<魔人>は夜に蠢く・四
リビングの白色光は落ち着く。
今まで意識したこともなかったのに、今はしみじみと思われてならなかった。
あの青年の姿はもうはっきりと思い出せない。意識の中で影絵の怪人に戯化されて、ただただ不吉さだけが強く残っている。
「ほらよ」
麦茶を注いだコップをテーブルに置く。
「ん、あんがと」
ソファの上、タオルケットに包まるようにして瑠奈は眉間に皺を寄せていた。
敵の姿を教えてからずっと、表情が強張ったままだ。厄介な相手だとは言っていたが、むしろ口に出した以上なのかもしれない。
「なあ」
応えないが、もう一度続けて声をかける。
「なあ、瑠奈」
今度は名も呼んだ。初めてだが、向こうもこちらを呼び捨てているのだから問題はないはずだ。
果たして、彼女は今度こそまなざしを向けて来た。
「何よ?」
「<魔人>って何なんだ?」
「魔神によって力を与えられた人間って説明した気がするけど」
胡乱げな目つき。あんたには関係ないわよと言わんばかりだ。
孝平もこれは想定していた。
「いや、まともな説明になってないだろ、それ。俺が知りたいのはそもそも<魔人>に与えられる力ってのは何なのかってことだ。敵が強いっていうけど、お前との力の差はどこで出たものなんだよ?」
質問の内容そのものに大きな意味はない。それを聞いて自分にできることがあると思ってはいない。
しかし、何かをしてやりたいと思ったのだ。何でもいいから<魔人>について話していれば打開策のヒントになるかもしれない。
馬鹿なことをしているのではないかとは思う。本当に自分が狙われないのなら、すぐにでも彼女を追い出して後は知らんふりをしていれば終わるはずだというのに。
とんでもない美人だというほどではなく、強引で横暴で傍若無人で、特徴を挙げてゆけばそれほど魅力的とも言い難いはずなのに、どうしても追い出す気になれない。
いや、元からそうではあったのだ。心の一部で非日常を歓迎している自分がいる。異常の中にいる己を夢想してしまう。
だが今は、それよりも彼女を手伝ってやりたいという気持ちの方が間違いなく大きかった。
「んー……いや、あたしもそんなによく把握してるわけじゃないんだけど……」
「分かることだけでいい」
「そぉお?」
瑠奈は戸惑い気味に眉尻を下げた。
「まあ、いいか。<魔人>の戦闘能力の元になる要素は三つあるの。まずは人間だったときの身体能力とか、そういうのね。そんなに忠実にでもないんだけど、元々の腕力が強けりゃ<魔人>になっても馬鹿力になり易いわ。あと、身体能力だけじゃなくてエネルギーの塊みたいなのを飛ばせるような力もある。人間だと死にステータスになってるらしいけど、<魔人>になれば生かされるわね」
「妥当なとこだな」
人間よりも遥かに高い身体能力を持っているにしても、それは人間であった頃の自分を基準に強化しているということだ。口にした通り、妥当で非常に分かり易い。
瑠奈も小さく頷いた。
「そうね。で、正確には各能力に
「クラスっていうと……戦士とかそういうやつか」
この流れでまさか二年四組などという展開はあるまい。孝平もゲームの知識がないわけではなく、瑠奈の口にした内容を漠然とではあるが喩えとして誤りなく受け取っていた。
「そうね、そんな感じ。一から六までランクがあってね、二つのクラスを複合して持ってる<魔人>もそれなりにいるって話。ランク六を二つっていうのは世界中探しても一人か二人しかいないらしいけど」
「お前は?」
「<シノビ>と<トレイター>の
自慢、であるはずの台詞だ。だというのに余裕が感じられないのは、やはり相手が日本でも屈指と謳われる<魔人>だからなのだろう。
「このランク合計はそれぞれの<魔人>で限界があるらしくってね、大体元のスペックに比例するの。これがどういうことか分かる?」
「二乗になるわけか」
『人であったときの体力や運動能力』に比例して、更にそこへ掛け合わされるのが『人であったときの体力や運動能力に比例して強力であるクラス』となると、要するに加速度的に強くなるということなのだろう。
つまり、人であったときに比べたよりも力の差が大きくなってしまうということに他ならない。
「……って、それ、女の方が圧倒的に不利じゃないか?」
どう言い繕おうと、ヒトという種において筋力や運動能力は男性が上回っている。更に二乗されれば格差は歴然としたものにならざるを得ない。
しかし瑠奈はかぶりを振った。
「そのあたりは大丈夫。どっちもその性別の中のどのくらいの位置にいるかで、しかもかなり大雑把に判定されてるっぽいから。性差に関しては公平にできてると思う。多分だけど……」
「なんかゲームみたいだな」
クラスという概念といい、現実を無視した能力設定といい、規則の定められたゲームのようだと公平は思う。
あるいは、本当にゲーム感覚で魔神は<魔人>を作り出しているのかもしれない。
「それで、敵のクラスは? なんか有名そうだし知ってたりしないか?」
「んー……確定情報としては知らないかな……とりあえず強いって時点で
「なるほど」
なんとなく納得できる。あの青年には線の細さなどまったく感じられなかった。ロングコートのせいで身体の線はよく分からなかったが、どちらかといえばがっしりとしていた印象がある。
「もう一方は?」
「よく分かんない。ただ、高位の
「クラウンアームズ?」
また知らない言葉だ。
そこで瑠奈がにやりと笑った。
「強さの要素の三つ目よ。<王の武具>と書いて『クラウンアームズ』。どのくらいの格のを幾つ持てるかってのも、人間だった頃の何らかの能力の高さが関わってるらしいけど、これはよく分かんない。一応あたしも持ってる」
軽く掲げた手に、一瞬にして何かが握られた。
すべてが赤黒い。それでも金属めいた光沢をして、不吉に輝く。
それは肉厚の短刀だった。刃渡りは30cmもないだろう。鍔も存在せず、幅が広いこともあってどこか鉈のようにも映った。
「『タイタンブレス』。見た目はちょっと微妙だけど、これでもBランク、高位の
「へえ」
思わず手を伸ばす。孝平も男だ、武器にはそれだけで惹かれるものがある。
しかし、触れる前に刃は掻き消えた。
「駄目、普通の人間が触ったりなんかしたらどうなるか。消し飛んでも知らないわよ?」
「……そんなに凄いのか?」
「あたしならあんたを指先で木端微塵にできるって言ったでしょ? そのあたしの武器なわけ。無事に済むわけないじゃない」
思っていたよりも遥かに近い位置、息のかかる距離に瑠奈の呆れたような顔。
「お、おう……」
鼻白み、乗り出していた上体を引く。何となく気まずくて頭を掻いた。
瑠奈の方に気にした様子はない。が、ふと思いついたように尋ねて来た。
「そういえば今さ」
「ん?」
「あたしの息、臭くなかった?」
「はあ?」
自分でも随分と間の抜けた返事をしてしまったものだと思う。
しかしよく考えてみれば先ほどレバーを食べていたわけで、臭いがしてもおかしくはない。
「特にそんなことはなかったと思うけど……女ってやっぱりそういうの気になるのか」
「まあね。というか、女も男もないでしょ、本来。気をつけてないと彼女できたときに大事なとこで雰囲気ぶち壊す破目になるわよ?」
「……そうかもな」
それは、やはりキスだとかそういったもののときなのだろうか。異性と付き合ったことのない孝平としては動揺を禁じ得ない。
「そうだ、麦茶のお替わり要るか?」
「まだ飲んでもないわよ」
その言葉を最後として沈黙の帳が下りる。
瑠奈は相変わらずタオルケットに包まったまま、眉根を強く寄せていた。
窓の外から射し込む光は既に赤みがかっている。照らされた横顔にも陰影は濃く、引き締められたくちびるを時折赤い舌が舐める。
身じろぎによってタオルケットが彼女を締め付け、襟口から鎖骨の覗く様など視線を誘ってならない。
視線を逸らすべきなのか否か、孝平には分からなかった。後ろめたいことはないはずなのだが。
頬が熱くなって来る。
「……なあ」
耐え切れずに声をかけた。
「なに?」
瑠奈の応えは予想よりも遥かに穏やかなものだった。甘い響きこそなかったものの、壁のない、少なくとも見せない声だ。
こちらを見て小首を傾げる。
しかしさすがに用もなく声をかけたなどと答えるわけにはいかない。無理にでも質問をでっち上げた。
「勝ち目はあるのか?」
彼女が気を悪くするかもしれないと、口にしてしまってから思い当ったが、もう遅い。
案の定、瑠奈の視線が剣呑なものになった。
「だから勝てる方法を今考えてるんじゃない。とりあえず逃げるだけならなんとかなるんだろうけど……」
やはり厳しいのか、と孝平も軽く唇を噛んだ。さすがに今度は口に出さない。
考えてみれば当然だろう。瑠奈は自分の力を上位5%に入ると評し、一方であの青年のことは日本で屈指と言っていた。日本に<魔人>が何人いるのかは知らないが、表現を比べればどちらが上にいるのかは明らかだ。
「そもそも噂でしか知らないから、あんまり厳密なシミュレーションができないのが痛いのよね。パワー・ディフェンスタイプ。日本の<魔人>の中では屈指。高位の
「100%とか、フィクションでしかあり得ないって聞いたけど?」
「知らないわよ、あたしが言ってるわけじゃないんだから。でも少なくともそういう噂が出るほどだってこと。ああっ、もう! なんでよりによってアレが出てくるかな!」
自棄を起こしたように呻き、ごろごろと瑠奈はソファから転げ落ちた。ポニーテイルが床に大きく広がり、口許はへの字口だ。
なんとなく可愛らしい仕種であるが迂闊に頬を緩めるわけにもいかない。
「大丈夫か?」
「……何がよ?」
瑠奈はむくりと起き上がり、またソファによじ登る。
どこか疲労を感じさせるのは、決して気のせいではあるまい。
「疲れてるっぽいぞ、お前」
彼女はそれほど休めていない。買い物に行ったため、肉体的には特にだ。
否定はなかった。瑠奈は苦笑した。
「……かもね」
「疲れた頭で考えてもいい案なんて出ないだろ。どうせ俺がいる間は襲って来られないんだ、割とのんびりしといて大丈夫なんじゃないか?」
「とは言っても、明日までなわけだけど?」
それは当初の条件だ。両親は明後日に帰って来る。だから明日まで。
「……そうだな……」
この条件は、変えたとしてもあまり意味がない。隠れさせたところで見つかる可能性は高い。両親に納得させることは不可能だろう。
限界まで足掻いても、明後日の早朝である。
「とりあえず今は寝といた方がいい。対策なんて明日でいいだろ」
「……かも、しれないわね」
しばし、睨まれていたような気がした。しかしそれはやがて緩み、こてんと瑠奈はソファに倒れ込む。
「いや、寝るならそこに布団あるだろ」
「いいじゃない、あたしの好きで」
「使わなかったら何のために敷いたのか分からないじゃないか」
ちらりと振り返る。敷きっぱなしの蒲団は乱れて、今朝は使われていたことを示している。
シーツに寄った皺やいい加減に放り出された掛け布団が妙に生々しくて、孝平はすぐに瑠奈へと視線を戻した。
「なあ……」
「しつこいなー……問題ないんだってば、あたし元々ソファで寝るの慣れてるんだから。煎餅布団より、柔らかいこっちの方が好きなのよ」
「いや、だからって……」
「そんなことより」
瑠奈はどうしても言うことを聞こうとしない。タオルケットを身体に巻きつけたままソファの上で仰向けとなり、深く深く息を吸い、ゆっくりと長く吐いた。
「起きるまで、少なくともこの部屋にいてほしいの。ほんとに処刑人ならヤバいわ。同じ家にいるくらいじゃ、強攻してくるかもしれない」
「……分かった」
孝平は頷いた。あのコートの青年を思い出せば頷かざるを得なかった。
平坦な表情、事務的な口調、死を語ることに何ら感動を見せず、そして確かに巻き添えを出したくないと言いながら実はそれほど気にしていないのではないかと思わせてならない言葉。
今でもじっとりと汗が浮いて来る。
「じゃ、お願いね、こーへー……」
そう言って目を閉じるときに、瑠奈の睫毛が震えていたのは何故だろう。
ふと、笑みが込み上げて来た。
こんな我の強い女のために何をやっているのだろうか。同じ非日常でも、どうせならば魔神の契約者になる方が良かった。二年ほど前までは千人に一人しか生き残れなかったらしいが、今ならば随分と安全になっていると聞いている。
しかしこれでいいのだろう。
これでいいのだ。
瑠奈の顔を眺めながら、孝平は高揚に声もなく肩を揺らした。
瑠奈が目を覚ます。
ぱちりと大きく見開き、眠気などまるで残した様子もなく上体を起こしてこちらを向く。
「今、何時?」
「夜の十一時。自分で勧めといてなんだけど、よく寝たな」
漠然とした前兆には気付いていた。もうそろそろかとは思っていたのだ。
「とりあえずサンドイッチ食うか? 冷蔵庫に入ってたやつだから固いけど。あとコンビニのサラダ」
ソファの前にあるテーブルには、言葉通りにサンドイッチを置いてある。
起きそうだとは思っていたもののやはり確信は持てなかったので、温かいものは用意していない。
瑠奈は無言で不思議そうに小首をかしげている。
「いや、貧相だけどさ、俺は料理とかまったくできないんだから仕方ないだろ」
「そうじゃなくて」
見当をつけて言い訳をしようとする孝平を遮り、見つめて来る。
「まさかほんとにずっといてくれたのかな……って」
その声は今までの彼女からは想像できないほどか細かった。
甘えるような響きも、混じっているような。
「お前がそう言ったんだろうが」
「まあ、そりゃそうなんだけど、律儀に実行してくれるとは思わなかったから」
瑠奈は、はにかむように笑う。
それは誤魔化すこともできないほどに魅力的で、孝平は声を失った。
そして彼女は笑みをどこか困ったようなものへと変えた。
「なんかもう、あと一押しでこーへー君に惚れてしまいそうだよ、あたし。たった一日なのにね。多分新記録」
「そんな冗談言えるようになったんなら、一応は回復したみたいだな」
到底、彼女の顔を直視などできたものではなかった。目を逸らし、テーブルの上のサンドイッチを持って来る。
「とりあえず食えよ。腹減ってるだろ。美味くはないだろうけどな」
「……そうね、美味しそうだし、そんな頃合。これ以上はまずいかな」
「既に不味そうだぞ。冷たいし固いしパサついてるだろうしな」
「そうじゃなくて」
瑠奈が立ち上がり、リビングを少し歩いてから振り返った。
口許にはほのかに笑みの色が残されているが、瞳に浮かぶものは果たして何だろうか。
「なんていうか、あんたって根本的なとこで馬鹿よね」
酷い言い種だが口調は柔らかい。
「でもこういう馬鹿は好き。あたしに温もりをくれる」
「お前……」
一体何を言い出したのかと孝平は戸惑い、それでも最終的に言わんとすることは察した。
思わず詰め寄る。
「出て行くつもりか? なにも夜でなくたっていいだろ、外にはもうあいつがいるかもしれないんだぞ? 明日の昼でいいだろ、それが一番安全だ」
「そうなんだけど、これ以上はちょっとね」
「巻き込むとか今更だろ?」
「反論は認めないわ。どうせ人間の腕力じゃあたしを力尽くで止めることなんてできやしないんだし」
そのときの瑠奈の動きは、孝平には見えなかった。
気がつけばぴたりとくっ付くような位置にいて、背伸びをした彼女のくちびるが頬に押し当てられていた。
どうしてこんなことになっているのだろう。
別れなど望んでいなかった。家に置いておけるのは明日までであるにしても、その後もまだ何か協力できることがあるはずだと、彼女の寝顔を見ながら考えていたのだ。
胸は高鳴るよりも、ただただ痛かった。
「どうして……」
「これはご褒美。ありがとう。そして……さよなら」
囁くような声。
そして次の動きも分からなかった。
「永遠にね」
吐息が右頬をくすぐる。先ほど口づけられた箇所だ。
同時に訪れたのは、想像を絶する激痛だった。まともな声を上げることすらかなわず、引き攣ったような音を喉の奥に封じ込めるのみだ。
あまりの痛みに意識を軽々と吹き飛ばされてしまったのはせめてもの僥倖だったのだろう。
「おかしい言動をいくつかしておいてあげたのに、気付かなかったの? それとも気付かなかったことにしておいてくれたの? 信じたいってきっと無意識に思っててくれたんだろうね。優しいね、馬鹿だね」
瑠奈の右手が孝平の腹壁を貫き、肝臓を鷲掴みにしている。そのまま、繋がっている動脈や静脈、神経を手際良く引き千切り、大切な宝物のように腹から取り出す。
それを見つめ、鹿野瑠奈は蕩けるようなまなざしで熱い吐息を吹きかけた。
「いい弾力、色も綺麗……素敵よ、こーへー……」
その腕を血が伝う。噴出した鮮血がその身を染め上げ、滴り落ちたものは床へ広がってゆく。
赤に浸りながら、彼女はくちびるをちろりと舐め、手にしたものに齧りついた。
解放された孝平の身体が重い音を立てて血溜りに突っ伏す。
無論、既に命は消え去っていた。
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