<魔人>は夜に蠢く・プロローグ






「――――実際の話」

 名和雅年は壁に目を向けたまま、独り言のように答えた。

「大腸癌で亡くなったうちの爺様が今際の際に何て言ったと思う? 『糠床を百個作ろう』だ。覚えてる限りでは漬け物なんぞ漬けたこともない爺様が何を思ったのかは知らん。百というのも意味不明だ。肝臓どころか脳にまで転移してたからな、その所為かもしれんが」

 質問は、人は死の間際に何を思うのだろうか、だ。その問いから最終的にどんな話へと持って行きたいのかは既に察していたが、あえてとぼける。

「まあともかく、最期に思い浮かべるのが人生の大事なものである必然性はなく、いっそ意味不明なものだったりすることも多いんじゃないかと僕は思う」

 そこでようやくちらりと視線を質問者に向けた。

 まだ十代と思しき少女だ。鬼も十八、番茶も出端。だが残念ながら雅年の趣味には合わない。

 拒絶されたのを察してか少女は鼻白み、小声で形式的に礼を言うが早いかそそくさと去って行った。

 それを見送ることもせず、雅年はまた壁を向く。

 此処は古びた喫茶店だ。コーヒーが美味いわけでもなく、洒落ているわけでもなく、したがって繁盛もしていない。ただ、おかげで静かではあった。

 雅年はその隅の席で壁に向かって座り、人を待っている。

 コーヒーを啜り、大きく息を吐く。思考はさすがに今の質問を向けられるに至った経緯に向けられる。

 常連の少女が古代超文明の戦士の生まれ変わりであり、仲間を探していようとはまったくの予想外だった。

 彼女の言うことを頭ごなしに否定する気はないのだ。しかし少なくとも自分はその戦士ではないと思う。

 もう一度、息を吐く。ただの呼吸には大きく、ため息には小さい。

 店に入ってもう一時間が経つ。今日は来ないのだろうかと待ち人のことを思った。

 約束があるわけではない。少女と同様の常連で、今日のような日曜の昼下がりに現れることが多いから、雅年はこの時間に待っている。そして壁を向いて座る、つまり入口に背を向けているのは、彼女が来たときに照れ臭くて仕方ないからである。

 携帯電話が震える。誰からのものであるかを確認した雅年は、眉根を寄せると不本意であることを隠そうともせずに伝票を掴んで席を立った。

 いつもと同じ金額を無愛想なマスターに無言で渡し、店を出る。ドアの高さが180cmしかないので、ちょうど靴底の厚みの分だけそれを越えてしまうことになる雅年は少し腰をかがめる必要があった。

 春の風がコートを揺らした。天気はいいが、どことなく空気が冷たい。

 歩き出す。往来を行く人々は早足だ。雅年に注意を払う者はない。

 二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。背丈も、日本人男性としては長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。

 むしろコートの方が目立つかもしれない。右袖だけ異様に大きく広がった、奇妙な仕立てになっているのである。

 と、その背に声がかけられた。

「あら、今日は入れ違いですか」

 待ち人の声だった。

 振り向けば、笑顔。今日はジーンズに薄手のトレーナーという飾り気ない出で立ちだ。しかしそれでもそんじょそこらの芸能人など敵うものかと雅年は思う。

 彼女のことならば、すべてとは言わないまでもとても多くのことを知っている。水上春菜という名前も、二つ年下の二十三歳であることも、誕生日も知っている。

 穏やかな気持ちで雅年は笑う。最初からこのくらいの距離にいれば照れはない。離れていると近付いて来る時間にどう行動していいか分からないだけなのだ。

「残念ながら用が出来て」

 本当に残念だ。呼び出されさえしていなければ、今からでも店へ取って返したというのに。彼女の身の回りの話を聞きたかったのに。

 せめてこのまま五分から十分ほど立ち話をとも思ったが、この風は気温から思う以上に身体に毒となりかねない。彼女が風邪でも引いては大変だ。

「そんなわけでまた今度にでも」

「はい、また」

 変わらぬ笑顔に見送られ、雅年は再び春菜に背を向けた。















 広大な空間に光が走る。

 輝きは近付き、ぶつかり合い、また離れる。一方は赤、もう一方は極彩色。それぞれの光の中にいるのは、少年だ。

 正確には、二人の少年が輝きを放つ武器を手にして戦っている。光そのものは弱いのだ。しかし薄暗い空間にあっては二人の姿を強く浮かび上がらせる。

 赤は長身痩躯、髪はごくごく短く刈り込まれ、鋭すぎるほどに鋭いまなざしが相手をねめつけている。赤い光に染め上げられたブレザーは激しい動きにも大きな乱れを見せていない。

 右手には幅のある1mほどの両刃の剣。左肩の斜め上、前方には小さな、後方には比較的大きな、緩やかに湾曲した楕円形の障壁。すべては赤く透けた硬質な外観を持っている。

 一方、極彩色は小柄な少年だ。引き締められた表情は凛々しさも感じさせはするものの、どうしても幼い印象は抜けない。少し長めの髪を大気になびかせ、敏捷で小刻みな動きによって切り結ぶ。

 両手にはそれぞれ細身の長剣。その代わりに障壁は一枚だ。小さなものが前後左右に動き回る。

 極彩色の足下で靴底がコンクリートと擦れる高い音。武島洸は縦横無尽に駆け、相手を翻弄することを旨とする。

 その速度は人のものではない。30mはあった距離が瞬きひとつの間に詰まる。双剣と盾の輝きが尾を引き、突進はさながら彗星の如く。

 振るわれる剣は同時に見えて、異なる。左は逆袈裟、右は僅かに遅く始動した刺突。効率的な流れに沿わぬ動きは左右ともに身の入り切らぬ浅いものとならざるを得ないが、遅かったはずの右が左を追い抜いて先に届くという欺瞞を成し遂げる。

 だが、そのどちらもが瞬時に軌道に割り込んだ赤の障壁に阻まれた。

 その奥から放たれようとするものを察知し、洸は大きく横に跳ぶ。視界の隅を赤が焼いた。1mほどしかなかったはずの剣身が今や軽く20m以上となり、くねりながら洸を追ってくる。

 華厳院雅隆は普段でさえ鋭すぎるくらいのまなざしを戦闘の高揚に研ぎ澄ませ、敵を見ている。動きを的確に追い、得物を的確に操る。

 全力ではないじゃれ合いのような二人の模擬戦の様子を、雅年は気の乗らぬ顔で見下ろしていた。

 この地球上のどこでもない空間は、闘技場だ。二人がやり合っている中央の舞台を底として、その周囲を観客席が埋めている。広さは相当なもので、舞台だけでも半径100mを越え、すべてを含めば端から端まで500mに達する。

 二人の動きは止まらない。一進一退、己を抑制しながら互角のやり合いを続けている。

「それで、今度は何の用だ?」

 その言葉は隣へと向けたもの。

 しかし問いに対する答えそのものはなかった。

「二人とも強くなって来ましたね」

 少女の優しげな澄んだ声。そしてその持ち主は声の印象に違わない。

 年の頃は十代後半に入った程度。短い栗色の髪と、褐色の瞳。華奢で小柄な体躯を幻想じみた白と赤の貫頭衣に包み、目に痛いほど白い両手を祈るかのように組み合わせている。

 可憐、まさにその言葉が相応しい少女だ。

「うかうかしていると追い抜かれてしまうかもしれませんよ、雅年さん?」

 悪戯っぽい響きで見上げて来る。

 しかし雅年はひどく冷えた声音を返しただけだった。

「どうでも構わない。僕の望みさえ邪魔しなければ」

 敵意はない。替わりに、少女への親愛の情もない。向けた視線もただただ冷淡で、繰り返された問いは事務的だった。

「僕を呼んだ用事は何だ、ステイシア?」

「……お仕事です、あなたを指定します」

 寂しげに少女は、<竪琴ライラ>神官派の中心であるステイシアは答える。竪琴を模した胸元のブローチをいじる仕種がどこか拗ねたようだった。

 男女を問わず胸を締め付けられるであろうその様にも雅年は眉一つ動かさない。

「わざわざ僕か」

「はい。わざわざ雅年さんです。ですけど、いつもいつもそんなに冷たくしなくてもいいじゃないですか」

「僕を呼ぶとき、よりにもよって日曜の割合が高いのは何故だ」

「それはわざとじゃないんです」

 宙から染み出すようにして現れた巨大な錫杖を右手に収め、ステイシアは自らの身の丈を越えるそれをしゃらんと鳴らした。

 憂えげに目を伏し、訥々とした口調で言う。

「今回の相手は、半年で十七名の人死にを出しています。さすがに社会への悪影響も考えられるでしょう。追っていた陣さんは返り討ちにあって……なんとか一命は取り留めましたけど」

「随分と強力だというのは分かるが……」

 深崎陣は高い戦闘能力を有する<魔人>である。彼を上回る力を持つ者など神官派三百八十七名の中にもそうはいない。

「単純な能力の高さもありますが、それ以上に……彼女は『本物』です」

「……そうか」

 意味は理解できる。<魔人>には、能力よりもクラウンアームズよりも重要な要素があるのだ。

「深崎君は無事か?」

 尋ねたのは、身体のことではない。<魔人>は死にさえしなければ半身が吹き飛ばされてもやがて完治する。

 答えるべき事柄をステイシアも間違えなかった。

「再起は難しいと思います。そして、他の誰を向かわせたとしても似たような結果になるでしょう。雅年さんしかいないんです。受けて……くれますよね?」

 そして見上げて来るのは、おずおずとしたまなざし。

 それでも、あくまでも事務的に雅年は頷いた。

「それが約束だ」



















「は~るなさんっ」

 ココアから立ち昇る湯気を追い、名前を呼ばれた春菜は読んでいた小説から顔を上げた。

 店内は暖かい。湯気などすぐに見えなくなる。

「なあに、梓ちゃん?」

「春菜さんって名和さんと仲良しですよね?」

「一応、仲良しでいいと思うけど……」

 水上春菜は現在、天涯孤独の身である。

 十八までは祖父母も生きていた。二十歳のときに母を事故で失い、二十一で父を病で失い、昨年兄を事件で失った。

 立て続けに家族を亡くしながら、傷ついた心はまだ挫けていない。ゆったりと流れる休日のこの時間は、支えてくれるものの一つだ。

 そしてこの明るく話しかけて来る少女、樋口梓も春菜にとっては心安らげる相手である。

「名和さんを説得してもらえません? あたしの感覚では、選ばれし光の戦士に違いないんです」

「……ええと」

 いい子なのだ。古代超文明さえ絡まなければ。

「そうなの……?」

「そうです! 絶対に戦士です!」

 梓は力説する。

「あのそっけなさ、それでいて決して馬鹿にはしない……自分を理解していながら何か理由があってそれを明らかにするわけにはいかない、きっとそうなんです。あたしを露骨に避けてますもん、後ろめたいんですよ」

「そう……なのかな……?」

 露骨に避ける理由は、春菜には心当たりがあった。

 十代にはさすがに濃すぎるのではないかと思える化粧を梓は施している。ところが雅年は濃い化粧が殊の外嫌いなのだ。父や兄もそうだったので春菜にとってはむしろ男性は化粧を嫌うような印象を持っていたくらいなのだが、梓には思いもよらないことなのだろう。

「梓ちゃん、お化粧は今の年齢ならもっと薄く、せめて目立たなくした方がいいかも」

「これは戦士に必要なものなんです。光の戦士は純粋な分、闇に染まり易いから化粧をすることで汚染を防ぐんです」

 それなら男性も化粧をしなければならない設定なのだろうか。そう思ってしまったせいで不意に雅年が白粉を塗りたくった顔を想像してしまい、吹き出しそうになるのを必死に堪えながら表面は取り繕って春菜は頷いた。

「そうなんだ……お小遣いとか、大丈夫?」

「きついですー……母さんったらひどいんですよ?」

「よしよし」

 嘘泣きをしながらじゃれついて来る梓の頭を撫でてやりながら、春菜は微笑む。

 可愛い子なのだ。もう本当に、古代超文明さえ出て来なければ。

「とは言ってもここには来ますよ? 名和さんの説得もありますし、春菜さんにも会いたいですしねー」

「私も梓ちゃんに会えないのは寂しいかな」

「ですよねー! お互いひんぬー同盟同士、がんばりましょー!」

「え、ええ……」

 水上春菜、二十三歳。

 胸がないのはほんの少しばかり気にしていたりもするのだった。






 緩やかに彼女の時は流れてゆく。

 夜に蠢く者どものことなど、知る必要もなく。





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