幕間「無価値」
にやにやと笑う口、三つ。
日は変わらぬまでも大いに更けた夜、薄汚れた陸橋の下でのことだ。
打ち捨てられたごみが吹き抜けた風にからからと転がされ、足元にまとわりつくのも少年は知らない。意識の全ては恐怖に塗り潰されてしまっていた。
背にした壁には卑猥な落書き、顔の右には圧迫するように腕、左にも腕。自らの両手は財布を差し出した形のまま震えるのみだ。
塾の帰りに恐喝に遭っている。起きていること自体は、端的に言えばそういうことだ。
少年は腕に覚えがある。あくまでも一般的な高校生の範疇に収まるものだが、そうそう喧嘩で負けるつもりはない。それでいて、何かあれば即座に逃げるつもりでいた。そして警察にでも駆け込めばいいと思っていた。
しかし、相手が異常だったのだ。
見た目こそ同年代、十代後半と思しき少年三人組である。だが一人は逃げようとした自分の頭上を軽々と跳び越えて先回りし、一人は行く手を塞ぐ大型バイクを片手で放り投げて見せた。おそらくは最後の一人も似たようなものなのだろう。
「二万か……しけてやがんな」
中身を抜きとった財布を無造作に投げ捨てて正面の一人が言う。
「おいお前、明日十万持って来い。ここで、この時間に」
「そんな無茶っ……」
「腕とか折られてみたいの、お前?」
反射的に出た言葉は即座に封じられた。
三人はげらげらと笑い合う。
「折るんじゃ詰まんねーだろ。潰してみようぜ、骨とか全部グシャグシャにして」
「ねじ切るとかも面白そうじゃね?」
普通であれば軽口の類にしかならないはずの台詞が、この三人だと本当に実行できるのだと思えて仕方が無い。
「いいな、十万だぜ? 別にそれより多くてもいいけどよ?」
「嫌なら親とか警察とかに言ってみたら? オレら柔道とか剣道が何段とか雑魚だし? 銃だって効かねーし」
「言った相手ブッ殺した後でお前も殺してやるから楽しみにしとけよ」
にやにやと笑う口、三つ。
「すげえよなオレら!」
二つの壁を上へとジグザグに跳躍することによって辿り着いたビルの屋上、三人は喧しく笑い合う。
先ほど強奪した二万円は既に使い尽くしているが、気にしない。明日にはその五倍が手に入るはずなのだ。
「もう最強って感じ?」
高揚に身を浸すのもむべなるかな。跳べば頭上に十メートル以上、走れば五分少々で十キロメートルを走破する。荒事にも顔を突っ込んだが軽く殴るだけで当たった部位が弾け飛び、こちらの身体は銃も刃物もまともに通さない。銀玉鉄砲で撃たれたくらいには痛かったか。
「軍隊に突っ込んだっていけるんじゃね? 一騎当千っつーかワンマンアーミーっつーか」
「だよな」
はしゃいだ声は見た目相応の年齢を感じさせる。浮かれている分、口調はそれよりも幼いだろうか。
彼らの力は、自らの才や鍛錬で得たものではない。
魔神という存在がいる。正確には、十四年ほど前に現れた自らを魔神と呼ぶ存在だ。人の女のような姿をして、人には至り得ぬ美しさを存分に見せつけ、人とは次元の異なる力を振るう。
その力のうちの一つが<魔人>の作成である。人に力を与えることによって成る<魔人>は、魔神には遥かに及ばぬまでも絶大な力を有するに至る。
人の社会は魔神の存在を知っているが<魔人>のことは知らない。魔神がわざわざ知らしめることはなく、極めて稀に知る人間も意図あって伝えない。<魔人>自身も決してばらさない。
その結果、ただ力を振るいたいだけの者にとって、<魔人>であることは人間社会における暴力のこの上ない担い手となれることを意味している。
なればこそ、性根は透けて見えるというものだ。
「次はどうする?」
「どうするってのは?」
「こんなチンケなこと続けてたってしょうがねえよ。もっと別のすげえことできるだろ、オレら」
三人は元から素行の良い人間ではなかった。しかしさほど腕力に秀でているわけでもなく、力ある者の腰巾着として虎の威を借りていただけだったのだ。
だが、今や自分たちに敵う人間は存在しない。魔神か、同じく<魔人>であるかしなければ相手にならない。人を超えたという全能感がもたらす昂りは狂おしいほどだった。
<魔人>となってまず行ったのは力の確認、そして負けることなどあり得ないと確信してからかつての仲間を訪ねた。鬱屈を晴らしに行ったのだ。どちらが上になったのかを思い知らせるために。
やり過ぎて重傷者ばかりとなり、全員病院送りで支配下に置くも何もなくなってしまったのは誤算だったが、恐怖を叩き込むことはできたはずなので概ね満足している。
<魔人>となろうとしたのは三人だけではない。二十名はいた。その中で成ることができたのがこの三人なのだ。
だからこそ選ばれた者としての自負もあった。
「何がある?」
「最終的には裏社会を牛耳るとか、やりたいよな」
語る希望。夢見るような瞳はどのような未来を幻視したのか。
夢も希望も、他者にとって必ずしも素晴らしいものであるわけではない。
だが素晴らしいと口にする者がいた。
「お見逸れ致しました」
穏やかではっきりと響く声。少年たちは背後をびくりと振り返る。
いつからそこにいたのだろう。二十代半ばと思しきひょろりとした青年が人好きのする笑顔で佇んでいた。
「お、おまえ誰……」
「素晴らしい。やはり<魔人>たるもの、それくらいの気概を持たなければ」
絶妙の呼吸で誰何に被せ、青年は続ける。
「実はあなた方を見込んでお願いがあるのです」
「……なんだよ?」
本来、どう見ても怪しい青年である。気配もなくそこにいて、笑顔で頼みごとがあるなどと言う。
人であった頃なら、間違いなく拒絶していただろう。危険な存在を嗅ぎわけることくらいはできていた。しかし力を得た今、少年たちは疑いながらも話を聞こうとしてしまった。
強者になったという自尊心が、警戒などという真似は格好が悪いと言う。加えて、三対一だからどうとでもなると判断したということもある。少なくとも三人自身は、だからひとまず聞くだけ聞いてみようと思ったのだと認識していた。
少年たちは知らない。万人の警戒を解きほぐす笑顔というものがある。聞き取り易く、かつ威圧感を与えない発声と抑揚がある。それらは技術として後天的に身につけ得るものだ。
たった二言三言のやり取りで既に術中にはまっている。しかし、気付けない。
「僕は高杉誠と申します。<
「フルート? なんだそりゃ、楽器かよ」
青年の与える腰の低い印象に気をよくして、一人が嘲るように鼻を鳴らした。
無論、青年の穏やかな笑顔は揺るがない。
「一時的な互助組織ですね。現在、日本の<魔人>社会には非常に厄介な警察的存在がいましてね、それに対抗するためのものです」
「警察かよ……」
少年たちは揃って、うげぇと言わんばかりの顔になった。人であった頃から暴力に親しんでいた身である。治安維持組織は敵だとしか思えないのだ。
それでもすぐに、青年を馬鹿にするような表情に戻った。
「要するに、それを潰すために力を貸して欲しいってとこかよ」
「なっさけね」
「悪いけど、オレら十とか二十とか軽いから。割と強くたって各個撃破ってやつ? 一人ずつボコってきゃいいだけ」
この三人がいれば充分。少年たちはそう思いこんでいた。
さっさとあっちへ行けとばかりにひらひらと振っていた手が、しかし青年の次の台詞で止まった。
「二千ですよ」
「……は?」
「<
飄々とした響きが三人の耳朶を打ち、思考に沁み込んでゆく。
「しかもしかもこの地域を管轄している派閥の基本戦術は、一人に対して可能な限り安全に勝てるだけの人員を当てる、なんて代物ですから頭の弱いのが先走りでもしない限りはこちらが各個撃破されるのがオチなんですよ。まあ色々制約も出て来ますから状況次第で数にも限度がありますけど、一人に対して二十人ずつが同時に襲って来るなんてことは充分にあり得ます。その基本を崩すために<
少年たちは無言で目配せを交わし合った。
彼らは自分たち以外の<魔人>の力量を知らない。ただ、銃すらまともに効かない<魔人>など他にはほとんどいないはずだと根拠もなく信じていた。そこへ青年が下手に出たものだから、自分たちは<魔人>としても強いに違いないと完全に信じ込んでしまったのだ。だから先ほどの言葉にはったりのつもりはなかった。
それでも二十人を一度に相手取って下せるとまで極端な過信もしていなかった。
「んー、別にそれでも大丈夫っぽいけどなあ」
「まあでも、楽勝とはいかないか」
そんなことを口にするのは侮られたくないからだ。虚勢を張りながら、向こうから頭を下げてくれるのを待っている。
勿論、青年は少年たちの望む台詞をにこやかに口にするのだ。
「そこをなんとか。是非、あなた方の力を貸していただきたいのです」
「貸すのはいいけどさぁ、ちゃんとそれなりの待遇してくれるわけ? オレら贅沢よ?」
にやにやと笑う口、三つ。
当然、青年は揺らがない。
「実力に見合った待遇をお約束しますよ。それに、<
「いいねえ……これ、ちょうどいいんじゃね?」
一人がにんまりとする。
その意図は紛うことなく残る二人に伝わった。
組織を乗っ取ろうというのだ。日本全国に広がる治安維持組織に対抗しようというのであれば、<
「獲っちゃうよ? 獲っちゃうよ、天辺?」
「ええ、是非挑戦してみてください。心から応援しますよ」
青年は人好きのする笑みをどこまでも崩さない。
「そうしたら是非、僕を重用してくださいね。『無価値』だとか呼ばれる身ですが、微力を尽くしますから」
日が変わる。
四人の姿はやがて屋上から消え去る。
最後まで青年は一切の嘘を吐かなかった。
嘘は、吐かなかったのだ。
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