英雄の条件・五
<魔人>は夜に蠢く。
満月の下でも三日月の下でもいい。上弦下弦も問わない。
無論、今宵のような新月でも。
土曜の夜だからか、近くの繁華街に繰り出す人の数は普段よりも多い。もっとも声までは此処へ聞こえて来ない。耳朶を打つのはあくまでも穏やかな波の音だ。同時に潮の香が鼻腔をくすぐる。
「お前の方から呼び出すってのは珍しいな」
昨夜と同じ海岸で、裕徳が戸惑い気味にそう言った。
決裂から丸一日も経っていないがための気まずさにか、呼び出しておきながら沈黙を守ったままの皓士郎の態度にか、見るからに居心地が悪そうだ。
そんなことすら、今の皓士郎には歪んだ愉悦を呼び起こす。
「なあ、裕徳。オレはお前みたいに口上手くないから単刀直入に言うけどさ」
今更舌戦を仕掛ける気などない。片手に収まるほどの大きさの、硝子玉と見える宝珠をポケットから取り出した。
美しいが、どこか虚ろな珠だ。見ているとその空虚に意識を引き摺りこまれそうになる。
無論、裕徳もこの宝珠を知っている。何をもたらすものなのかも知っている。
「何をする気だ……!?」
「死ぬべきだよ、お前」
皓士郎は言葉とともに珠を握り潰した。
抵抗など感じられなかった。確かに硬かったはずの宝珠は音もなく崩れ去り。
そして世界が塗り替えられた。
色褪せてゆく。自分と相手以外のすべてが灰色に置換され、戦場と化してゆく。
逃さぬ替わりに、殺し尽くすか殺されるかしなければ脱出することは叶わぬ闘技場。<
「死ねよ、裕徳」
いっそ囁くように告げる皓士郎の右手に光が灯った。
赤だ。そして人差し指に嵌められた指輪が輝くと、光は膨れ上がった。
後ろへと跳ぶ裕徳。しかし皓士郎は逃さない。膨れ上がった赤は、今度は面にまで収束、右手を突き出す動きとともに解き放たれた。
刹那、赤い帯が虚空を割る。
「っ!?」
舌打ちひとつ、裕徳は咄嗟に横へ跳ぶが、間に合わずに残された左の人差し指と中指が音もなく切断された。
大きな傷ではない。即座に生やしつつ大きく跳び退り、裕徳は惑うように今一度悲痛な声を上げた。
「何のつもりなんだ、皓士郎!?」
「言ったろ。死ぬべきなんだよ、お前。迷惑なんだ」
既に皓士郎の右手には赤光が復活している。不吉に明滅しながら徐々に強くなってゆく。
「正気か、お前!?」
「それはどういう意味なんだろうなあ、おい」
口の端を歪ませた笑みと睨めつけるまなざしはどこか卑屈で、自嘲を思わせる。
「お前、自分を正しいと信じて疑わないのか? それともオレじゃお前に敵わないとでも言いたいのか、よ!?」
解き放つ。
赤の帯が伸びる。二つが四つ、四つが八つ。幾条にも分かれ、逃れる裕徳へと追いすがる。
外れた一本が両断した防砂林の松が、ずり落ちるよりも早く燃え上がった。火の粉を巻き上げ、他へと燃え移る。仮初めのとはいえ、樹木を問答無用に炎上させたのである。
これこそが皓士郎の得意とする攻撃だ。ただ力を弾や奔流として放つ大味な砲撃ではなく、収束して万物を切り刻む赤光の帯と成すのである。高熱は付帯する現象に過ぎない。
「逃さねえっ!」
「捕まるかよ!」
裕徳が加速する。領域内からは出られないものの、境界までも足場にして縦横無尽に駆け巡る。
速い。むしろ帯よりも。追い切れない。
それどころか、張り巡らされた帯の隙間を掻い潜って皓士郎の背後をとることさえしてのけた。
「皓士郎っ!」
「読めてるよ!」
皓士郎が吼える。振りかえらぬまま、下へと新たに放たれた輝きは地面に触れるよりも早く跳ね上がり、三十二に分裂して裕徳を襲った。
貫いたのはそのうちの三つ。左の肩と脇腹と大腿。さすがに細くなっていたため大した傷にはなっていないが、大きく跳び退かせることには成功した。
血が流れないのは傷口を瞬時に焼灼してしまうからだ。部位復元自体はいくらでもできる<魔人>に対しては、良くも悪くもあまり意味のないことであるが。
「オレが下だとでも思ってんのなら、バラバラになってから後悔しやがれ!」
理解している。裕徳は高速機動を得意とする。その速さたるや<
対する皓士郎のクラウンアームズは右手の人差し指に嵌めた『バロールアイ』のみ。打撃や砲撃の威力を大幅に底上げしてくれる高位のものだ。だが、あくまでもそれだけである。決して身を守ってくれはしない。
それでも皓士郎には勝算があった。
裕徳の
裕徳の強さ、<
加えて切り札もある。誰にも見せたことのない奥の手だ。
無論、それらすべてを考慮してなお厳しいのだ。皓士郎の
だが、十に一つであっても勝算は勝算だ。これに皓士郎は文字通り命を懸けた。
「死ねよ。それが<
「訳の分からないこと言ってないで正気に戻れ!」
さすがに裕徳も構えてはいる。それでもまだ迷いを見せていた。
信じられないのか。そう皓士郎は小さく笑う。
皆はこれが優しさに見えるのだろう。騙されるのだろう。
「オレは正気だよ。おかしいのはお前やみんなの方だ」
だが迷いがあるならそれも利用させてもらう。
皓士郎は右手に赤光を灯した。胸の内で荒れ狂う激情を映してか不規則に明滅し、灰色の世界が不吉に染め上げられる。
「壊れろ!」
叫びとともに大きく踏み込んだ。
さほど速くないとは言っても皓士郎も<魔人>である。ただの人間にとっては反射すら間に合わない領域にある。
勿論、裕徳にとっては鈍いのだろう。だが皓士郎は裕徳の表情の僅かな歪みから、見事虚を突けたことを確信した。
予想だにしていなかったに違いない。ただ帯を撃ち続けるだけが能だと思っていたに違いない。
ざまを見ろ、ざまを見ろ。その慢心で足元をすくわれるのだ。
裕徳の目前で赤光を解き放つ。後ろへ。
それは十六に分かたれて弧を描きながら標的を取り囲むように殺到し、そのうちの一本が一拍遅れて回避行動に入った裕徳の左腕を切り落とした。
真っ直ぐ正面から放っていたならばかわされていただろう。たとえ
しかしその速さが命取りだ。<魔人>は理不尽を行うが、魔神には遥かに及ばない。一度動き始めたならば、速ければ速いほど制動は難しいのだ。避ける動きに入ったからこそ当てられた。
「オレを舐めてるだろ、お前。いいぜ、そのまま殺してやる」
距離をとりつつ切り落とされた左腕を生やす裕徳へと、憎々しげに言い放つ。
追撃はしない。既にかわされる間合いだ、無駄弾を撃つ余裕などない。可能ならもう一撃くらい入れておきたかったが。
さすがにこれで裕徳の油断もほとんど消える。本番が始まる。だからこその宣言だった。
「お前……!」
裕徳の周りに三つの光が現れた。両掌を合わせたくらいの大きさの菱形、半ば青く透き通って緩く曲面を描く盾だ。首飾り型のクラウンアームズ、『セレスティアルフレイク』の創り出した防御の要である。
そして右手には両刃の短剣、『ウラヌストゥース』。これもまた青空を思わせる半透明の剣身を持っている。
いずれも美しいと言っていいだろう。柄などの装飾は素朴なものだが、青水晶から削り出したような盾と剣身は武器というよりも芸術品のようだ。
「ようやく抜いたな。どうせオレかお前のどちらかが死なない限り、ここから出られないんだぜ?」
赤光が明滅する。双眸に灯る憎悪のように。
裕徳がまだ戦意を持ち切れていないことを皓士郎は見抜いていた。油断はしていない、していないつもりであるのだろうが、それこそが隙なのだ。ほとんど消えたからこそ残った部分を自覚できないのだ。
「で、死ぬのはお前でなきゃいけない」
赤を撃ち出す。四つに分裂した帯はそれぞれ軌道と速さを異ならせ、空間を切り裂きながら音もなく迫り寄る。
が、今度は裕徳も遅滞なく動いた。凄まじい速さで帯の合間をすり抜け、それでも追おうとした二つは青の盾が動いて打ち払う。
ぶつかり合った赤と青が、紫ではなく白を作った。
皓士郎の口許が僅かに歪む。
赤い輝きはどうしてこんなにも不吉なのだろう。
対して、青い輝きはどうしてあんなにも美しいのだろうか。清冽な水を思わせ、
いつもは大して気にもしていなかった下らない、けれど紛うことなき嫉妬である。胸の内から染み出して、今は殺意を増幅する。
続けて何度も赤を放つ。軌道もタイミングも変えながら観察し続ける。
徐々に、かわし方に余裕が出て来た。
「もうよせ! 回避パターンを見極めようとしてるのかもしれないが、これだけ撃たれれば俺だってお前の攻撃パターンは見えて来るんだぞ?」
「馬鹿が!」
嘲笑う。
次に放った帯は三十二に分裂した。それでも正面からとなれば捉え切るのは難しい。
帯のままで、あったならば。
細い帯の形作る籠の網目を縫い、軽やかに裕徳が駆ける。的確に読み、的確に動いている。全方向に赤がちらついているというのに。
皓士郎は帯の制御を手放した。途端に赤が膨れ上がる。収束されていた力が、裕徳の全周囲で荒れ狂った。
避けることなど出来ようはずもない。耐えるか、最速で効果範囲を突っ切るしかないのだ。
無論のこと、折角収束してあったものを拡散させたのだから威力そのものは激減している。高位の防御用クラウンアームズの形成する防御領域を貫けない可能性は高い。
だが、裕徳の『セレスティアルフレイク』は通常のクラウンアームズとは異なると皓士郎は踏んだのだ。
防御用クラウンアームズには大きく分けて二種類がある。一方は衣服や鎧のような形状をしたもので、クラウンアームズ自体がまず強固な防具としてはたらき、かつ周囲に防護領域も展開しているもの。そしてもう一方は装飾品の形状をしたもので、事実上防護領域としてしかはたらかないが、その代わり領域の緩衝力はより高くなっているものである。
『セレスティアルフレイク』は形の上では後者に属する。しかし本質的には前者に近いのではないか、むしろ前者よりも極端なのではないかと皓士郎は推測したのだ。
先ほど観察していたのは回避パターンではなく、三枚の盾の動きだ。あれは実によく動いていた。回避し切れない攻撃はどれほど細くとも防護領域に任せず、盾で受け止め、あるいは逸らしていた。おそらく、盾以外の部分の防護能力は極端に低い。
なればこそ、通じる。拡散された弱い力でも貫通してくれるはずだ。
皓士郎は更に、左手に新たな赤を収束させる。
裕徳がその場で耐えることを選択するとは思えない。速いからこそ、その場を脱出しようとする。あとはこちらへ向かって来るか、この灰色世界の端まで退くか。
来るならばこの左手の赤をカウンターで叩きつける。退くならば、その時こそ切り札の出番だ。
定まるまでは刹那。薄れゆく光の中に、皓士郎は答えを見た。
「く……ははっ!!」
賭けに勝った。遠ざかる裕徳へと、抑え切れぬ笑みを漏らす。
退いたのは誤りだ。向かって来たらその時点できっと負けていた。泡を食っているなら当てることはできるかもしれないが、盾に受け止められる。それをも擦り抜けたとしても、『バロールアイ』による増幅のない左手の一撃では屠るに至らない。それで裕徳が本当にこちらを殺す気になれば、もう終わりだった。
欲しかったのは距離と警戒心だ。距離そのものにはそれほどの意味はないが、何度も痛い目を見せられた上で可能な限り間合いを外した今、こちらが何をしようとしているのかを確認せずには動けないはずだ。裕徳がどれだけ速くとも、動かなければ意味がない。
生み出される少しの時間が勝利をもたらしてくれる。
「“虚無の中には何がある”」
名残惜しいとばかりに裕徳へとまとわりついていた赤がすべて消える。皓士郎はそちらへと残しておいた意識を完全に消し、右手にも新たに力を生み出す。
口にするのは鍵だ。自らの身体をも破壊する、過剰なまでの力の収束を成し遂げるための言葉である。
「“破壊から創造に至るまでには何がある”」
これに手が届いた理由は自分でも分からない。力を求めて、求めて、求めて、力を放って、放って、放って。気がつけば両腕が崩壊していて、替わりに桁外れの赤を得られた。
「“混沌の海に秩序は眠る”」
つう、と口許から血が垂れ、ほどなくしてだらだらと溢れ出す。
指が熟しすぎた果物の如くに腐れ落ちた。そして無為に費やされた命を喰らったかのように赤が膨れ上がる。
「“揺籃たる龍よ、目覚めよ”」
裕徳が驚愕の表情を浮かべる。
だがもう遅い。両腕が爆ぜ、しかし膨れ上がる赤は制御を失わない。『バロールアイ』が指のあった位置で虚空に浮き、手綱をとっているのだ。激痛も、気の遠くなるほどの高揚が掻き消した。
裕徳が来るよりも早く、皓士郎は渾身の力と嫉妬と義務感とを乗せて赤を解き放つ。
伝承は、ケルトからインドへ。
「<
まずは左だ。それは十度分裂する。
一が二へ、二が四へ、四が八、八が十六、三十二、六十四、百二十八、二百五十六、五百十二、千二十四。
いかに通常の力を凌駕するとはいえ、それだけ分かたれればもはや糸のようなものだ。<魔人>に対してはまともな殺傷力を持つまい。
しかし、膨れ上がる。巨大化し続ける右の赤を喰らい、千二十四のそれぞれが大元の一本に匹敵する威を取り戻す。
速さなど無駄だ。身を置くべき場所そのものが存在しない。赤の帯が一帯すべてを満たし、切り裂くのだ。
アナンタとは、インド神話における千の頭を持つ龍の名である。世界の終焉から新たな創世まで、混沌の中心でヴィシュヌを守る永劫の存在だ。
その名を、皓士郎は己が切り札につけた。
「ははははははははははあははははああははははははっ!」
笑う。時折声を裏返してまで、狂ったように笑う。
「見たか! 見たかよ、裕徳! これがオレだ、オレの力だ!」
防砂林が灰と化す。
防波堤が瓦礫と崩れて海へと落ちたかと思えば、その海そのものが抉り取られて底が覗き、底さえも掘り返されてゆく。
赤は皓士郎を中心としてありとあらゆる方向へ荒れ狂い、すべてを切り刻み、焼き尽くす。
見る人あらば狂乱するであろう破壊の光景は、実際にはほんの僅かな時間のことだった。己自身の全力を凌駕する一撃だ、まともに維持し続けられるはずもない。
しかしそれで充分だ。確実に倒したと皓士郎は判断する。
胸の内の熱が不意に抜け落ちた。
とうとうやった。やってしまった。
身体が重い。崩れ落ちそうになるのを堪えながら、両腕を復元する。『バロールアイ』も元の位置に填まる。
これからどうしよう。ぼんやりとそう思い、赤の消えた灰色の世界を見回す。
灰色だ。灰色である。
虚脱した頭がその意味に気付くにはたっぷり三呼吸は必要だった。
「……そんな馬鹿な……」
青い光が浮かび上がった。裕徳のクラウンアームズの生み出す輝きだ。
「ありえない……ありえない!」
あり得ないはずだった。裕徳の耐久力は、あれに耐えられるほど高くはない。絶対に耐えられるはずがない。
それなのに、裕徳は今ゆらりと立ち上がって来た。
皓士郎は自問する。裕徳を甘く見てはいない。威力も過大評価していない。軽々と屠れるだけの一撃であったはずだ。
「……お前は……」
血を吐くような声で裕徳が言った。
「ここまでして俺を排除したかったのか。そんなに邪魔だったのか」
「どうして生きてられる!?」
「俺だけだったら死んでたさ。けどそうじゃない」
その声に潜むのは怒りだろうか。
しかし皓士郎は声ではなく台詞によって思い当ってしまった。
この襲撃、すべては裕徳が
「まさか……」
蒼白になる。復元したばかりの手が震えた。
強さが跳ね上がることなど大した問題ではない。いや、重大ではあるが、それが霞むほど大きなものが他にある。
裕徳の条件は皆を守る戦いであることだと聞いている。だからこそこの戦いで満たされるはずがないと判断したのだ。甘さのせいで皆を危険に合わせるであろう裕徳を排除することは、少なくとも皆を傷つけることに繋がるわけがない。
しかし今、条件が満たされているというならば、裕徳は守る戦いを行っているということに他ならない。
ではその敵である自分は。
「……嘘だ……」
「いい加減にしろ、皓士郎。さすがにこれ以上は俺も手加減できない」
「嘘だ、嘘だッ!」
慟哭のように皓士郎は咆哮する。
「あり得ない! お前のヒーローがオレのヒーローより正しいはずがないんだ!」
譲らない。譲りたくない。譲れるものか。
ステイシアも微笑んでくれたのだ。
「お前が正しいはずが……!」
「ふざけるな!」
裕徳の怒声も皓士郎に劣らぬ大きさだった。
「お前はいつも何をしてた? ステイシアから事件を割り振られるまで神殿に引き篭もって遊んでたのか? どうして街へ出ない? 根気よく些細な芽を見つけて対処していけば、あんな極端な見せしめなんかしなくても充分なはずだった!」
「そんなわけあるか! 下衆はどこまで行っても下衆だ!」
「お前がどれだけの人間を見たっていうんだ? 狭い視野で語るんじゃない」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れェッ!!」
もはや皓士郎の頭の中は自分でも何も判らぬほど掻き乱されていた。
他者の意見を容れるなどできようはずもない。縋りつくのは
「渡さない、絶対に……お前なんかに!」
今一度、赤が収束する。自らの肉体を崩壊させるほど過剰に。
しかも制御できていない。それ以上の言葉も忘れ、口から泡を吹きながらただひたすらに力を引き出してゆく。
指が爆ぜた。腕が落ちた。限界まで見開いた目から眼球がこぼれ落ち、赤が燃え上がった。
解き放つことなどできまい。まだ必要だ、もっと必要だ、もっともっとと集め続けるだけだ。そのまま見ているだけで自滅するであろうことは明らかだった。
しかし裕徳は動いた。
「皓士郎!」
一直線、最速の動きで反応すら許さず、一刀の下に斬り伏せた。
皓士郎は最期に何と言ったのだろうか。
長く伸びる怨嗟の声はそれでもやがて薄れて消えた。
一晩が過ぎた。
「……許さない」
そこは殺風景な部屋だ。
何もないわけではない。机を挟んでソファが二台、足元には毛足の長い絨毯が敷かれている。
ただ、前後左右、果てが見えない。薄闇がどこまでも続いて、眺めているだけで意識が遠くなってくる。もしも宇宙に放り出されたならば、似たような気分になれるのではなかろうか。
そして、その中で虚空にぽつりと浮かんでいるドアが異様だった。
ステイシアの私室で裕徳が拳を震わせる。
その様をステイシアは痛ましげに見詰め、雅年はいつものように事務的なまなざしで眺めていた。
今ここにいるのはこの三名だけだ。皓士郎の部屋から見つかった手紙について、ステイシアから裕徳へと説明がなされたのである。
「
「いいえ、駄目です。裕徳さんには任せられません」
まるで人が変わったように相貌を歪ませる裕徳に、ステイシアはゆるゆるとかぶりを振る。
その答えが余程意外だったのか一瞬だけ言葉を詰まらせ、しかしすぐにまくしたてた。
「どうしてだ? 俺は……皓士郎をこの手にかけることになったんだぞ? そいつさえいなきゃこんなことには……」
「……
細く、静かな声だ。それなのに不思議とよく通る。まるで諭すように響いた。
しかし裕徳はそれを振り切る。
「絶対にだ。
「そうですか……」
ステイシアが目を伏せる。この暗い部屋で、白く儚い美貌が浮かび上がるようだった。
「今日いっぱい、考えさせてください」
「できるだけ早い方がいいんだが」
「では日が変わったらお知らせします。それまでに気を落ち着けておいてください」
やはりどこか痛ましげな色を残しながらも、ステイシアはそっと微笑んだ。
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