<魔人>は夜に蠢く・五




 月が綺麗だった。

 満月にはほんの少しだけ足りないだろうが、くらくらするほどに明るく、綺麗だった。

 桐生家の屋根に影を落とし、血塗れの服を纏った瑠奈は来訪者に笑いかけた。

「早かったわね。あるいは遅かったのかしら」

 桐生孝平の命を救うには遅いものの瑠奈が逃れる前には辿り着いている、そういう皮肉を込めて。

 しかし得られた応えはほとんどなかった。道の中央に佇む青年はロングコートの裾を僅かに揺らし、こちらを見上げて来ただけだった。

 構わない。瑠奈は笑顔のまま続ける。

「実際には遅かったんじゃないかな。肉の壁なら今からいくらでも作れるし」

 この辺りは一般家屋が立ち並んでいる。不意打ちでやられさえなければ、瑠奈の方から一般人を巻き込むのは容易いのだ。

 なるたけ目撃者を出したくないのはこちらも同じではある。

 人間社会に明らかに知られてしまった<魔人>は何ものかによって知らぬうちに消し去られてしまうという。消される危険があるのではない。逃れようもなく、必ず抹消されるのだ。それこそが<魔人>が人目につく場所で戦わない理由である。

 どこまで境界線を攻められるか、やりたくもない綱渡りだが、渡らねば死ぬとあっては致し方ない。

「あたし、そんなに悪いことしたっけ?」

「食人を慣習とする文化はある、少なくともあったはずだが、現代日本ではさすがに迷惑だろうね」

 飄々と、青年は答える。瑠奈を見上げる瞳には怒りの欠片も見られない。

 瑠奈は続ける。

「昼間、こーへーと会ったんだってね。そのとき力尽くで攫ってれば助けられたのに」

「そうして、次の獲物を見つける前に君を片付けられたかどうかは怪しいが」

「あいつ、あんたが殺したようなもんよ」

「殺したのは君だろうに」

 更に煽ってはみるものの、返って来るのは淡々とした指摘だけだ。怯むでもなく、逆上するでもなく、ただ事実を口にする。

 瑠奈のくちびるから小さく笑い声が漏れた。

 噂通りだ。

 <竪琴ライラ>とは、人間社会に明らかな害悪をもたらす<魔人>を葬り去ることを目的とした集団である。六つの派閥が日本の各地方に分かれてそれぞれ標的を抹殺しているという。

 そのうちの一つ、神官派に所属する<魔人>の一人こそが目の前にいるコートの青年だ。

 <竪琴ライラ>に所属するような<魔人>は、活動内容から分かるように平和や正義に対して何らかの自負がある。だからこそ、その自負を言葉で揺さぶることができるのだ。

 低俗で、下劣で、汚辱に塗れた言葉は強い。とても下らないが、善良さを手玉に取るには最適だ。相手の柱を揺るがし、惑わせ、あるいは逆上させる。<魔人>が人とは一線を画した力を持っていても、心はあくまでも人のままなのだから。

 並み程度に頭が回るならば、そこを突かない理由はない。

 善良な者ばかりではなく、むしろ虚栄心の強い者の方が多いくらいなのかもしれない。だが何の問題もない。いっそそちらの方がより容易く崩すことができる。

 ところが噂に聞くこの青年は違う。

「どうでもいいって顔ね」

「ああ」

 好きに喚けばいいと、お前の理など知ったことではないと、背景も感情も虚構上の設定に等しいと。いかな真理を告げようともお前の死という結果は変わらないのだと。

 処刑人というよりも、いっそ決められた言葉だけを喋る処刑機械とでも言った方が近いのではなかろうかと瑠奈は思った。ただ命を奪うだけの物体には侮辱も狡知も邪悪も通用しない。

「詰まんないわね、人形なんて」

「喜怒哀楽は充分に持ち合わせているし、人並み以上に我は強いつもりでいるんだが」

 その反応も、瑠奈の侮蔑に気を悪くしたわけではなく、事実を淡々と述べているだけなのだろう。

 のほほんとした日常の中であったならば、細かいことを言う男で済まされたのかもしれないが、全身を血に浸した少女を前にしてもこれなのである。

 分からない。気持ちが悪い。

 それでも喋らずにはいられない。恐ろしいのだ。

「まあ、いいわ。とにかくあたしは逃げさせてもらう。あんたじゃ追いつけるとは思えないし」

 話によれば、<竪琴ライラ>の処刑人は決して速くはないはずである。対して瑠奈は速度をこそ身上とするのだ。一心に駆ければ、一撃くらいは貰うかもしれないがひとまずは逃れられる。

 しかし、その思惑はやはり平坦な声によって破られた。

「いいや、君はもう逃げられない」

 一瞬だけ、視界がぼやけた。

 そしてその後に広がった光景は、灰色の一言に尽きた。

 街も、月も、夜空も、世界がことごとく白と黒の間にある濃淡だけで示されているのだ。

 いや、本当にすべてではない。瑠奈と青年にだけ色が残っていた。

「半径200mほどの独立閉鎖空間、とでも言うべきものだ。現実を鋳型にしているから形は残っているが、生きているものは僕と君だけだ」

 ふわりと、青年が道を挟んだ向かい側の家屋の屋根に跳び乗る。

 いつしか、その右腕にはごつごつとした籠手がコートの大きな袖から突き出すようにして嵌められていた。手甲や前腕は無論のこと、指先から掌までも覆う代物だ。人の扱う金属であれば籠手そのものに邪魔されてまともに指を動かすこともできないはずだというのに、青年は固い拳を形作ってみせた。

 <魔人>の目、灰色の中であるからこそ、夜だというのに判るのだろう。それは海の色をしていた。珊瑚礁のような碧ではなく、陽に輝く紺でもなく、太古より人を呑み込んできた深淵の色だ。

「僕を殺さない限り、君はここから出られない。諦めてくれるとお互いに苦痛も面倒も最小限で済むんだが」

 無論、それは降伏勧告などではない。

 信じがたい光景に、瑠奈は笑うしかなかった。

「こんな真似ができる<魔人>なんて聞いたことないんだけど? こんなのがあるのなら、別に昼に仕掛けて来たってよかったんじゃない? それとも……」

 夜でなければ使えないのか、そもそもはったりなのか、あるいは。

「……用意するのに今までかかった?」

「僕にできるのは精々、目の前のものを殴ることくらいだ。これは、そういう道具があるんだと思ってもらえればいい」

 青年の言葉は、こんな真似の可能な<魔人>などいないはずだということに対する婉曲的な回答にしかなっていない。

 それでも瑠奈は自身にとっての正解を見出した。

「つまり、これを準備するためにこーへーを見殺しにしたわけだ? あたしをこの家に留めておくために」

「いや、元々は特に関係はないな。結果的に君の足止めにはなったが」

 二人の<魔人>が向かい合う。屋根の上と屋根の上、間合いは10m程度しかない。

 戦いが近付いている。両者とも既に準備は終わり、言葉を交わしながら機を計っているのだ。

「でも、一つだけ意外だったわ。割とよく喋るじゃない。処刑人とかいうんだから無言で殺して回るのかと思ってたのに」

「僕も無言で済ませられるならそれに越したことはないんだが、困ったことに喋るのも定められた仕事のうちでね。それに、必ずしも無意味というわけでもない。君も先ほど試みていただろうに」

 理解はできた。<魔人>の戦闘において相手の動揺を誘うのは定石である。

 そういう意味では青年の言葉は確かな効果を上げていた。

 瑠奈は胸の奥の苛立ちを否定することができない。

 左手の中にはとうの昔に『タイタンブレス』の柄が握られている。背を丸め、身体を撓めてまなざしは細く鋭く。

 勝機はある。

 上位戦格クラスはただ身体能力を増すだけのものではない。何らかの特殊能力を有している。

 瑠奈の持つ戦格クラスの片割れである<トレイター>は、自分よりも強い力を持つ相手からの攻撃に対し、弱いながらも減衰力場を形成する。処刑人相手ならば、間違いなく有効に働くことだろう。

 更に、向こうから提供してくれた要素もひとつ。

「自分の首を絞めたわね。本当にこの空間が自由に暴れ回ることのできる場所なのなら、あたしは遠慮する必要がなくなるもの」

 自らの言葉が終わらぬうちに屋根を蹴った。まがりなりもこちらの言葉を聞いているのであれば、その途中で仕掛ければ少しは虚を突くことのできる可能性があるのだ。

 魔神が人の知る法則など無視するように、魔神によって力を与えられた<魔人>も理不尽を行う。瑠奈の蹴り出しがもたらした速度は、秒速810m。大気中を伝わる音の速さの二倍を軽々と凌駕する。

 それでいながら、周囲にもたらした影響は瓦を一枚踏み割ったことと、弱くはない風を巻き起こしたことくらいのものだ。

 そして、理不尽は青年もである。

 『タイタンブレス』の刃を籠手の甲が正面から受け止めていた。腰も落とさぬまま、小揺るぎもしない。その代わりのように、『タイタンブレス』の吹き散らされた風が足元の家屋を崩壊させた。

 粉塵が舞い上がり、二人ともがその場を跳び退く。瑠奈は元の屋根へ、青年は道路へ。

 篠突く雨の如くに落ちる、重い音。すべてを拳大以下の瓦礫と変えられた家屋の断末魔だ。

 青年が構えをとる。右半身となり、籠手のある右腕を盾のようにかざして左腕は腰だめに。双眸は無感動に瑠奈を捉えたままだ。

 一方で、瑠奈は胸の前で刃を寝かせて再び機を窺う。瑠奈の持ち味は速度と縦横無尽の機動力だ。相手の攻撃を止めたり受け流したりするのではなく、間合いそのものを外すのだ。

 堅い。心中で呟く。先ほどの一撃は不意を突くことまではできなかったとはいえ、向かい合ってからの先制攻撃としては充分過ぎるほどの出来だったにもかかわらず完璧に防がれてしまった。

 おそらくは、向けられた攻撃を捌きながら相手が致命的な隙を見せるまで待つ流儀なのだろう。

 <魔人>らしからぬとは言える。少なくとも瑠奈が今までやり合ってきた中には一人もいなかった。誰もが速さを誇り、求め、その上で瑠奈には追いつけなかったのだ。

 無論、本来であれば追手には向かないはずのやり方だが、こうやって逃れられぬ状況での一対一を作り出すことができるのならば、なるほど、極めて有効だろう。

 逃すということが自らの死を前提とする以上、生きているからには誰一人として逃したものはないということであり、任務達成率100%というのもあながち誇張とも言い切れないのかもしれない。

 瑠奈は二手目を仕掛けない。性は横暴で享楽的と見えて、既に十を越える敵を葬り去ってきた手練れの<魔人>である。組みし易いと侮ってはくれぬ相手に、無駄な演技はしない。

 さて、どう攻めたものか。あの『盾』と『鎧』をどう攻略したものか。

 青年の纏うロングコートもまたクラウンアームズであることを、瑠奈は見抜いていた。この季節に身につけるものではないし、何よりもあの広がった右袖は籠手と同時に使用することを想定したつくりなのだとしか思えない。

 防具の役割を果たすクラウンアームズは、そのものだけが防御効果を持つのではなく、緩衝領域を発生させて全身を保護している。たとえ棒立ちのところへ目を狙ったとしても、切先が貫けるかどうかは威力次第だ。

 それでも狙うべきは目か首だろう。領域さえ貫けば大きな傷を与えることができる。

 しかし、青年の懐は深い。目や首を狙える位置とはすなわち、敵にとっての自在の間合いである。あの反応速度を見る限りでは、一方的な攻撃など望むべくもない。

 正面は駄目だ。既に詰んでいる。

 ならば。

「行くわよ」

 宣言をしても問題はない。瑠奈は声だけを残し、再び音を越えた速度の世界に達する。

 しかし青年へと斬りかかるわけではない。青年にとっての左、拳の届かぬぎりぎりの距離に着地、アスファルトを踏み砕き、方向を転換しながらも速さを保つ。

 次は青年の背後、大股一歩の距離。狙うはコートの襟の少し上、後頸部だ。

 背が見えていたのは刹那の十分の一にも満たぬ時間だった。左に降りた瑠奈を無視するかのように、意図を見抜いたかのように、青年は右へと回転していた。

 物々しい籠手に覆われた右の裏拳が、迫る瑠奈へと向けて打ち下ろされた。

 戦いの中における速さとは、敏捷性のみによってもたらされるものではない。移動速度や大きな動きでの回避ならば俊敏さに依るところは大きいだろうが、受け流しや見切りを支えるのは経験と広義での、技ならぬ業である。そして、攻撃に鋭さを与え威力を増すのもまた、業なのである。

 青年が行ったことは、左足を軸として右足を引くとともに方向を変え、その動きのおまけとして裏拳を放っただけだ。体勢はほぼ元と同じものにして、その『おまけ』は拳でありながら零れ落ちる光としか映らぬ剣閃の如くであった。

 瑠奈は右上から巨塊が押し潰そうとしてくる様を幻視した。それはすぐさま視界をほぼすべて覆うようで、為すすべもなく肉塊とされる己を思った。

 その上で、くちびるが凄惨な笑みを形作った。

 左下、僅かに残ったところを駆け抜ける。

 右腕が千切れ飛んだ。左耳のイアリング、クラウンアームズ『タイタンブリーズ』の形成する緩衝領域と<トレイター>による減衰力場の双方の防護を経てなお、耐えられなかったのだ。

 替わりに、突き出した刃は青年の額を抉っていた。そのままゆけばこめかみに突き立てるはずだったものを、首を捻ってかわされたのだ。

 狂おしい熱を宿す瑠奈の視線と、今もって事務的な青年の視線とが交錯する。

 弾かれた様に彼我の距離が開いた。

 瑠奈は大きく後ろへ跳び、先ほど崩壊させた家の更に後ろに並ぶ三軒を一気に越えてその向こうの通りに出ると、振り向きざまに『タイタンブレス』を振るう。

 敵の姿は見えないものの、存在しているはずの方角へと放たれた風が家屋を呑み込み崩壊させながら疾駆する。

 瑠奈は遠距離攻撃を得意としない。ほぼ『タイタンブレス』の能力に頼っている。あの青年には直撃を与えてすら僅かな傷も付けられまい。

 しかし、これはほんの少しの時間稼ぎだ。

 千切れた右腕を、生やす。

 <魔人>にとって部位欠損はそれほど意味がない。体力と生命力が戻らないだけで、形と機能はいくらでも復元することが可能なのだ。

 だから<魔人>の戦いにおいては小手狙いや脚狙いは一瞬体勢を崩し、生命力を削る程度のものにしかならない。大きく天秤を揺らすことができない。

 それでも腕一本は決して軽くない。瑠奈の頬には苦痛が浮かぶ。

 睨み据える先で家が破壊された。崩壊の風によるものではない。不可視の巨大な拳撃を飛ばしたとでもいうところだろうか。打ち据えられ散らされる風が、破壊をもたらしたものの形を感覚的に浮かび上がらせていた。

 さすがにむざむざと食らいはしない。ひょいと避けると、後ろの家を更に三軒壊してようやく消えたようだった。

 大きく息を吐く。今一度、頬に浮かべるものを笑みへと戻し、大きな歩幅でこちらにやって来る青年に声をかけた。

「女を殴るなんて、最っ低ね」

「それは性別による筋力の差から来た言葉だろう。まったく差の生じない<魔人>では成り立たない。そうでなくとも、他者を殴る時点で男女の別なく最低じゃないかと思うが」

 返答のあることは律儀と言ってもいいのだろうか。先ほど言っていたことを信じるならば、喋ることまで仕事のうちであるらしいが。訳が分からない。

 青年はどこまでも淡々と告げる。削れたはずの額も既に血糊すら残ってはいない。

「そもそも、君は僕と同じく自らの望みのために人であることを捨てた、文字通りの『人でなし』だ。まだ自分に人権があると思っているのか?」

「うわ、ヤな感じ」

 『タイタンブレス』を逆手に構える。

 片腕を吹き飛ばされた瑠奈と、額を抉られただけの青年と。先の一合、どちらが優勢であったかは明らかだ。

 期待もしていなかったがやはり油断はなさそうである。口にした言葉はそのまま自分自身に返るもの。にも関わらず自虐に聞こえない。そんなものはとうに腹に呑んでしまったということなのだろう。

 ただ、弱点も口にしていた。

 この何もかもがどうでもよさそうに見える青年にも望みがある。

 当然の話だ。本当に望むことが何もないのならば、そもそも<魔人>になっていない。なったからには、たとえ下らなくとも必ず望みがあるのだ。

 望みがあるならば、それは弱さになる。やはり処刑機械ではなく、処刑人なのだ。陥れることも可能なのだ。

 とはいえ、今からそれを突くのは不可能だろう。喋るまいし、この領域の中に持ち込むはずもない。ここはあくまでも、詰まらない仕事を行う処刑場なのであろうから。

 身体から力が抜けてゆく。

 諦めたのではない。これから正真正銘の全力を尽くすのだ。今までは使うわけにいかなかった手を、瑠奈はひとつ有している。

 ゆらりと崩れ落ちるようにしゃがみ込み、そこから跳び出した。

 駆ける。全速力で、逆手に構えた『タイタンブレス』による崩壊の風を撒き散らしながら、横へ。

 灰色の家を、電柱を、木々を、ことごとく崩壊させながら駆ける。

 半径200mならば、たとえ端から端まで横断しても半秒。一瞬にして境界まで辿り着けば今度はその境界に沿うようにして疾駆する。

 徐々に半径を狭めながら、更に加速しながら、円を描き続ける。

 ある種、滑稽な行動にも映るだろう。遊んでいるようにも見えるだろう。

 しかし風が風を超え始めるのだ。撒き散らされる崩壊の風が渦を巻き始めるのだ。

 無事な建造物などまたたく間に消え失せた。もしもこれを外で使おうものならば数百人、数千人、場所によっては数万人を虐殺し得る荒業である。

 崩壊の風が純化されてゆく。すべてを瞬時に風化させる風へと昇華されてゆく。

 作られたものは竜巻でも台風でもない。『タイタンブレス』を核として、今や瑠奈自身が一個の暴風と化していた。

 踏みしめた地点そのものが半球形に消し飛ぶ。だが、踏みしめるのは消え去るまでの僅かな時で充分だった。

 青年の左斜め後方、20m。防御など何も考えぬ、突進からの刺突。速度は最初の踏み込みの数百倍にも至る。

 対して、今まで微動だにせず待ち続けていた青年は、これにさえ反応して見せた。

 しかし右は間に合わぬと覚ってか、左腕だ。こちらに突き出すように。

 かつてない速度の中、瑠奈は自らと敵とを直線に繋ぐ死を見た。切先は緩衝領域を突破、掌から貫き、引き裂き、削り落し、その滓すらも風が消滅させる。

 勝てる。確信する。

 このまま纏う風を全て叩きつければ、いかな防護とて。

 視線が、合った。この期に及んで、青年は平坦に瑠奈を見ていた。

 右足の踏み込みにより体を替え、削られる左腕で瑠奈の速度を削ぎながら、籠手に包まれた右拳が動く。

 敵の攻撃を絡め取りながら、それと一体となって繰り出される一撃。交叉法、何の変哲もない人の技である。それを、<魔人>の戦闘能力をもって行うのだ。

 瑠奈は渦を幻視した。暗い暗い深淵へと引き摺りこむ渦だ。

 風が、喰らうのではなく喰らい込まれた。

 この期に及んで思い出す。

 <呑み込むものリヴァイアサン>。

 それが、<竪琴ライラ>の処刑人と呼ばれる青年の、もうひとつの異名だ。








 十代の少女が一人、肝硬変になった。

 理由は分からない。肝炎ウイルスに冒されているわけでもなければ心不全があるわけでもない。常用している薬もなければ法律通りに酒も飲まない。遺伝子疾患も栄養障害も否定されて、強いて当てはめるならば検査結果に疑問は残るものの自己免疫疾患が最も疑わしいと診断された。

 肝臓は様々な代謝を行う臓器である。その機能が大幅に損なわれることになる肝硬変のもたらす症状は多岐にわたり、食事の調整を含め細心の注意を払って最良の治療を受けてなお、予後の良いものではないのだ。

 それを聞かされた少女は、理不尽に与えられた茨の将来を、それでも呑み込んだ。泣きそうになりながらもそこからまた歩き出そうとしたのだ。

 事件とも言えぬ些細な一幕は、その直後にやって来た。

 部活の先輩が見舞いに来たのだ。ただの上級生ではない。異性の、憧れていた男子生徒だった。

 優しく明るく、少しばかり軽口の過ぎるきらいはあったが、それが気にならぬほどに心惹かれていた。

 無論、舞い上がった。楽しくおしゃべりをして、その中で先輩が言ったのだ。

『なんか息が臭いとは思ってたんだけど、病気のせいだったんだな』

 肝障害によって現れる症状の一つに、独特の口臭がある。血中メルカプタン濃度の上昇によって引き起こされるものだ。

 意地の悪い級友に言われたのであれば、膨れるだけで済んだのだろう。少女は靭い娘だった。決して長くは生きられないと聞かされても絶望を跳ねのけるほど、挫けぬ娘だった。

 しかし、その上に重ねられたこれだけは耐えられなかった。

 ずっと、臭いと思われていたのだ。憧れのひとに。

 顔だけは笑って繕った。誰にも泣き言は言わなかった。替わりに、心の奥底の大事な何かが少しだけ失われ、失われたままで歯車が噛み合ってしまった。

 食事の基本には、自分に足りないものを外へ求めるという要素がある。栄養学が学問として確立される遥か前から、血肉を食らって己が身体とし、生命を食らって己が命となす概念はあった。

 少女の歯車は、その概念をどこまでも推進した。自分の肝臓が悪いのならば、肝臓を食べて補えばいいのだと。

 最初はこっそり焼き鳥屋に寄ってレバーを買い込み、食べるだけだった。それだけでも身体には悪いのだ。衰えた肝機能でも処理できるように食事を調整しているというのに、そこへ大量の食物を加えてしまっては何の意味もない。

 しかし少女は己の行動を間違っているとは思わない。叱られても、止められても、すべての忠告は擦り抜ける。そして狂った歯車から導き出されたのは、生きた肝臓ではないから駄目なのだという結論だ。

 今度は、野良犬を殺して腹を裂き、生の肝を食らった。吐きながらも一心に食らい尽くした。寄生虫や細菌、ウイルスなどの病原微生物が存在する可能性にはついぞ気付かない。

 病状は致命的なまでに悪化した。肝性昏睡を起こして病院へ運ばれ、それでも朦朧とした意識の中で思うのは生き肝のことだ。

 やはり人でなくては駄目だ。人間の肝臓でなければ。

 願いは強く強く、それを面白いと思う魔神がいたことは幸運だったのか、不幸だったのか。

 少女は<魔人>となった。病など軽々と屈服させ、だというのにまだ望み続けるのだ。

 両親を襲い、生き肝を食らい、思い人を襲い、生き肝を食らい、そこでようやく身体が力に満ちていることに気付いた。

 肝臓が良くなったのは人の肝を食らったから。それは好意を抱く相手であるほどいい。しかし自分は食らい続けなければならない。そうしないとまた病気になって憧れのひとに臭いと言われてしまう。その妄想が少女にとっての真実となった。

 少女は決して、人を殺したいわけではない。生き肝を取り出せば当然の結果として人間は死んでしまうというだけのことである。

 <魔人>となったときに顔は変わり、名も鹿野瑠奈と変えて、少女は今も夜に蠢くのだ。

 青年は既にそれをすべて承知している。

 少女の心は壊れゆくのみだ。好意を抱いた相手の肝を食らわずにはいられない。その願いのために<魔人>となったのだから。

 少女の心は更に壊れゆくのみだ。愛したい、愛されたい、餓えるその思いで同世代の異性を求め、得ては己が手で死なせるのだから。

 少女の心はなおも壊れゆくのみだ。欲望と喪失の悲しみを天秤に載せ、食らう時期を量るまでになっているのだから。

 戦いが始まる前から少女はずっと、ぽろぽろと涙をこぼし続けている。既に自覚もないのだろう。そのままで笑い、会話し、戦っていた。

 その涙は毅かった少女の魂の、最後の抵抗であるのだろうか。

 それらのすべてを己が内に呑み込んで。

 青年の拳に、一切の容赦は存在しなかった。

 死した<魔人>の肉体は塵も残らない。滴り落ちた涙すら、地に落ちる前に消え去った。




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