この手、繋いだならきっと
この手、繋いだならきっと・一
灰色の世界に影が跳ぶ。
色を失った廃工場の屋根を突き破り、<
えも言われぬ不快感が胸に広がる。
旨くいっていたはずだった。<魔人>となってからというもの、人に対して振るうには大き過ぎるほどのその力を用心棒稼業に用いて荒稼ぎし、これは意図せぬことではあったがやがて幾つかの街の暴力を掌握するまでに至っていた。
たかが十代、されど携行火器など何も効かず、素手で軽々と人体を肉片にしてしまえるのが<魔人>である。守るべき弱点などというものも<
無論、その席に座っても注意はしていた。噂に聞く<
暴力を掌握した上でそれを治安維持にでも使っていたならば、あるいは見逃されたのかもしれない。しかしそんな気はなかったし、そんな流れにもならなかった。
<
大仰な兵器を持ち出されない限り人に対しては無敵とも言える<魔人>だが、同じ<魔人>を相手にすれば勝敗は分からない。自分はそのの中でも強いという自信はあっても、上には上がいるものだ。
慎重に情報を集めるうちに、果たして<
大した相手ではなかった。並よりは上、その程度だ。クラウンアームズも所持していない。
鎧袖一触というほど容易くはなかったけれども、さして手こずることもなく葬り去ることができるはずだった。今は背後となった廃工場で、とどめの一撃を放ち、それで今回は終わりのはずだった。
だというのに割り込まれたのだ。
「釣り出された……? いや、そんな馬鹿な」
呟き、自分自身で否定する。逃げられないように誘き出すというのはいかにもありそうな手ではある。しかしそもそも廃工場へ引きこんだのは自分の方だ。
選んだつもりが選ばされていたということも、ありえない話ではないもののさすがに考えづらい。
一体何が起こったのか。そしてこの灰色の世界は何なのか。
答えは背後から来た。
「半径100mほどの独立閉鎖空間、とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは僕と君だけだ」
決まり切った文句を事務的に告げるかのような声。
振り向けば、青年の姿が一つ。
二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
むしろコートの方が目立つかもしれない。六月上旬には暑そうだというだけではなく、右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。
「僕を殺さない限り、君はここから出られない」
「ならそうさせてもらうっ!」
<
その身の周りに顕現したのは、ちょうど掌と同程度の大きさの涙滴形の薄片だ。それが幾百も浮遊、次いで敵めがけて殺到する。
緑の奔流。風に吹き散らされた葉さえもが侵入者を切り裂く、そんな魔性の森の洗礼だ。
人などなすすべもなく刻まれて肉片となる。<魔人>であっても直撃を受ければただでは済まない。
だというのに青年はその場を動かない。地を踏み腰を据え、巨大な籠手に包まれた拳を繰り出した。
緑が歪む。薄片を正面から蹴散らしつつ、何かが来る。
それに姿はない。だが絡みつく緑が形を浮き上がらせていた。
拳だ。人の背丈ほどもあろうかという。
<
加えて、不可視の拳は音速にも達しない。充分に対応は可能だ。
だが、そう易い相手でもないのだろうということも推測できた。
背後、朽ちかけたロードローラーが硝子細工のように粉微塵になる。潰れるのでもなく、ばらばらになるのでもなく、指先にも満たない欠片へと一挙に砕け散ったのだ。
とてつもなく重く、そして重いだけでは済まされない。破壊という意味を体現しているかのようだった。かすめることすら避けたいところだ。
青年が構える。右半身となり、籠手のある右腕を盾のようにかざして左腕は腰だめに。双眸は無感動にこちらを捉えたままだ。
背を撫で上げられるような感覚。ぞくり、と怖気が走った。
それは勘だった。<魔人>であることとは全く関係のない、経験から無意識に導き出される答えだ。
決して短くはない期間、一帯の暴力を掌握して来た<
だが、ここまで冷えたまなざしは初めてだった。力を振るうことに何の高揚も見せず、完全に自意識の支配下に置いている。その上で守りを重視する体勢なのだ、攻略は困難を極めるだろう。
あくまでも勘である。<
しかし逃げられない。
さらに大きく下がろうとすれば、とん、と背に当たるもの。目には見えぬ境界が確かにそこにある。
戦うしかないのだ。
「深き森よ!」
やはり迷いはしない。見に回ってくれるならば、即座に切っておくべき奥の手がある。
主の声に、腕輪型のクラウンアームズ『ベリルラビリンス』が呼応する。
まるで緑柱石でできたかのような柱が次々と聳え立ち、<
これら全てが剣であり盾。<
難点は完成までに少しばかりの時を必要とすることだが、成ってしまえば文字通りの必殺、一人たりとも逃したことはない。
青年は微動だにしない。冷やかに観察するのみだ。
そして今、緑の森は地の灰色を侵食し切った。邪魔されることなく、<
だというのに、身体の芯は凍てついたまま。どうしても悪寒が止まない。
ちらりと確認するのは上方。層が薄く、最も突破され易い。今までの敵で足掻けた者は必ず空から来た。
しかしそこには灰色の夜空と灰色の月があるだけ。敵はその場を動いてすらいない。
確認したまさにその瞬間、意識の陥穽を読んだかのように青年が静から動へと移った。踏み込む足、その振動が襲い来る緑を破砕する。そして肘から先だけで虚空に放たれた裏拳が、巨大な不可視の飛拳として森を一直線に縦断した。
それでもかわすことは造作もない。この森の中にある限り、<
元より持久戦の覚悟だ。攻略は難しくとも相性自体はいい。堅実にダメージを重ね、捉えられる前に削り切るのだ。
そうして敵の傍の『蔦』を動かそうとして。
間に合わなかった。
青年が大きく地を蹴り捨てた。
一旦は守りに入る姿勢を見せながらも、ついに状況を見切ったのだろう。この森の再建速度をもってすれば、その場に留まるような相手は封殺できる。
<
そのはずなのに、それでも悪寒が止まないのだ。浮かべた笑みも強張っているのが自覚できる。
さてここからが勝負だ。そう自分に発破をかけていられた時間は、一呼吸の間もなかった。
『蔦』が間に合っていたとしても何の意味もなかったろう。
青年が緑の森を引き裂いていた。
盾のように構えた右腕、籠手が触れるもの全てを粉砕し、欠片や『蔦』は敵の緩衝領域すら突破できない。
「……っ!?」
否、それだけでは済まされない。
<
幻視のように意識へと叩き込まれたのは波だ。青年の背後が広く揺らめいていた。空を歪ませる無尽の波濤を引き連れ、進攻して来る。
無論、海を呼び出したわけではない。言うなれば周囲の空間そのものが逆巻く波の如くと化しているのだ。
もはや触れる必要すらない。近付くだけで森が呑み込まれ、青年の背後で微塵に砕かれ、<
特殊な何かであるとは思わない。あまりにも巨大な海洋生物が大量の水を押しのけ荒ぶらせるように、ただの力と重さが周囲に波及している。そんなものが障害物を叩き潰し、押し流し、呑み込んでいるのだ。
理屈の上では有利であることなど、正面から打ち砕かれた。
波濤は何も残さない。逃れる場所がすべて削り殺される。<
繰り出された拳を、一撃だけは耐えた。耐えることに全力を注ぎ込んだ。<
それでも胸部と腹部が半ば消し飛び、復元もままならない。
「……お前、あれだろ……さては<
物理的には喋ることなどできないはずのこの状態でも問いかけられたのは、不可思議を行う<魔人>であるがゆえ。
勝てないことを悟り、歯を食いしばりながらせめて己を殺す者の名だけでも確認しておきたかった。
「よくそう呼ばれる」
青年は無感動にそれだけを告げる。
<
あまりに理不尽だと、そう思わずにいられない。
強いこと自体はいい。自分が敗れるのもいい。この相手ならば必然だ。
怨嗟の声を漏らす理由はただひとつ。
「なんでだよ……どうしてお前が、<
「それに関しては別に君のせいではないんだが……」
泡を吹かんばかりの<
「どうあれ僕は仕事をこなすだけだ」
慈悲も惑いも、一片たりともありはしない。今度こそ<
死した<魔人>は塵も残らない。
急遽入った予定外の依頼もそれで片付いた。
いつか見たような光景だった。
迫る緑の刃、それは満身創痍の自分の命を奪うに違いない破滅の奔流。
死ぬのだと悟って生を諦めたのも同じなら、そこでロングコートの背が景色を遮ったのも同じだ。
人物も同一、巨大な籠手を嵌めた拳を繰り出したことも、敵ともども姿が消えたことも変わらない。
静寂とともに残った景色は、あちこちに無残な穴の空いた廃工場だけだ。
ちょうど横顔を覗かせた三日月が冴え冴えとこちらを見下ろしている。まるで冷やかに嘲っているようだと
こつりこつりと、靴音。月下に可憐な姿が現れる。
「ご無事ですね」
繊細な面立ちに明らかな安堵の色を浮かべ、ステイシアが微笑んだ。
修介は声を詰まらせる。
どうして、と問うてみても答えは判り切っている。自分を助けに来たに決まっているのだ。
「もう今回のような無茶はしないでくださいね。
優しい叱責が、だからこそ痛い。
「あいつは? 放っておいて大丈夫なのか?」
斃そうとして、自分一人では敵わなかった相手。
しかし問うてから愚問であることに気付く。
「大丈夫です」
ステイシアは微笑んだ。信頼し切って穏やかに、こともなげに。
「雅年さんですからね」
その答えと表情に嫉妬を抑えられない。
しかしそれ以上に、自らの力不足を思わずにはいられなかった。
今一度、月を仰ぐ。
決して腰が抜けているわけではないが、今は立ち上がる力が湧かない。
月の横顔は相も変わらず冷え冷えと、修介を見下ろしていた。
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