英雄の条件・エピローグ






 果ての見えない世界で雅年はドアの脇に佇む。

 ロングコートの裾が荒れ狂う風に大きく揺れ、しかし雅年自身は微動だにしない。

 気圧の変化もなさそうなこの場所で、風がなぜ吹いているのかは分からない。来たのは三度目だが初めての経験だ。

 雅年はただ待つ。ドアはこちらからは開かない。破壊もできない。閉ざしておくことを進言したのは雅年自身だ。

 もしかするとずっと開かないのかもしれない。自分はここで立ち続け、やがて朽ち果てるのかもしれない。

 あるいは、開いて現れるのが自分に終わりをもたらすものであっても驚きはしない。

 好んで消えたいとはまだ思わないが、浅ましいこの身にはいずれ相応しい末路のひとつではあろう。

 どれほどの時が過ぎたのだろうか。<魔人>と成ってからというもの、時間の感覚が少々狂っている。自分自身の感覚を充分に制御できていないのだと、雅年は自覚している。

 比喩ではない。人であっても状況によって、受け取る情報量を絞る替わりに自意識における時の流れを遅く感じることができる。<魔人>はそれも大幅に強化されているのだろう。同じだけの意識の変化でも削る情報量は少なく、それでいて得る流れはより遅く。その相乗によって<魔人>は本来あり得ぬ速度で仕掛け、あるいは反応、迎撃することが可能なのだ。

 生き物の身体は賢い。もし身体の動かし方すべてを一から意識に刻み込むとなれば想像を絶する苦行になるであろうものを、最初からほとんど成し遂げられるようにできているのである。しかし自己内の時間は元々身体ほど絶妙な調整ができるわけではない。<魔人>に成ってもそれは変わらない。

 あくまでも修練や試合によってではあったが、人であった頃からそういった感覚に慣れ、意識していたからこそ、雅年は今も比較的時を捉えておけるのである。

 前兆もなく音もなく、ドアがゆっくりと開いた。

 現れたのはステイシアだ。華奢で小柄な体躯を幻想じみた白と赤の衣に包み、どこか悲しげな色を交えて儚く微笑む。

「……終わったのですね」

「ああ」

「裕徳さんは強かったですか?」

「いや」

 にべもなくかぶりを振る。

限界突破リミットブレイク時の力自体はこの間の鹿野瑠奈を上回っていただろう。実際、あれよりも少し速かった。だが……」

「やはり強いのは<ダキニ>の方でしたか」

「赤穂君に関しては、負けるのが彼の方だと言う方が正確だと思う」

 目的はともかく、赤穂裕徳のやり方そのものは理に適っている。始まるまでに勝てるだけの状況を整えておくというのは理想的だ。それだけを見るのであれば。

 彼の不幸は、その手法において対抗してくる敵がいなかったことだろう。容易く勝てる相手ばかりでは、やがて自分の力も他者の力も見えなくなってくる。なまじ掌の上で踊らせている自覚があるせいで、見えなくなっていることにも気付けない。

 魔神ではないのだ、敗北は必要である。好敵手か、あるいは足りないところを補ってくれるパートナーがいたならば、ああも容易くはなかったろう。

「……皓士郎さんは、一度戦いが始まれば読み間違いはしても油断はしません。足場が糸一本でもあれば、踏み止まるでしょう。力さえ同等なら、『本物』を相手にしても互角に戦えるであろうほどだったのですが」

 憂えげに、呟くように、ステイシアがくちびるを震わせる。

 言いたいことは分かる。赤穂裕徳と森河皓士郎が本当にパートナーとなり、何度もいがみ合って、それでも乗り越え高め合って行けたなら、呼ばれるだけでも望むだけでもなく、本当の英雄ヒーローになれたかもしれないのに、と。

「そうなる前におそらく瓦解すると思うが」

 少女の未練と感傷を、雅年は冷淡に切り捨てる。

 裕徳の腹の底は皓士郎にとって、おぞましいほどの悪だろう。決して存在を許すまい。

 しかしステイシアはゆっくりとかぶりを振った。

「変われます、いくらでも。『本物』ではないのですから」

「それだけを抜き出すのなら否定はしない」

 言う通り、人は変われる。いくらでも迷い、改めて異なる答えを出してゆくことはできただろう。変わること自体が難しく、変わった先もどちらを向くかは分からないとはいえ、それでも。

 しかし、変われると思ってなお、ステイシアは今回このような結果を選んだのだ。

「幾分腹黒いキャラクターになっているが、構わないのか?」

「よくありません」

 ステイシアは愛らしく小首を傾げてみせた。切り替えの早さは組織の中心人物として望ましい要素だ。雅年であれば不謹慎と謗ることもない。だが、神官派の皆が思うステイシアでもない。

「腹黒ではお嫁の貰い手がありません。だから雅年さん、貰ってくださいますか?」

「寝言は寝て言え」

 偶に仕掛けて来る類の冗談を、非難はせずとも雅年は今日も平坦に切って捨てる。

 <竪琴ライラ>とは、人間社会に明らかな害悪をもたらす<魔人>に対応することを目的とした集団である。六つの派閥に分かれ、それぞれの拠点を中心として<魔人>の引き起こした事件を独自に解決している。

 しかしその実、当然とも言えることながら必ずしも善ではない。理念に忠実に沿っていてさえ、万人に認められて存在しているわけではない以上、独善にしかならないのだ。

 だが、正義であるということにはしなければならない。

 <竪琴ライラ>はただ事件を解決するだけではなく、力を持て余した<魔人>を内側に取り込んで役目を与え、制御する役割も持っている。そのときに必要なのが、自分たちが正しいという保証である。

 欲望を抑えられずに悪事を為す人間は多い。やむにやまれぬ事情で悪事をはたらく人間もいる。けれど悪を為すことそのものを目的とする人間はほとんど存在しない。人は正しい立場にいることが好きなのだ。だから正義であるという保証は安心となり、そこから外れることには大きな不安を覚える。

 <竪琴ライラ>神官派はそれを利用する。あなたたちは、私たちは正義だ。武力も用いるが、疎まれることもあるかもしれないが、それでも正義なのだ、と。

<私>ステイシアは聖女でなくてはなりません。<魔人>による事件を憂い、人々を慈しみ、罪を赦す聖女という偶像でなければ」

 浮世離れした見目麗しい少女という存在はそれだけで人心を集める。たとえ独善であろうとも、ステイシアが口にしたならばそれが正義であると錯覚し易いのだ。

 特に<魔人>はほとんどが少年である。慕情も混じれば疑う心はさらに薄れる。

「半ば騙すようなことになっているのです、せめて私は聖女であり続けなければ……」

 儚い吐息。長い睫毛が震える。ステイシアは祈るように両手をそっと組み合わせた。

「……けれど聖女であってもなりません。この矛盾をどうしましょう」

 人には迷いも欲望もしがらみもある。<魔人>はしがらみをあまり持たない替わりに、己がただの人間など軽く捻り潰せることを知ってしまっている。集団となれば諍いも起こる。裕徳のような者も出る。

 純粋で優しいだけの聖女に組織の手綱はとれない。人の心を知らずに理想に向かって進むだけの聖女に人はまとめられない。狂信者の群れでもない限り、やがては崩れてゆく。

 ステイシアは上手くやっている。矛盾を為しながら矛盾と感じさせず、偶像と統率者の二足のわらじを履きこなしている。

 だが、行えないこともある。

「私にはあなたが必要です、雅年さん。衛さんは本当に靭いひとですが、とても優しいひとでもあります。瑞姫さんは言動に反して荒事自体を望みません」

 赤穂裕徳の所業は、白日の下に晒されたなら<竪琴ライラ>にとって致命的な要素になる。ただの構成員ならばまだしも、英雄ヒーローとまで呼ばれた少年が行ったとなれば、神官派に止まらず<竪琴ライラ>すべての演出すべき正義を揺るがしてしまう。

 もう止めるならばよかった。結果的には白とも黒ともつかぬ以上、もし疑われても都合のよい解釈で誤魔化すことは今ならばまだできた。少なくとも裕徳の名声には不利益を塗り潰して余りある価値があった。

 しかしこれからも続けるというのであれば、駄目だ。裕徳は信じがたいほど利口に立ち回っていたが、それでもやがて疑いは出る。今以上に増えてはもう、隠し切れるか否か分からない。

 裕徳は警告に気付かず、続けた。それも、形の上だけでも一番の友と呼んでいたはずの皓士郎を次の標的として。

 ならばせめて英雄ヒーローのまま、今のうちに消えてもらわなければならない。<囁き>ウィスパーは皓士郎を操り、皓士郎は死に至り、裕徳が仇を討つも己自身も息絶えた。それが今回の事態に与える筋書きだ。

 <竪琴ライラ>の崩壊だけはならない。人は極端から極端へ走るものだ。信じるものを壊された子らの多くは、今度は社会の平穏を脅かすだろう。その引き金となりうる要素はできるだけ排除しておかなければならないのだ。

 皓士郎の死は、ある意味ステイシアが裕徳に与えた猶予によって引き起こされたとも言える。しかし謝罪は口にしない。

「皓士郎さんの想いも裕徳さんの望みも踏み躙る嘘であるのでしょう。けれど私はこの嘘のために、あなたへ改めてお願いするしかありません」

 人をやめたとはいえ人であったものを殺す、そのような所業を為さねばならないことはある。さらにそれは、場合によってはいっそうどす黒く汚れていることもある。

 ステイシアも破壊の力を有していないわけではない。しかしそれを揮うのは、あくまでも聖女という立場においてのこと。

 だから処刑人が必要だ。たとえ昨日までの味方であろうとも惑わず、逃さず、容赦なく抹殺できる戦力が必要だ。

 処刑人は嫌悪されるほどにいい。忌まわしい存在だと思われるほどにいい。その分だけより安全に、聖女は偶像でいることができる。

「雅年さん」

 紡がれる言葉は恐れるよう。囁く声は畏れるよう。見上げて来るまなざしはほのかに揺れて。

 ステイシアは左手の甲に右手を重ね合わせ、やわらかに己が胸へと埋める。

「この灰色の世界で、私とともに堕ちてくださいますか?」

「……僕は外道だ。これ以上は堕ちるもなにもない気がするが」

 雅年はやはり、やる気もなさそうに答える。

 しかしどこか苦笑にも似た色は滲んでいた。

「それが約束だ。僕の望みが達せられるか、あるいは潰えるまでは付き合うさ」

 風が唸る。

 二人の言葉をどこへ運んでゆくのかは、魔神ハシュメールのみぞ知る。


















「あれは……確か小学校の低学年の頃だったかな。お兄ちゃ……兄と市民プールに行ったんですけど」

 春菜が穏やかな表情で言う。

 コーヒーの香り。格別に美味いというほどではないとはいえ、それでも喫茶店である。並程度でしかなくとも、やはり鼻腔を満たす香りは特別なものではあった。

「ほう」

 相槌を打ちながら、雅年は一年と少し前のことをふと思い出す。

 師と呼ぶ男、若き准教授の淹れてくれるコーヒーも美味くはあったが、やはり素人と玄人の差は大きいようだ。その真似をしてみた己の一杯など、話にもならない領域である。

「浮き輪があったせいで、うっかり足のつかない場所まで行っちゃったんですね、私。そしたら身じろぎした拍子にすっぽ抜けちゃいまして」

「大丈夫だったんですか!?」

 身を乗り出したのは梓だ。

 随分と大きな挙動だとも見えるのだが、一般的には少々大袈裟程度のものなのだろうと思い直す。

 今日も化粧が不必要に濃いであるとか、正直なところ邪魔であるとか、他にも色々と思ったものの、春菜が楽しそうなので気にしないことにした。

「うん、お兄ちゃんが凄い速さで助けに来てくれたから」

 話題そのものは非常に反応に困るものだ。春菜から視線を逸らすように、液面に視線を落とす。

 立ち昇る湯気。クリームがまだ渦を巻いている。

「そういえば名和さんってば、コーヒーはブラックじゃないんですね。邪道ですよ」

「知ったことじゃない。僕の勝手だ」

「でも、私もなんだかブラックで飲みそうなイメージがまだ抜けないんですよね」

「飲めないわけでもないんですけどね、ちょっと思い出の都合で」

「うわ何この対応の差。今ひどい差別されたよ?」

 静かな喫茶店の隅だけが三人の常連で喧しい。

 他に客がないからというわけでもないだろうが、マスターは何も言わない。

 日曜の昼下がりは穏やかに過ぎてゆく。

 そこには英雄などいるはずもない。凡人が憩っているだけだった。
















『英雄に必要不可欠なものは何だと思います?』

 それはいつのことだったか。

 可憐な面立ちに得意げな表情を浮かべ、ステイシアが出題して来た。

 答える必要性もないとは思ったものの、少し考えて浮かんだ言葉を雅年は口にした。

『機会だろう』

 答えそのものは何ら難しいものではない。聞けば誰しもが頷くだろう。

 あるいは、反論するかもしれないが。

 才能があるに越したことはない。努力をするに越したことはない。頼れる仲間がいるに越したことはない。素晴らしい精神も、地位も、価値あるとされる大抵のものは、あればあるほど望ましい。

 だが、それらは不可欠ではない。才能もなく努力もせず卑劣で愚鈍で誰からも嫌われていたとしても、英雄になれないわけではないのだ。

 絶対に必要とされるのは機会だ。英雄と呼ばれる理由となる事件である。どれほどの力と特長を有していたとしても、一生をただ平穏に、凡庸に終えれば英雄にはなり得ないのだ。

 間違いではないが、捻くれた極論ではある。雅年もそのことは理解していた。理解して、素直な回答として発したのだ。

 ともあれ、それはステイシアが用意していた答えであったらしい。

 眉尻を下げ、彼女はしょんぼりと肩を落とした。

『どうして正解しちゃうんでしょう……折角頑張って考えたのに……』

 そんなステイシアを尻目に、雅年は立ち去ろうとする。

 そう、あれはちょうど日曜だった。

 日曜は、あの喫茶店に行かなければならないのだ。

 だが、呼び止められた。

『雅年さんは英雄になりたいですか?』

 ぴたりと足を止め、振り返る。

 ステイシアは両手を胸の前で組み合わせ、どこか遠くを見るようなまなざしでこちらを見つめていた。

 雅年は笑いも憤りもしない。ただ、冷やかに拒絶した。

『御免こうむる』

 万人のための英雄であれば機会など嫌でもやって来る。見回せばいくらでも湧いて出る。既にある機会に対して斜に構える趣味は雅年にもない。

 だが、雅年の望みはそうではない。

 自分が機会を得るということはつまり、道化と成り果ててでも守りたいと願った唯一のものが危険に晒されるということであるのだ。

 背を向けた雅年は気付かない。

 ステイシアは、本当に嬉しそうに微笑んでいた。





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