英雄の条件・三






 森河皓士郎は、誰かの意識に残らない人生を過ごして来た。

 何も得意なことはなく、かと言って他者から見てあからさまに苦手なことがあるわけではなく、格好良くもなければ悪くもない、そんなありふれた評価を高校まで受け続けて来た。

 しかしそれはあくまでも他人にとっての話である。人形ではないのだ、露わにしていないだけの偏った趣味の一つなど、誰しもが持っているものだ。

 皓士郎にとってのそれは、英雄ヒーローだった。

 英雄ヒーローになりたい。

 それは幼い子供が誰しも抱く願いだと言う。

 困った人のところに現れて、凄い力で悪を一撃粉砕。あるいは危機に陥っても一発逆転正義は勝つ。

 漠然とした喝采願望であり、同時にこれもまた漠然とした善への誘いでもある。

 英雄ヒーローになりたい。

 それは実のところ、より現実的に姿を変えながらも死ぬまで潜み続ける願いである。

 例えば不可能だと思われていた商談をまとめるであるとか、不治の病の治療法を見つけるであるとか。

 利潤を求めることも確かであろう、人を助けたいと思う気持ちも確かであろう。しかし同時にやはりどこかで、英雄ヒーローになりたい。

 皓士郎もその願いの実体を半ば忘れかけていた。形としては残しながらも、ただの娯楽と堕しかけていたのだ。

 しかし、顔も声も思い出せない魔神に問いかけられたとき、思い出してしまった。

 なれるのだ。<魔人>となれば、世俗の権力などもう無関係だ。力ある<魔人>となれば軍隊さえも凌駕する。

 なれるのだ、英雄ヒーローに。望む心と素質さえあれば。

 そして幸運にも、皓士郎は<魔人>となれるだけの天性を持ち合わせていた。二割にも満たぬ確率の中に入ることができた。

 もっとも、なったらなったで躊躇した。<魔人>は自分だけではない。所属する神官派だけでも三百名以上がいるのだ。馬鹿にされるのではないかと、そう思ったのだ。

 しかしステイシアは微笑んでくれた。冗談混じりに、棘さえ忍ばせて語った英雄ヒーローに、本当に素敵なものを見つけたような笑顔で同意してくれたのだ。

 棘は優しく引き抜き、両手をとって。

『頑張ってください、皓士郎さん。あなたの戦格クラスは<ヒーロー>ではありませんけど、英雄とはその心と行動によってなるものです』

 その瞬間から、皓士郎の英雄ヒーローになりたいという思いには迷いがなくなった。

「参ったな……」

 ベッドに転がって天井を仰ぎ、溜め息をつく。

 部屋のつくりはビジネスホテルめいている。ベッドがあり、机があり、ユニットバスとクローゼットがあり、狭いけれども窮屈なほどではない。これが<竪琴ライラ>の構成員に与えられる部屋だ。

 自室のベッドで仰向けになって、裕徳から持ちかけられた話を思い返す。二日近く経ったが、まだ答えを出せていない。

 客観的に考えれば悪い話ではないのかもしれない。戦闘スタイルの相性はいいのだ。裕徳の高速機動で翻弄し、動きの止まったところで自分の砲撃を叩き込む。あるいは自分の攻撃で牽制し、裕徳が制圧する。これは出会った頃に語り合ったことでもある。最近はそれほど会っていないが、互いにどことなく喋り方が似てしまっているくらいの友人とも言えるくらいだ。

 しかし、胸の奥にわだかまるものがある。

 裕徳は既に英雄ヒーロー扱いを受けている。比べて自分はその他大勢の域を出ていない。そんな二人が組むとなれば、まるで自分が情けをかけられているようだ。

 きっと悪気はないのだろうし、ある種の意地でもあるのだろう。こんな提案は己が劣るときには言い出せないものだ。もし立場が逆だったならば、おそらく自分から持ちかけていた。

 互角であればよかった。誰から見ても対等であれば、こんなことで悩みはしなかったろうに。素直にヒーローコンビとなれていただろうに。

 時計の針が上下一直線になる。十八時だ。

「……行くか」

 身を起こす。返事は十九時に一昨日のファミリーレストランですることになっている。

 答えが出ていなくとも、行くだけは行かなければ。

 靴を履き、薄い上着を羽織って、念のために姿見で髪を大雑把に整える。

 鏡に映っているのは、押しも押されもせぬとはいかないまでも整った顔立ちだ。

 <魔人>と成るときに、容姿は自分の想像を元にして作り上げることができる。あまり自在にとはいかない。たとえ絶世の美貌を望んだとしても、当のその姿を頭の中で具体的に構成できる者など皆無に近いからだ。

 頭の中に正面から見た顔と横顔の像がそれぞれあったとして、しかし大抵の場合において正面像から導き出されるはずの横顔と想像の中の横顔とは食い違っている。そうするとその食い違いを埋めるために、均されるとでもいうのだろうか、妥当になるよう、面影を残しながらも変化してしまうのである。

 そして結局は、このような並よりは良い、くらいの容姿にしかならない。身体全体についても同様だ。

 もっとも、皓士郎は今の顔についての不満はない。人だったときよりも間違いなく魅力的であるし、線の細い美形やあまりに男臭くなるのも元々嫌だったのだ。

 ただ、背丈を平均的にしてしまったのは迂闊だった。あともう少し高くしておけばよかったと今でも思う。

 また溜め息をつく。

 今更どうしようもないことだ。こんなことを考えるのは裕徳に会いたくない気持ちを誤魔化しているからだというのも自覚している。

「くそっ……」

 頭を振って振り払う。ここが自分の部屋だからいけないのだ。とにかく出てしまえばあとはもう行くしかない。

 歩き出す。ドアを開け、そこで気付いた。

 開くドアに引き摺られるようにして、封筒が足元に落ちていた。ドアの下の隙間にでも挟み込まれていたのだろうか。

 拾い上げる。表には『森河皓士郎様』と機械的に記された宛先だけがあり、裏には何もない。感触からは、中に入っているのはおそらく紙だろう。差出人が不明であること以外は何の変哲もない。

「……悪戯か?」

 封筒には碌な記憶がない。ただの高校生だった頃には偽物のラブレターを仕込まれるなどという古めかしい悪戯を受けたこともある。

 それでも一応は中身を確認してみようと破りかけてから、思いとどまった。今は重要な用があるのだ。おかしなことでこれ以上煩わされたくはない。

 後でいい。そう判断してベッドの上に放り捨て、今度こそ部屋を出た。

 かちりと鍵の閉まる音。

 封筒はそこにある。ただの封筒である。








 十八時五十五分。

 皓士郎は足早に街を行く。目的となるファミリーレストランは、ここから小さな公園を突っ切ればもうすぐそこだ。なんとか間に合いそうである。

 これほどぎりぎりになってしまったのは、神殿のロビーで新人の挨拶に捕まってしまったからだ。

 珍しいことに女だった。すらりと背の高い、おどおどとした雰囲気の。

 さすがに全員と顔合わせをしているわけではなく、案内役がこれと見た相手にだけ紹介しているようだった。

 ちなみに、皓士郎は『裕徳の一番の友人』として紹介された。

「……全力で走るわけにもいかんしなあ……」

 ほぼ黒に染め変えられた空へとぼやく。

 皓士郎は<魔人>としてはそう俊敏な方でもないが、それでもただの人間とは桁が違う。屋上を跳ねてゆく分には見咎められても錯覚だと思ってくれるかもしれないものの、万が一にも人前で止まってしまったら何処から現れたのかといぶかしまれることだろう。

 そんなことを考えながら公園へと足を踏み入れた、そのときだった。

 公園の端、木々の隙間の暗がりに不穏な光景が見えたのだ。<魔人>の目はこの程度の明度でも様子を克明に見て取ることができる。

 高校生くらいだろうか、二人の少年が剣呑な雰囲気で一人の少年を挟んでいた。金を脅し取ろうとしているようだ。

 こういうものは今でも『カツアゲ』と呼称するのだろうか。幸い皓士郎自身がこのような目に遭った経験はないため、このあたりの俗語事情には疎い。

 何にせよ、見てしまったからには放っておくわけにいかない。

「何してる」

 薄闇に紛れ、一呼吸の間も置かずに近くまで寄って声をかける。

「ぁあっ!?」

 少年たちは一斉に振り向いて、胡乱げな目付きを向けて来た。

 二人とも服装こそただの制服姿だが、表情は明らかに昔から嫌いだった類の輩だ。こんな顔ができるよう、練習でもするのだろうかと思うほどに画一的である。

 その一方で、被害者の少年の方は怯えの中に一筋の希望を浮かべていた。彼へと頷きを返し、皓士郎は続ける。

「何をしてるのかって訊いてるんだ」

 自分の声が落ち着いていることに満足する。

 恐れなどあろうはずもない。さらに一歩踏み出す。これは叩き潰すべき悪なのだ。

「なんだよ?」

 にやけた笑いを口許に張り付けたまま、一人が至近距離から睨めつけて来た。残るもう一人は被害者を逃さないように捕まえたままだ。

「え、もしかしてお前も金くれんの? やった!」

「その子を放せよ。もし今までにもやってたのなら脅し取ったものを全部返すんだ」

 戯言は無視し、皓士郎は告げる。

「……と言っても、聞くわけないんだろうな」

 一対二で、体格も向こうの方がいい。暴力を振るう、少なくともちらつかせることに慣れているという自信もあるだろう。まず聞き入れるとは思えない。

 溜め息が鼻で笑ったように聞こえたのだろうか、少年の形相が変わった。

「てめッ……!」

 握った拳が振るわれる。

 当てるつもりなのか、あるいは脅しなのか、皓士郎に判断はつかない。だが、どちらでもいい。

 右手でその遅すぎる拳を受け止めて掴むと、左手で少年の腕を無造作に払う。

 鈍い音がした。

「自業自得だ」

 皓士郎はそう呟いてから拳を放してやる。

 少年が絶叫した。ふらつくようにして倒れ、口から泡を吹きながら獣じみた何かを叫び続けている。不明瞭でよく分からないが、おそらくは痛い痛いと繰り返しているのではなかろうか。

 少年の右前腕は途中で九十度以上に折れ曲がっていた。橈骨も尺骨もへし折れ、骨折面が皮膚を破って突き出している。

「大ちゃん!?」

 明らかな異変に、もう一人の少年が被害者を放り出し、血相を変えて駆け寄った。そして腕を見ていっそう青ざめる。

「てめえよくも!」

「ガタガタぬかすな」

 掴みかかって来たところを軽く蹴り倒す。

 足の触れた場所、右の肋骨の半数が容易く粉砕されて肺腑に突き刺さる。

 皓士郎がさして身体能力の高い<魔人>ではないと言っても、ただの人間の肉体など可笑しいほどに脆い存在でしかない。

「お前らがみんなにかけて来た迷惑に比べりゃどうってことないだろ」

 喀血し、奇妙な呼吸とともに助けて助けてと訴える様を見下ろしながら、冷やかに突き放す。

 先ほどの溜め息を嘲笑と捉えた少年は間違っていない。皓士郎はこういった輩をこそ軽蔑している。

 明らかな悪を為しておきながら、大抵はさほど痛い目を見るわけでもない。その陰で理不尽に虐げられ、泣き寝入りする人々がどれほどいることか。

 報いは与えられなければならない。

「もう一回言っとくぜ、もし今までにもやってたのなら脅し取ったものをあの子に全部返すんだ。そして二度とするな。今度見かけたら腕と脚全部へし折るからな」

 少年二人が悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、成せない。一人は折れた腕を抱えてがたがたと震えるのが動かせる精一杯、もう一人は身を丸めながら血塗れの涎を垂らすのみだ。

 皓士郎は被害者に顔を向けた。正確には、いるはずの場所に目をやったのだが、既に姿はなかった。見回せばかろうじて逃げ出す遠い背中が確認できただけだった。

「……なんだかなあ」

 礼が欲しかったわけではないが、少し寂しくはあった。自分の英雄ヒーローになりたいという思いに喝采願望も確かに混じっていることは自覚している。

 まあいい、とりあえずこれで一つの正義は守られた。そう思ったときだった。

「何やってるんだ、皓士郎!」

 裕徳の声。それも、非難するような。

 姿もすぐに見えた。人間の範疇を出ない速さで駆けて来る。

 約束の時間はまだ過ぎていないはずだが、公園で起こっていることが見えてでもいたのだろうか。

「ちょっと恐喝を潰してたんだ」

 迷いが晴れたような気が、皓士郎にはしていた。自分はまだ英雄ヒーローになれる。何よりもまず悪を潰したい。裕徳の隣で戦えると思った。

 だから、裕徳の言葉はまったくの予想外だった。

「お前、自分のしたことが分かってるのか!?」








 救急車のサイレンの音が遠ざかってゆく。

 裕徳が呼んだものだが、到着時には二人とも身を隠しておき、付き添うようなことはしなかった。

「ほんとに……何やってるんだよ、皓士郎……」

 当初の予定を変え、近くにある閑散とした夜の海岸へ移動して最初に裕徳が口にしたのはそんな言葉だった。

 ここに来るまで互いに無言だったせいで、溜め息混じりの声が痛かった。

「いや、だから恐喝を止めてたんだが……」

「それ自体はいい。けど、止めるためにあんな傷を負わせる必要はないだろ?」

 それでようやく、皓士郎は裕徳が声を荒げていた理由を察することができた。

 だが、理解はできなかった。

「あるだろ。ああいう奴らはちょっと怖い目に遭ったくらいじゃ絶対懲りない。あれくらいでいいんだよ」

「あれくらいって……死ぬまではいかなくても明らかに重傷じゃないか。特に血を吐いてた方、肺が潰れてるかもしれないぞ?」

「だから意味があるんだろ。あの慣れた様子じゃ、どうせもう何回もやってる。その報いにはあれでも軽い」

 自分自身が標的にされなかっただけで、ただの人間であった頃は踏み込むことができなかっただけで、遠くから見ることならば何十度もあった。

 口頭での戒めや少しばかりの痛みなど、逆効果にしかならない。奴らはその下衆な考えと衝動をより大きなものにするのだ。

 しかし皓士郎が裕徳の言葉に納得しないように、裕徳も皓士郎の考えを否定する。

「恐喝してた方だって、悪いことしてるには違いなくても本質的には守るべき人間だろ? 俺たちが傷付けてどうするんだ」

「違う、あれは屑だ」

「お前は自分の好みで助ける人間と見捨てる人間を選ぶのか? お前はそんなのをヒーローだと思ってるのかよ!?」

 普段の温和な表情をかなぐり捨て、裕徳は荒げた声をさらに大きくする。

 背は裕徳の方が高い。見上げるようになりながらも、皓士郎は負けなかった。

「何の罪もない人と下衆を一緒に扱っていいわけないだろ! ってかそういう話じゃないよな。オレが言ってるのは、中途半端な止め方なんかしても奴らは絶対に懲りないってことだ」

「傷つけるんじゃなくて口で諭せばいいだろ? 俺たちが力を揮うと、手加減間違うだけで死にかねないんだぞ?」

「だから口でいくら言っても効かないんだよ。逆恨みと八つ当たりで被害がひどくなるのがオチだ。お前は……」

 悪を見逃しているに等しい、と言おうとしたところへ重ね、裕徳が思いを吐くように告げた。

「ヒーローってのはそんなもんじゃないだろ。みんなを守るものだ」

「このっ……!」

 頭に血が上る。昏い怒りが湧き起こった。

 思えば、ヒーローの在り様について確認したことはなかった。確認をする必要があるなど、ついぞ思ったことがなかったのだ。

「分かった風な口利くんだな。さすがは戦格クラス<ヒーロー>だ」

 皓士郎も裕徳も双格並列デュアルである。だが、皓士郎とは違い、裕徳の有する戦格クラスの片方は、その名も<ヒーロー>なのである。

ンク四の上位戦格クラス。そして有する異能は限界突破リミットブレイクと呼ばれ、通常時にはランク二の戦格クラス程度の強化しかなされない替わりに条件を満たした状況下においては最高位戦格クラス並みの力を与えるのだ。

 裕徳の条件は、皆を守るための戦いであることだと聞く。だから模擬戦ではさほど強くはない。皓士郎もそれは知っている。

 なんとヒーローらしいことだろうか。

 あくまでも便宜上つけられた名称であることは分かっている。ステイシアの言うように、英雄とはその心と行動によってなるものなのだ。それでも、羨ましいことに変わりはない。

「お前の提案だけどさ、無理だよ。これから先うまくやってける自信、なくなった」

 敵意を込めて宣言する。

 裕徳は少しだけ辛そうな表情を浮かべはしたが、こちらもきっぱりと言ってのけた。

「そうだな。俺もさ、正直なくなった。この話はなかったことにしよう。みんなに訊いてみろよ、どっちが正しいのか」

「お前にどれだけ味方がいても同じだ。間違ってるのはそっちだよ。お前は自分の手を汚したくないだけだ」

 言い捨て、皓士郎は背を向ける。

 あり得ない。絶対にあり得ない。裕徳のやり方は間違いなくただの自己満足だ。決して誰も救われない、そのはずだ。

 白くなるほどに拳を握りしめる。

 皓士郎の夢見た英雄ヒーローは、そんなものではあり得ないのだ。





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