英雄の条件・六
月のない夜に満天の星がいっそう輝く。
とはいえ、この空が何であるのか、裕徳は知らない。
ここは<伝承神殿>の屋上に相当する場所だ。ステイシアの部屋の脇に隠された階段から上って来ることができる。
足元にはコンクリートのような感触の床が果てしなく続き、頭上には見覚えのない星々が煌めく。外と言っていいのかは怪しい。むしろステイシアの部屋と同様のものなのではなかろうか。
くすんだ銀の、古めかしい懐中時計で時間を確認する。<魔人>に成ってからというもの、よく分からないがどうも時間の感覚がおかしい。時間を大切にする裕徳は時計を手放せない。
日付けが変わって三分、虚空に浮かぶドアが無造作に開いた。
「待ってたよ、ステ…………名和さん?」
顔を上げて笑顔で迎えようとして、予想外の姿に戸惑う。
裕徳を上回る長身に、右袖が異様に大きく広がったロングコート。名和雅年である。
「どうしたんですか? って、普通に考えたら伝言ですね」
「落ち着いたか、赤穂君」
「ええ、さすがに」
いつもの事務的な口調に、苦笑を返す。
「頭に血が上り過ぎてましたね。止められたのも分かります」
雅年は首肯した。
「あれに関しては、君にしては性急に過ぎたな」
「……擦れ違いはしましたけど、皓士郎は親友ですからね。自分を抑えられませんでした」
裕徳は中天を見上げる。星空と言ってもほとんどは黒だ。意識が吸い込まれ、眩暈がするようだった。
小さくため息をつく。
「俺がいなきゃ、皓士郎は死なずに済んだんでしょうか」
「身も蓋もないことを言うなら、それ以外ないと考えるのが妥当だろう」
「きっついなあ……」
この空間に風はない。春も夏も秋も冬も、ひんやりとした大気で満たされている。最も頭の冴える環境だと裕徳は思っている。
「でもその通りですね、その償いのためにも俺は
「……これは院生時代の恩師の受け売りだが」
少しの沈黙の後、そう言った雅年の口調と表情が少しだけ変化した。苦笑じみて感じられる。
「取り返しのつくものなど何もない、贖えるものなど何もない、すべてはただそう在り、そう在っただけなんだそうだ」
「よく分かりませんが」
「僕にも分かるような、分からないような。所詮、受け売りだ」
そう言ったときにはもういつもの事務的な調子に戻っていた。
しかしこの流れで口にしたならば、自然と今回の件に当てはめることはできる。
「いまさら俺が何をしても皓士郎が生き返るわけじゃないってことですか」
「先生が腹に呑んでいるのは別物だろう。僕としても含む意味合いは違う」
「禅問答は苦手なんですけど……」
裕徳は困ったように頭を掻く。追求はせず、本題に入る。
「それで結局、
「そのことなら、君に自決権は認めないそうだ」
不備のある書類を無情に突き返すように、雅年は無感動に告げた。あまりに自然で、裕徳は言葉の意味を理解できない。
だが、目の当たりにしたのだ。そのコートの右袖が揺れ、物々しい籠手が現れるのを。
「犯人自身に犯人探しをさせるのは状況によっては見極めに使えるかもしれないが、もうそんな段階じゃない」
「何を……」
裕徳は大きく跳び退る。
「何を言ってるんですか!?」
背筋が凍る。冷や汗が浮く。先ほどからの会話の、雅年の台詞の意味がひとつひとつ変わってゆく。
雅年は、籠手を顕現させたこと以外はそのままだ。やる気もなさそうに、無愛想に続ける。
「姿を見せないまま、組みし易い相手を煽り、暴発させ、自分の手で片付ける。強い相手を選ぶ場合は必ず、速度を生かせるように砲撃を得意とする<魔人>にする」
果ての見えないこの場はどこまでも逃げられるように見えて、だからこそ駆け出すことを躊躇う。虚空のドアを見失えば永劫に彷徨い続けることとなる、そんな未来が見えてならないのだ。
裕徳が堪えたのは、永遠への恐怖が半分以上を占めてはいた。
「解決できるのは当然だ。勝てる相手しか選んでいないし、説得に必要なのであろう要素もあらかじめ分かっているわけだからね。必要な敵を的確に作ってゆくことは戦略の基本だが、正直、見事なものだよ。よくあそこまで人を動かせるものだと思う」
なおもじりじりと後ずさる裕徳を追い、雅年は無造作に足を進める。
そして最後に残った曖昧さを打ちのめすように、名を呼んだ。
「君のことだ、
「まさか俺が皓士郎を陥れたとでも言うんですか? 馬鹿にしてる、あいつは俺の親友だ!」
「もし本当にそう思っているのなら、君は悲劇のヒーローを演出するために親友を殺したということか」
皮肉を言う口調ではない。嘲るわけでもない。靴音までが淡々と、ただ淡々と響く。
処刑人が歩み寄って来る。
裕徳の頭の中では幾つもの言葉が組み上げられようとしていた。今まで自分を支え続けて来たものだ。
身体能力もクラウンアームズも、どれほど強力であったとしても結局はたかが知れている。本当に最も強いのは他者と通じ、動かす力なのだと裕徳は確信している。
だからその力を、人間であれば誰にでもできることを揮おうとする。
そもそも裕徳はただこの場を逃れればいいというわけではない。事実が露わになれば名声も信頼も地に墜ちる。まさに取り返しなどつかない。だから糊塗しなければならない。
その際に重要なのはステイシアだ。その<
しかし現状では情報が足りないのだ。なぜ見透かされることとなったのかが分からなければ、ステイシアを説き伏せられるだけのものは組み上げ切れない。まずは目の前の雅年からそれを聞き出すことから始めなければならないのだ。
むしろそれこそが最大の難関なのではないかと思ったのだが。
「どうして露見したのか、その顔を見る限りではもしかして思い当たる節がないのか」
「どうしてそんな勘違いをしたのかは教えてほしいですよ。本当に俺を馬鹿にしている」
腸が煮えくり返るのをおくびにも出さず、あくまでも誤解を受けたがための不機嫌と見せつつ裕徳は言う。慣れたものだ。
このまま調子に乗って喋ってくれるならそれが最上と、そんな思いも勿論見せない。
「少なくとも僕がおかしいと思った理由は、格別派手なものじゃない。まず、君は確か八箇月前に<魔人>となったわけだが、半年前からは一度たりともステイシアから案件を割り振られていない。すべて自分から任せろと言い出したものか、そもそも君自身が持って来た件か、既に解決したという報告だ」
「……何か問題があるとは思えませんけど」
口にしたのは強がりではない。要は積極的、能動的であるということだ。それに文句をつけるのは、言われなければ動けない者のやっかみだ。そういう風に切り捨てられる。
一般的に良いとされるものは実に便利だ。正論は強いのだ。
「むしろみんなの方が受動的すぎていけないんだと思います」
「僕としては能動的であることがもたらす弊害もあると思うんだが、この際それは置いておこう。それだけでは問題にはならないというのも賛成はできる」
「随分と含みのある言い方ですね」
やはり一筋縄ではいかないのか、と裕徳は腹の底で唸る。拳での戦い方と同じだ。事務的なまなざしで標的を見据え、致命の一撃を放てる隙を窺っている、あるいは作り出そうとしている。
喚き立てて来るだけであれば、出足を払ってやれば一息に挫けるのだが。
「次に、君の行う事件解決は定期的だ。少し調べてみたところ、森河君の件を含めたなら二十七週間で二十六件。数だけではなく実際に、一度の例外を除けば必ず週に一度だけ行っている」
「いや、いい加減なこと言わないでください。二週間くらい何もなかったこととか、二日連続とかありましたよ」
苦笑を浮かべる。口にした台詞は嘘ではない。
しかし雅年が次に告げたのは、嘘にはならないその理由だった。
「二週間くらいというのは月曜から一度日曜を飛ばし、その次にあたる日曜。二日連続は日曜と月曜。仮に月曜を週の始まりだと定義すれば、同じ週に二度ということはなかった」
「かなりこじつけ臭いと思うんですが」
「ちなみに一度あった例外は、君が申し出た案件をステイシアに却下された、今回までは唯一だった事例のときだ。なぜか君は、他にも案件があったのに申し出ようとはしなかったらしいね」
淡々とした口調は、そこで一度止む。
表情からも視線からも、やはり何も読み取れない。
「偶然そうなることが絶対にあり得ないとは言わない。僕から見たなら結局は、怪しくはあっても証拠はない、そんなところだったんだが……事実がどうなのか、まともに裏を取り始めるのには充分な理由になると思わないか?」
「いや、そりゃさ、確かにそう箇条書きみたいに言われると怪しく思えるのかもしれませんけど……」
「慌てるな赤穂君、逆だ。複合してこそ怪しさは増すんだろうに」
風が吹いた。
初めてのことだ。この場所でそんなことがあるとは知らなかった。
コートの裾が揺れる。
裕徳が身震いした寒さは、果たして風によるものだったか、目の前の男にもたらされたものだったか。
一度は抑え込んだはずの焦燥が再び湧き出す。
雅年はまだ、具体的な証拠を口にしていない。それが分からないうちは弁解を形成できない。口にした後で言い逃れを否定するようなものを出されては困るのだ。
「赤穂君」
「……なんですか?」
「<
一体何を言い出したのか、裕徳には理解できなかった。
しかし雅年の口調は淀みない。気力には欠けていたが、裕徳を捉えた瞳に意思の欠落はない。
「面積にして六万平方kmもの範囲から<魔人>の関わる事件を見つけ出し、適切と思える人員を選ぶのはステイシアだ。どうやって成し遂げているのかは僕にも推測しかできないが、それだけの目から、どうして自分だけは逃れられると思った?」
「何を……」
「僕たちは目の前にあるものを潰すだけが能の、ただの<魔人>だ。しかしあれは違う」
裕徳も知らないわけではない。
ステイシア。ステイシア=エフェメラ=ミンストレル。<
彼女は魔神ハシュメールを奉じる神官とでも言うべき存在なのである。
だが、だ。しかしだ。だからと言って。
「三百七十九。それがこの半年で君の残した痕跡の数だそうだ。君という存在の残滓が手紙に残っていたと言われても僕には分からないが」
「……冗談」
今度こそ動揺を抑え切れなかった。顔はともかく、声が震えた。
考えられる限り、完璧にやったはずだ。無論、本当の完璧ではないにしても、可能な限りはやってのけたはずだ。
だというのにその数は何なのだ。しかも理由が酷い。
「そんな超常能力、個人の主観でしか表せないものを証拠だとでも言うつもりなんですか!?」
「僕も理不尽だとは思う。ただ、仮に君がノックスの十戒に従っていたとしても、探偵役までそれに合わせる必要はないだろうね。第一、ここで君にとって重要なのは客観的な証拠じゃない。ステイシア自身が調べ、確信しているということだろう」
雅年が更に一歩進み出た。
「そして万が一にも冤罪だったとして、僕にしてみればやることは変わらない。今回の仕事は、一応因果を含めてから君を殺すことだ」
構えをとる。右半身となり、籠手のある右腕を盾のようにかざして左腕は腰だめに。双眸は無感動に裕徳を捉えたままだ。
腰を落として重く床を踏む音こそが、本当の処刑宣告だった。
『お前は今日さえよければいいんだろう。もっと先を見るんだ』
弁護士をしていた父親は、裕徳にそう言った。
『明日どうするか、来週どうするか、一年後、十年後を考えるんだ』
中学生の頃のことである。ちょうど一般的には反抗期と呼ばれる時期、当然のように拒絶した。
しかしあるとき、気付いてしまったのだ。
暴力を振るう同級生、怯えるクラスメイト。見ていて不快ではあったが、身体能力で大きく秀でるのが俊足程度である自分に対抗する力はない。しかしどうしても許しがたかった。だから先を考えた。
半年後のために計略を組み上げた。とは言っても単純なものだ。味方を増やす一方で敵の戦力と立場とを弱める、それだけのものである。
些細な隙を見つけては標的の鎧を一枚ずつ剥ぎ取り、他愛のないことで自分の発言力を上げておく。標的に睨まれないよう、他に目立つ誰かを見え易い旗として仕立て上げておく。
幸い、父親からの遺伝か幼い頃からの会話のおかげか、裕徳は弁が立った。時間をかけて少しずつ、面白いように状況は構築されてゆく。必ずしも思い通りになるわけでもなかったが、それでも確実に追い詰めてゆく実感があった。
そして勝った。勝って、
先を考えて動くということはこれほどまでに素晴らしいのだと思い知ったのだ。父への反発など跡形もなく消え失せ、感謝すらした。
そして今、裕徳はかつてない不快を覚えていた。
最悪だ。
最悪と以外にどう言えるだろう。
ステイシアに一切が露見し、見限られた。<
そして崩壊を待つまでもなく、目の前には名和雅年。濡れ衣であってさえ構わないとまで口にしたからにはつまり、どれほど神がかった論理であろうと狡知を尽くした邪悪な論理であろうと、いずれ雑音と変わらないということである。
戦略的には絶望的とならば言い換えられるか。
それでもまだ裕徳は諦めていなかった。力尽くででもステイシアをなんとかすればいい。まだ皆に知らされていなければ、自分の発言力はステイシアに次ぐはずだ。有耶無耶にすることも可能である。
皓士郎に漏らしたステイシアへの恋心は決して嘘ではない。しかし裕徳は名声を失うことをこそより恐れた。
そして望みを果たすためにまず行わなければならないのは、処刑人の排除である。
『ウラヌストゥース』と『セレスティアルフレイク』を顕現させて不意打ちに備えつつ、声をかける。
「幻滅しました。随分と臆病なんですね。
「君の発動条件を知らない以上、僕には真偽を判断しようもないな」
案の定、安い煽りには乗らない。しかし予想外の返事でもあった。
「何言ってるんですか、俺の条件は……」
「『皆を守る戦いであること』なら、嘘だろう。調べたことがある。あれはそんな汎用性の高い状況を条件にすることはできない」
深淵の色をした籠手の向こう側から冷徹な瞳がこちらを見ている。まるですべてを見透かしているかのように、惑いなく。
皆、すなわち仲間や何も知らずに暮らす人々を守る戦いというならば、<
「結論として、あれは不都合な状況が少なくとも半数以上を占めるからこそ成り立つものだ。誰かを守ることを条件にするのなら特定個人が限度だよ。発動時と非発動時の状況を、察するに君はうまく言い換えたんだろうな。本当の条件も、週に一件ずつ解決して来たことを思えば推測はできる」
「あんまり狭い了見で語らないでくださいよ。あなたが知らないだけで実際には成り立つんです」
裕徳も動揺は表わさない。小馬鹿にしたような表情とともに言ってのける。
しかしやはり効果はない。返って来るのは淡々とした声のみ。怒りはおろか、軽蔑すら存在しない。
「一度は学者を目指したこともある。議論なんて苦手にもほどがあるけどね、だからこそ検証もせずに断言はしない。学問の本質を侮らないことだ」
ぎり、と裕徳は奥歯を噛み締める。本当に不快で仕方がない。
どうしてこんなにも旨くいかないのだろう。皓士郎を消したときもそうだ。あれほど追い込まれる予定ではなかったのに、あやうく命を落とすところだった。
「……もういい、ステイシアのところへ行かせてもらう」
口調が変わる。繕うのをやめたのだ。
月曜になっていたのは幸いだった。意識を集中させ、頭に言葉として響くほどの明確さで今週の『敵』を目の前の男に設定する。
その途端に力が満ち溢れて来た。
高揚する。今の自分は単純な力においても<
軽薄な声をかけて来た少年に感じた嫌悪は不遜な宣言に対するものではなく、むしろ最強ではないのが当然であるという態度をとられたからだ。
処刑人と自分、実際にやり合ったことがあるわけでもないのに、なぜか向こうが強いことになっている。誰も彼もが、雅年のことを厭う者までもがそう言う。確かに相性は悪いが、実際には分からないではないか。
それは理由のうちの小さなひとつでしかないものの、だから裕徳は雅年のことが嫌いだった。親しげに話しかける裏ではいつも嫌悪が溢れ出しそうだった。
<
<
「行くぞ」
声を残し、裕徳は踏み出す。俊敏さにおいて並ぶ者はあっても越える<魔人>はない、神官派最速が戦闘に入る。
裕徳は、今までこの状態でやり合ったことのある相手の大半に反応すら許していない。一気に制圧してしまうか、そうでなくとも一方的に翻弄して終わらせてしまう。
しかし、行くと言いながら、確かに雅年の方へと駆けながら、本当の狙いは違う。見ているのは雅年の背後のドアである。
裕徳のような縦横無尽に疾駆する戦い方にとって最もやり難いのは、ちょうど目前の雅年のようにじっと待ち構えて交叉法を叩き込んで来る相手だ。
普通の生き物であれば、速いということはその速さを得るための筋力も備わっているということであり、必然的に重さも兼ね備えていることが多い。
しかし<魔人>は理不尽である。今の裕徳は雅年の七倍以上の速度で駆けるが、その速度のすべてを乗せた一撃の威はおそらく雅年の拳の半分にも満たない。裕徳が軽いわけではなく、雅年が常軌を逸して重いのだ。
速度に振り回されることなく、仕掛けて来る瞬間にだけ的確に反応して一撃ずつ叩き込んだならば、威力の差が結果として如実に表れることとなる。
そんなものに付き合うことはない。まともにやり合ったとしても決して負けるつもりはないが、要はステイシアさえ何とかすればいいのだ。雅年が仕事だから立ち塞がっているというのなら、仕事そのものを成り立たなくしてしまえばいいのである。
裕徳は雅年の二歩手前で斜めに跳ぶ。そして背中側を一気に抜き去ろうとする。
ドアが迫る。手を伸ばして。
視界が回った。
激痛、眩暈、堅い床の感触が全身を舐めてゆく。
何が起こったのかは気付けなかった。訳が分からぬままにも立ち上がり、改めて戸惑う。
ドアは遥か向こう、雅年は遮るようにその前に構えてこちらを見据えている。だが、位置は変わっていた。裕徳の立ち上がった場所は、方角としてはドアの斜め裏側にあたる。
雅年はただ、脇を行く裕徳へと大きく踏み込むとともに突き転がしたのだ。理不尽を行う<魔人>も、自分がどうなっているのか把握できなくては立て直せない。速さが仇となり、裕徳は復帰まで随分と転がる破目になったのである。
しかし裕徳は、何かをされたのだということまでしか理解できなかった。
何よりも、どうして間に合ったのかが分からない。反応されてしまうことは、裕徳にとってはこれも納得はできないものの、まだいい。だが、襲うと見せかけてそれを裏切ったはずだ。反応したとしても対応は遅れるはずなのだ。
「……どうして気付いた?」
独り言のつもりだったが、声が来た。
「赤穂君」
彼我の距離は300m以上に達する。声を張り上げてもいない。だというのに、この空間の特性ででもあるのか、向かい合って話しているかのように響いた。
「喋るのはともかく、手の内を晒せとは特に言われていないんだ。だが君は本当に受け身が苦手なんだな。どんな素晴らしいものにも弊害はあるものだが、見事にそれが出ている」
「ふざけるな!」
裕徳は気付かない。雅年は予想外のことにも対応したのではなく、最初からドアを餌にしていたのだ。隙とは誘うために見せるものである。そのために<
裕徳は気付けないでいることにも気付かない。今まで、あまりにも自分の思い通りに事態が動き過ぎていた。勝てる状況を作り勝てる相手を選ぶことで、実際の戦いではただの力押しでも勝利を得られてしまう。そのことが頭を鈍らせた。
ドアを囮にするという発想など誰にでも思いつける単純なものだ。裕徳も立場が逆であったなら間違いなく仕込んだだろう。だが、それを自分に向けられた今、そんな単純なことにすら思い当たれないのである。
そしてもう一つ。優位に立ち続けて来たため、優位に立たれることそのものが我慢ならない。
「苛つくんだよ、あんた……死ねよ、死ねよッ!」
口汚く吠える。次を考えなければならない、今は繕わなければならないと囁く理性がとうとう跡形もなく吹き飛んだ。
「カスどもを使ったっていいだろ別に! あいつらは放っておいても問題を起こしてたはずだ、俺はそれを止めたんだよ、もっと大局を見ろよ!」
対して、返って来たのは腹立たしいほど平静で事務的な声だった。
「君の心根はさて置き、確かにそれは言える。君は結果的に危険因子の炙り出しを行っただけという解釈はできる」
「だったら……」
「だが同時に、暴発の結果として本来なら平穏に暮らせていた人々に被害を与えさせたという解釈もやはりできる。あり得た今など語ったところでどうなるわけでもない以上、どちらの解釈でもいい」
その内容は、冷徹で編み上げられている。いっそ裕徳よりも冷やかに世界を俯瞰している。
「法に委ねるのでないなら、こういうどちらでもありうるものは都合のいい方を選ぶんだ。無論、君の件なら君が益をもたらすのか否かが判断基準になる」
「利益になるに決まってるだろ!」
「だからステイシアは見極めることにした。君が人々や<
見ている。いつもの無感動なまなざしがこちらを見ている。
雅年自身には裕徳への関心はないのだ。仕事だからここにいて、喋り、拳を握っているのだ。
「君は後手に回るのが苦手だろうから気をつけろ、と言ったのは覚えているかな。後手に回らざるを得ない<
「何を……」
裕徳は記憶を辿る。そんな馬鹿なと思っていたが、確かに覚えがある。あのときは知った風な口をと内心苛立っただけで、それ以上は気にもしていなかったが。
「それに気付いていれば、その前のステイシアの台詞も裏に意味を持っていたことに気付けただろうに。状況を作るのが得意な君が腹芸は苦手だとは予想していなかった。申し訳ない」
「……おちょくってんのか、あんた。なあッ!?」
「昔から喋るのも人付き合いも苦手なんだ。そのあたりを酌んでくれるとありがたい」
ちらりとだけ、そこで苦笑じみたものが浮かんだ。それがいっそう裕徳の怒りに油を注ぐ。
「それで、俺は害になるって? ふざけるな! 俺がどれだけ貢献して来たと思ってるんだ! 俺の代わりなんて誰に務まる!?」
「個人にとっての価値ならまだしも、社会的な立場において代わりがいないことは滅多にない。僕であれ君であれ、いないならいないでどうとでもなる」
雅年は裕徳の熱など知らぬげに流す。喋りながらも、構えに揺らぎは生まれない。迂闊に飛び込めば一撃の下にその拳が撃墜するのだろう。
「森河君は少々物騒だが、真っ当な子だったらしいね。ステイシア曰く、侠気も決断力もある、逆境に踏みとどまり本当に弱い者のために戦える、今は未熟であってもやがて確固とした意思に至れる、あとは過激を諌めてくれるパートナーさえいればいつかきっとヒーローになれる。あの口調では、多分に贔屓目はあったのかもしれないが」
その言葉を裕徳は笑う。
「それが理由だとでも言うのかよ? ステイシアも分かってない。
中学生のとき、
いじめなど次から次へといくらでも起こる。期待されても処理し切れるはずがない。そして期待の分だけ失望は大きくなる。ヒーロー気取りとの陰口は、高校に上がってもまだ付いて来た。
だから裕徳は最初からやり直すことにしたのだ。新しい顔と名と絶大な力で、自分を
人を思いのままに動かすのは楽しい。称賛されるのは心地好い。
「この世界は優しくない。興味なさそうな顔してても知らないわけじゃないだろ。あっちもこっちも下らない。誰も彼も自己中心的だ。
口の端に滲んだ冷笑が心を映す。誰に向けられたとも知れぬ悪意が漏れ出していた。
皓士郎はまだ、無辜の人々がいると思っていた。しかし裕徳にはそれすらないのである。
「君が何を見て、何を乗せてそう言っているのかは僕は知らないし、世界が優しいのかどうかも分からないが……」
対して、やはり雅年の口調は淡泊だ。ただ淡泊に指摘するのだ。
「成り立たないというなら、だからこそ必要なんだろうに。それに、大袈裟に考えなければ実際にいくらでもいるだろう。ただ、それは君のことではないというだけで」
その気はないというだけで、残酷な台詞である。仮にも
裕徳の肩が震えた。無論、怒りでだ。
こんなことを言わせたままにはできない。絶対にだ。
「……ほんと、ここまで俺を否定するのはあんたくらいだよ」
右手に構えた『ウラヌストゥース』の青く透き通った刃に左手を添える。
雅年は動かず構えたまま。それが命取りだと裕徳は笑う。
雅年の
今の自分とであれば
このように正面からはやりたくなかった。勝てるかどうか、賭けになってしまうから。
「“見上げよ”」
始まりは命令形。
口にするのは鍵だ。過剰なまでの力の収束を成し遂げるための言葉である。
ただし、己の身体を破壊するわけではない。
「“蒼天は其処に在り、零れ落ちた欠片は我が手の内に在る”」
皓士郎は自分だけの切り札だと思っていたようだが、それはとんでもない勘違いである。
裕徳も会得しているのだ。それも、あのような荒削りなものではなく、より洗練されたやり方を。
皓士郎も使えるのだとあらかじめ知っていれば、やらせはしなかった。放つところへこれを合わせて潰し、鮮やかな勝利を飾ったはずだった。
「“蒼天より下る
『セレスティアルフレイク』の形成する三枚の盾が、吸い込まれるようにして『ウラヌストゥース』の中に消える。
裕徳は己自身を破壊するほどまでの過剰な力を作り上げることはできないが、替わりに防御の力を上乗せすることによって同等の威にまで到達した。
「“刮目せよ。其は苛烈なる闘神が神器なれば”」
蒼い雷光が裕徳を包み込んだ。
否、裕徳こそが肉体を蒼雷と化したのだ。
伝承は、ギリシアからインドへ。
「<
文字通りの雷光が走った。
それは無論のこと、物理的な雷ではない。
古来より、雷は天の裁きであるとして人は意識した。それをなぞる、意味としての雷である。
もはや速さに意味はない。天罰を避けることは許されない。たとえ光を越えて回避しようと、現実を覆して蒼雷は敵を撃ち抜くのだ。
雅年は動かない。構えたまま、眉の一筋すら揺らがない。
迫りながら、裕徳は己と己の術を信じる。
これを出した時点で終わりだ。<
<
一番嫌いなのに、手を出せば返り討ちに遭う。これほど腹立たしい相手はない。なかったのだ、かつては。
しかし<
『おおおおおおおおおおおおおおおッ!!』
今の裕徳は空気を震わせない。声は響かず、しかし雄叫びは世界に徹った。
ロングコートの姿が近付いて来る。無感動な表情が、巨大な籠手が近付いて来る。
『終わりだ! 終わりだ! 終わりだ!』
歓喜の雄叫び。雅年の姿がいっぱいにまで大きく映って。
籠手が動いた。
盾のように構えた姿勢から、打ち下ろした。
本当はただ肘から先を動かしただけではない。芯は揺るがぬままに、足の裏から体幹、腕へと流れを通して放たれた絶妙の裏拳である。
それは過たず、触れられぬはずだった蒼雷を叩き落とした。
危うく意識を吹き飛ばされそうになるほどの衝撃。
何が起こったのか、またも裕徳には理解できなかった。雷と化した今、根本的にあるはずのない痛みが、落ちてゆきそうな感覚が全身を襲う。それから自分が床に這い蹲らされていることだけは分かった。
『っ!?』
思念を発する暇すらありはしない。景色が動いたかと思えば、裕徳は雅年の左手に首を掴まれて吊り上げられていた。
「……ああ、触れられないと思っていたのか」
灼かれる左腕を即座に復元しながら、雅年のやる気の見えないまなざしが裕徳を捉えていた。まるで心を読んだかのように告げる。
「不思議なことじゃない。理屈ならきちんとある。君が納得するか否かは別として」
『待て……待てッ!?』
ゆっくりと引き絞られる右腕、籠手に裕徳は恐怖する。
あり得ないことだ。触れられるなど、おかしい。どうして雷を掴めるのだ。天罰の首を絞めるのだ。
しかし現実に、ゆるりゆるりと喉に指が食い込んでゆく。
触れられるのなら、その一撃をまともに受ければ死は免れない。万全の状態ならばまだしも、そもそも皓士郎に負わされた痛手も癒え切ってはいないのだ。
死は名声を失うことと同等に恐ろしい。生きてさえいれば挽回できるかもしれない、逆襲できるかもしれないが、命を落とせばそこまでなのだ。
『……取引をしよう。<
「すぐにでもとどめを刺せる状況で時間を無駄に使っているから交渉の余地があると思ったのか、君は。あるいは逆転できると」
早口にまくしたてる裕徳を遮り、雅年は死を告げる。
「既に言ったが、今回の僕の仕事は因果を含めてから君を殺すことだ。もういい加減、因果なら充分に含めたと思う。茶番も終わりでいいだろう」
『茶番だと!? ふざけるな! ふざけるな、ふざけるなッ!! 納得できるわけがない、俺が、俺が……!』
まったく興味もなさそうに茶番と言い切られたことに、裕徳は激昂する。<
他者にとっての己の大きな価値、それこそが裕徳の深奥に最も強く根付いた望みだ。自分には常に価値がなくてはならない。生きていても、死ぬときもせめて、重要でなければならない。
皓士郎はよかった。随分と苛立たせてはくれたが、最期に渾身の怒りを残して死んでいった。
しかし名和雅年にとって、赤穂裕徳は有象無象のひとつに過ぎない。
だからこそ何よりも許せない。だからこそこの世の誰よりも嫌悪するのだ。
「そんな顔で殺すのか、俺を! そんな下らない顔で殺すのか! 外道が、外道がッ!!」
「いかにも。方向性こそ違え、君と同様に僕は外道だとも」
愉悦も自虐もなく、雅年は肯う。
双眸は冷やかに裕徳を捉えたまま、喉どころか首を握り潰しつつ最後の一撃を放つ。
「しかしどうしても洒落た理由が欲しいというのなら」
その右拳に一切の容赦はなく、防衛本能が動かした三枚の盾を呑み込み粉砕し、なお衰えを知らない。
裕徳は渦を幻視した。底の知れぬ深淵へと引き摺り込む、暗い暗い渦だ。
「
死した<魔人>は欠片すら残らない。断末魔さえ響く前に消えた。
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