を助けてくれたことも。

 それでも気持ちは収まらない。どうしても好意的には見られない。

 わだかまる思いを持て余し、また青ざめた月を見上げたそのときだった。

 影がよぎった。

 人型だ。見間違いではない。<魔人>の視力は人を超えている。

 即座に修介も地を蹴り、一気に近くの家の屋根に跳び乗ってそのまま屋上を伝う。

 見えたのは一瞬だったが影の姿勢はよく目に焼き付いている。あれは跳躍だ。

 だから魔神ではないだろう。魔神であれば飛行する。跳ぶ必要がないのだ。

 勿論、人でもない。

 同じ<竪琴ライラ>か、逆に<竪琴ライラ>に敵する存在か、あるいはどちらでもない<魔人>なのか。

 <横笛フルート>なる存在が力を蓄えつつあることは<竪琴ライラ>すべてに知らしめられている。もしも彼の存在であるのなら放っておくわけにはいかない。

 <竪琴ライラ>であるのなら誰かを追っている可能性が高い。加勢するべきだろう。

 第三者であっても危険な人物ではない保証はまったくない。

 <魔人>は理不尽を行う。足音はほとんどない。僅かな振動だけを家屋に与えながら、修介はいかな暴風にも勝る速度で影を追う。

 人の視界に入る可能性はあるが、そのことでただの人間に見咎められることはまずあり得ない。街の明かりはあくまでも地上を照らすもの、その眩さが目くらましになる。空を見上げても蝙蝠か何かが過ったとしか認識できないのだ。ましてやこの速度では、錯覚だと結論付けるのが関の山だろう。

 前方、影がこちらをちらりと振り向いたかと思うと、更に加速した。

「後ろめたいらしいな」

 修介は口の中だけで呟き、こちらも速度を上げた。

 足には自信がある。今は亡き英雄ヒーローにも、限界突破リミットブレイク状態にないならば引き離されなかったくらいなのだ。

 眼下の景色が一瞬で後ろへ飛び去ってゆく。纏わりつかんとする大気の壁を突破、修介自身の感覚としては『擦り抜け』ながら標的を追う。<猟犬ハウンド>の異名は伊達ではない。チームで動く際の修介の役割は標的を追いたてること、あるいは追いすがり足止めすることである。

 ぐんぐんと背の迫る中、打ち破る風の残滓に血の匂い。標的の右手にぶら下げたものが詳らかになる。男の生首が、虚ろな視線を虚空へ向けていた。

 修介は密かに息を呑み、そしてぎりと歯を噛み締めた。

 消えてしまわないということは、あの首はただの人間のものだということである。絶対に捨て置けない。

 さらに加速する。自分で制御可能なぎりぎりの速度でもって一気に距離を詰めに行った。

 だが、思わぬ要素からその目論見は外されることとなった。

 不意に影がバランスを崩したのだ。反応が遅れた修介は全速であったことが災いし、失速して墜落する影を大きく追い越してしまった。

 それでもちょうどそこにあったビルの壁に着地すると、即座に蹴り離して影が落ちたはずの暗がりへと降下する。

 その中で、修介は見た。

 ふわりと広がるもの。夜の中でなお暗いインバネスコートを翼のようにはためかせ、横合いから現れた一人の男が前を行く。

 勿論、追っていた相手ではない。影が墜落した理由に関係があるのではないかと、易い推測だけはできた。

 降り立った場所は小さな公園だ。近年遊具の危険性が過剰に叫ばれたせいか、ベンチ以外には碌に何もない。芝が綺麗に刈られて手入れが行き届いているだけ、いっそう侘しさが滲み出ている。

 そんな場所で、ことは既に始まっていた。

 一人は逃亡しようとしていた少年。既に生首は投げ捨てて戦闘態勢をとっている。手にした短刀はクラウンアームズだろう。刃までも艶のない黒だ。

 そしてもう一方は割って入った青年。いつの間にか、両手が淡い黄金の輝きを滲ませる手袋に包まれている。

「逃さんぜ? 既に味わった後だろうがな」

「……この羽根はテメェの仕業か」

肯定だともアファーマティヴ

 憎々しげに顔を歪める少年とは対照的に、青年はいっそとぼけたと言ってよいほどの表情だった。

 修介も遅ればせながら気付く。二人の周囲には黒い羽根が浮いていた。<魔人>の目をもってしても判別が難しいほど夜に溶けていたが、手袋の光を遮るものがあることで存在が知れたのだ。

 無論、青年の創り出したものなのだろう。絡め取るのか、穿つのか、切り裂くのか。いずれにせよ、おそらくは<森林フォレスト>の『蔦』のように、相手の動きを制限するはたらきを持っているのではなかろうか。

「どうしてオレを狙う? テメェ、<竪琴ライラ>か?」

「いんや、少なくともそれは俺じゃあない。俺の仕事は主に復讐代行業さ。復讐されるような心当たりは……腐るほどあるだろ?」

 金色の二つがゆるりと揺れ、青年が構えを取る。左半身で、胸の前に軽く握った両拳は少し高さを違わせて。

 そしてそこからの踏み込みは無造作だった。構えたと思った瞬間、既に仕掛けていた。

「このっ!?」

 対して、少年の反応は僅かに遅れた。対峙しておきながら、警戒しておきながらなお虚を突かれたのだ。

 それでも身に秘めた敏捷性のおかげだろうか、あるいは経て来た場数が為さしめたのか、右手の黒の刃を敵の胸元へと滑り込ませていた。

 しかし青年の口許に浮かぶのは笑みだった。

 まるで待ち構えていたかのように左腕が動くと、向かい来る刃を握った手ごと上方へと弾き上げ、そのまま体を替えて右肘を胸の中央に叩き込む。

 少年は目を剥き、裂けよとばかりに口を開き、泡は漏れても声は出ない。

 そしてそこからは凄惨だった。

 まず繰り出されたのは左の拳。目にも留まらぬ一撃は、果たして打撃と呼んでいいものなのだろうか。

「……っ!?」

 鮮血が散る。

 身につけた技か、あるいは金色に輝くクラウンアームズの能力なのか。音もなく、少年の右肩が抉り取られていた。

 信じられない、と。少年の凍りついた表情はそんな思いが形作ったものか。

 無論、その一撃だけで止まるはずもない。そのまま少年に抵抗する暇も与えず黄金の双拳が降り注ぐ。いずれもが同じだ。流麗に繋げられた一打ちごとに少年の肉体が欠けてゆく。

 修介は声もなくその場に立ちすくんでいた。

 戦いと呼ぶことも憚られる、一方的な蹂躙。哀れな標的は悲鳴すらまともに上げさせてもらえず、引き攣った苦鳴が漏れるだけ。

 倒錯した感性を有していたならば、あるいは美しいと感じたやもしれない。だが修介にとってはただただ残酷に映る。

 その上でなお、魅せられていた。

 力だ。強さだ。有無を言わせぬ、其処に在るものだ。

 形はどうあれ、修介の求めるものだ。

 暴虐の光景の終わる時がすぐに来たのは、むしろ少年にとっても幸福だったのだろう。

 無論、何か望みはあったに違いない。しかしそれは無情にも力の前に叩き潰される。

「死ねない……オレはまだ死ねな……」

 喘ぎ、かすれるような声が断末魔代わりだった。

「……脆いな」

 最後となった一撃の姿勢のまま、青年が呟く。握った手の内から光が立ち昇り、次いで、にやりと笑った。

「そう思わんか、<竪琴ライラ>の」

 こちらを見てこそいないが、それは修介に向けられた台詞である。

 気付かれていたことに驚きはしなかったものの、返す言葉には困った。

 そうするうちに青年は、インバネスコートを翻して向き直った。

「さてどうするね。復讐代行業は<竪琴ライラ>としては黒か、白か」

 面白がるような口調だ。目まで笑っている。

 自分などどうとでもなると思っているのだろう。だから存在に気付いていながら目の前で堂々と殺してみせた。

 それでいながら、両拳のクラウンアームズを消してはいない。いつしか黒い羽根が、修介の前方以外を取り囲んでいる。少なくとも、油断はしていないらしい。

「答えてもらえるか? ことによっちゃ、もう一戦やらなきゃならんのでね」

「……それは……」

 修介は口籠る。

 白、ではない。個人的には限りなく黒に近い灰色だと思った。今回の標的こそ一般人に手を出した<魔人>だったのかもしれないが、次の標的がただの人間とならない保証はないのだ。

 本来であればステイシアの判断を仰ぐところである。しかしそれは許してくれそうにないし、何よりも修介自身が望んでいなかった。

「灰色ってことにしとく。何より俺じゃ、あんたには勝てなそうだ」

 それは正直な気持ちだった。決して弱いわけでもないであろう<魔人>の肉体を容易く抉る力、あらかじめ敵の退路を断っておく手際の良さ、何より常に崩すことのない余裕。処刑人と同様の、圧倒的な強者であることは疑いようもない。

 なればこそ、修介の胸の内にはひとつの案が湧き出していた。

「連絡もしないでおく。替わりにひとつ、頼みがある」

「ん? 復讐したい相手でもいるのか? 依頼料さえ払ってくれりゃ、俺は誰でもウェルカムだ」

 青年は営業用の笑みを浮かべる。

 しかし、修介の望みは違っていた。

 まっすぐに青年を見詰め、告げた。

「俺を鍛えてほしい」






















 小学四年生のときのこと。

 修介が自分に内緒で小さな空手道場に通い始めた。

 すぐに見つけ出した。修介よりも早く下校して、待ち伏せて尾行したのだ。そして入門した。

 母親には、見守ってあげればいいのにと苦笑された。

 しかし許せなかったのだ、修介と共有できない時間があることが。

 怖かったのだ、修介が自分を置いてどこかへ行ってしまうことが。

 後追いで入ったとはいえ、道場では必死に練習をした。むしろ修介よりもずっと頑張っていた自信がある。

 その甲斐あって、強くなった。『姉』の威厳も保たれようというものだ。




 なのにどうしてか、それから修介は暗い顔をするようになった。

 高校生になってもそれを晴らすことはできなかった。








 <伝承神殿>は夜を知らない。

 役目を割り振られていない者は好き勝手に時間を過ごしているため、ロビーや食堂には常に人がいる。そのせいか、時計を見なければまったく時間が分からない。

 午前八時。階段横の時計で時刻を確認し、五階の廊下を藍佳は行く。

 憂い顔で考えるのは、当然のように修介のことだ。

 一昨日の夜は明け方近くまで説教をした。神妙な顔をしてはいたが、あれはきっと堪えていない。

 年を経るにつれてだんだん可愛げがなくなってゆく気がする。小さい頃は何でも言うことを聞いてくれたものなのだが。

 しかし謹慎を命じられたおかげか、昨日の夕方に見に行ったときも大人しくしていた。

 怒ってばかりでは拗ねてしまうだろう。ここはひとつ、飴が要る。今夜は手料理を振舞ってもいいかもしれない。修介は昔から妙にカレーが好きなのだ。

 少しばかり心が浮き立っている。余計なものに心煩わされず、修介のことだけを考えていられるときはいつもそうだ。

 しかし、角を曲がったところで冷水を浴びせられた。

 目の前に、ロングコートの姿。<伝承神殿>は一年中快適な気温に保たれているが、それでも間違いなく暑いであろうに。

「……名和さん……」

 思わず呟く。

 名和雅年という男を<伝承神殿>で見かけること自体が稀だ。見かけるときもロビーか地下闘技場ばかりで、居住区で目の当たりにしたのは初めてだった。

 考えてみれば不思議ではないのだ。ほとんど<伝承神殿>にいないからといって、神殿内に部屋を持っていないわけではないだろう。

 だが、よりにもよって修介の部屋のある五階だということが不安を煽る。

 藍佳自身は苦手ではあっても嫌いではない。かつて人であった頃に助けられたのは忘れていない。

 けれど同時に、<竪琴ライラ>の処刑人と呼ばれる男であることも重々承知している。大失態を犯した修介の処分を独自に行ったとしてもおかしくはない。

 神官派内部における名和雅年の力は大きいと藍佳は見ていた。

 <竪琴ライラ>神官派を統率するステイシアは極めて温和である。だというのに冷酷極まりない雅年の所業が見逃されているのはおかしい。あるいはステイシアに匹敵する発言力を持っているのではないかと考えたのだ。

 ならば謹慎で済ませたステイシアの意向を無視してもおかしくはない、と思えて仕方がなかった。

「おはようございます……修ちゃんにご用ですか?」

 言葉を絞り出すと、雅年はわずかに眉を動かした。

「済まないが、それでは誰なのかよく分からない。おそらく違うとは思うが」

「えと……神野修介です。あたしの幼馴染の」

 違うという答えに半ば安堵しつつ、藍佳は堪える。

 それでも雅年は思い当たらないようだった。

「少なくとも、それが人間だった頃に使っていた名前でない限り、違うのは確かだ」

「そうですか」

 藍佳は残る半分の安心に胸を撫で下ろした。

 それと同時に、どうやら自分たちのことを覚えてくれてはいないらしいということも察した。

 無論、構わない。あの時とは顔も姓も異なるのだ。

「それじゃ、失礼します」

 ぺこりと一礼して擦れ違う。苦手な相手であっても表面上は如才なくあしらうことくらいはできる。

 足早に立ち去って、今度こそ修介の部屋の前に立つ。

「入るわよ、修ちゃん」

 ドアを開けたのは台詞の途中だ。

 もう起きているだろうと思っていたのだが、部屋は暗かった。

「寝てるの? もう、八時に来るって言っといたでしょ?」

 ほんとに修ちゃんはあたしがいないと駄目なんだから。そう呟きながら明かりを点ける。

「ほらほら起きた起きた……え?」

 そして揺り起すべくベッドの傍まで近付いて、初めて気付いた。

 掛け布団の膨らみ方がおかしい。潜り込んでいるにしても、頭の先すら見えないはずはない。

 無言で布団を剥ぎ取る。

 果たして、現れたのは丸めた毛布だった。

 修介は時折これをやることがあった。一番大事になったのは中学の修学旅行のときだ。ホテルを抜け出して夜の街へ遊びに出たのである。

 それでもまだ、笑っていられた。困った修ちゃん、で済んだ。

 しかし今、藍佳は蒼白になっていた。

「うそ……なんで? どうしていないの? 何のために?」

 一昨日はあやうく死ぬところだったのだ。それがまた姿を消したとあっては平静でいられようはずもない。

 しかも理由が分からない。標的はもういないのだ。外に出る意味が、藍佳には思い当たらなかった。

「……そうだ、またステイシアに言って探してもらえば」

 解決法として思い当たったのは、やはりステイシアだった。一昨日もどのような方法でか、極めて迅速に探し当ててくれたのだ。

 駆け出そうとして二歩、三歩。部屋を出る前に止まる。

 気持ちが悪い。それ以上はどうしても足が動かない。不意に浮かんだ神官ステイシアの儚げで可憐な姿が心をじりじりと焦がす。

 そしてもう一つ。先ほど出くわした名和雅年、<竪琴ライラ>の処刑人のことも思い出さずにはいられなかった。

「…………ううん、気晴らしに……うん、そう、気晴らしに出ただけだよね。あたしがさんざん怒っちゃったから」

 だから大丈夫。自分に言い聞かせるように、藍佳は繰り返す。

「ステイシアは凄く忙しいはずだし、あんまり邪魔しちゃ悪いし。あたしが探しに行けばいいことだよね」

 深呼吸。

「ほんと、修ちゃんってば世話を焼かすんだから」

 そうして藍佳は部屋を後にする。

 蒼白な顔のまま、震えを抑えるのも忘れて。
















 雀が鳴いている。

 もう梅雨入りをしているはずの空は薄い水色に澄み切って、昨夜の凄惨さを洗い流すようだった。

 公園に異常は見えない。生首は青年がどこかへ持って行ってしまったし、血痕もまともには残っていない。

 二人はベンチに腰掛け、コンビニエンスストアで買って来た菓子パンを並んで頬張っていた。

 青年は、<クロウ>と名乗った。

 しかしおそらくは日本人だろう。それよりも、二十代半ばという年齢が<魔人>にしては非常に珍しい。

「もちろん本名じゃねえよ。通り名だな。<ギルド>は知ってるか?」

「……一応」

 修介は頷く。

 <魔人>を傭兵として派遣する組織は世界中に幾つもあるが、その中で唯一、本当に世界を股に掛ける規模であるのが<ギルド>だ。金銭を対価として、必要なところに必要な戦力を送り込む。

 その行動規範には善も悪もない。彼らが重視するのは信用と金だ。

 修介もそこに思うことがないわけではないが、灰色であるということにした以上は極力気にしないことにするしかない。

「その中でも俺は主に復讐代行を請け負ってるってわけだ。で、今回は依頼の都合で日本に帰って来ただけで、後片付けを全部済ましたら次の仕事に入るんだが……」

 <鴉>はきつく眉根を寄せた。

「教えられないってことですか?」

 修介も昨夜と口調は変えている。敵対しているわけでもない、ましてや教えを請うた相手に乱暴な口をきく趣味はない。

 突拍子もないことを頼んだ自覚はある。仮にも治安維持組織に属する者が職業暗殺者に、など前代未聞だろう。

 それでも修介は縋りつくしかなかった。

 気持ちが悪いのだ。自分を包む生温い空気が、どうしても落ち着かない。

 足踏みをしている。前へと進めている気がまったくしない。

 だから身を切るような冷たい風を求め、顔は仏頂面でいながら心は祈るようだった。

 そして<鴉>は眉を寄せたままパンを呑み込み、さらに缶コーヒーを立て続けに二本干して告げた。

「まあ、日本にいる間だけでよけりゃ構わんがね。ひとつ条件がある」

 こちらを見たそのまなざしは強く、心の奥底までも見透かすようだった。

 修介は気圧されたように無言、ただ喉を鳴らした。

「俺の言うことには従ってもらう。逆らった時点ですべておしまいだ」

 <鴉>の口調は決して脅すようなものではない。よく響きはするが、さほど張り上げているわけでもない。

 だというのに、胸が早鐘を打っていた。恐ろしいのだ。

 恐怖を振り払うように思考を巡らせる。

 たとえ理不尽だと感じても師の言葉に異を挟むことなかれ。そういった考えは現代ではあまり好まれないが、歴史の中ではよく見られたものだ。行住坐臥を修行の内に置き、良き師の薫陶を受けることができたなら、分かり易さをもって組み上げるよりも深く本質に触れることができる。

 その分危険ではある。任せ切ってしまうということは、師が碌でもなければ結果は散々なことになるだろうし、まともであっても潰れ易いだろう。

 迷いはした。弱音も過ぎった。

 しかし、その厳しさは自分を縛る温さを打ち砕いてくれそうに修介は思えた。

 だから頷いた。

「お願いします」

「分かった」

 <鴉>はにやりと笑う。張り詰めていた空気が緩んだ。

「なに、俺としても少し面白そうではある。手は抜かんさ。まずは面白い所へ連れて行ってやる」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る