<魔人>は夜に蠢く・三




 孝平は混乱していた。

 自分を標的にすることはないのではなかったのか、襲って来ないのではなかったのか。

 それは本当に、動揺から出た気の迷いだ。先ほどは自分から、道を尋ねただけの男をそうではないかと疑ったのだから。

 混乱が収まりきらぬまま、それでも問う。

「俺に何の用だ?」

「何を吹き込まれたのかは知らないが、鹿野瑠奈の傍にいるのは止めた方がいい」

 脅すような調子ではない。決められた台詞を愛想の欠片もなく、どこまでも事務的に告げているだけである。

 じとりと額に浮かぶ汗を、孝平は自覚せずにいられなかった。顔は熱いのに背と指先は冷たい。

 確かに襲っては来るつもりはないのだろう。が、纏ったロングコートが影を大きく見せ、そこに立っているだけで異様な圧迫感があった。

「……あいつを殺すのか……?」

 口の中がからからに乾き、声がかすれる。自分の口にした言葉にさえも恐怖した。

 孝平の感情は明らかに顔へと浮かび上がっていただろうに、それでも青年はどうにもやる気の見られない表情を変えなかった。

「仕事だからね」

 仕事だから。

 職業暗殺者のような、と瑠奈が言っていたことを思い出す。

 まさにその通りなのだろう。憎いわけでもなければ楽しいわけでもなく、ただ仕事だから殺すのだろうと納得できてしまう。

「それなのに俺は殺さないのか」

「ああ」

 必要ないから。あるいは、仕事のうちに入っていないから。言葉にしなかった部分まで聞こえて来るようだった。

 ちり、と。不意に腹が立って来た。

 人の生死をそんな無機質に語っても良いのか。そんな重大なことを、何の感動もなく為して良いのか。どうしてそんなことができる。

 無謀ではあるだろう。普通ならば、死を容易く語るような相手に向ける言葉ではない。

「……どうしてだ?」

「死は、その死を悼みたい者が悼めばいい。院生時代の恩師の受け売りだが」

 口にした問いは漠然として、正確には何を意図しているかなど判らなかったろうに、むしろ殺さない理由と勘違いしてしかるべきだというのに、青年の回答は孝平の心を読み取ったかのようだった。

 孝平の瞳を覗き込むまなざしは、強さなどまるで存在しない替わりに躊躇も見受けられなかった。

「君がなぜ彼女に入れ込んでいるのかは知らないが、それは忘れてこのまま僕と一緒に来た方が君のためではある。おそらく明日の朝には終わっている」

「あんたを信じられる理由がないだろ。俺の勘じゃ、あんたに付いて行くと碌でもないことになりそうなんだがな」

 自分でも不思議だ。よく舌が回るようになって来た。腹の底で煮え立った熱さのおかげだろうか。

 青年は仮面のような顔のままで呟くように言う。

「君はさっきのように理性をもう少し重んじてもいいと思うが」

「理性的に考えても考えなくてもあんたは怪しいだろ」

「いや、向けるべき対象は僕よりも彼女の方なんだが……まあいい。繰り返すが、僕とともに来た方が君のためだ」

「嫌だと言ったら……?」

 孝平には、この青年の言うことを聞き入れる気などまったくなかった。汗に濡れた掌を何度も開いては握りながら、今もってなお胸の奥で荒れ狂っている恐怖を押し殺して精一杯に睨みつける。

 会話を続けるのは、何か有益な情報を引き出せないかと考えたからだ。

「もしかすると時間がかかるかもしれない。逆に早く済むかもしれない。最終的な結果はおそらくほぼ変わらないだろうが」

「巻き添えとか気にせず、一緒に俺も殺してしまえば楽なんじゃないか?」

「君の命を僕が奪う理由はない。死んでしまうのはまた別の話としても」

 どこか奇妙な心持ちだった。表面の言葉は概ね噛み合いながらも何かがずれていると感じた。

 異常者と話しているからだろうか。

 殺すなどという言葉は虚構や軽口の中ではありふれていても、決して実行すべきではないことだ。それでも強い感情や追い詰められた立場があるならまだ分かる。しかし目の前のこのコートの青年はどこまでも事務的で。

 そのことに、どうしても憤りを覚えるのだ。

「とりあえず、あれだ……俺を死なせるのはあんた的にまずいわけだ?」

 自分の命を盾に取るなど実に無様な話だが、今は使えるものならば何でも利用したい。気に食わぬこの相手に口先だけでも一矢報いてやりたい。

 しかし、その目論見は一言で切って捨てられた。

「いや、構わないよ」

「は?」

「既に言ったろう。君のことは仕事に入っていない。君を殺す理由はない。だから僕は君を傷つけようとは思わないし、確かにその可能性のある状況では極力仕掛けないが、君の生死自体はどうでもいいことだ」

 変わらず、青年は淡々と告げる。

 が、そこでほんの少しだけ表情が緩んだ。苦笑が近いだろうか。

「……ああ、済まない。大事なことを教え忘れていた。鹿野瑠奈はある種の食人嗜好カニバリズムに冒されている。直接見たことがあるわけではないから、あくまでも『らしい』ということに過ぎないが」

「……蟹? カーニバル……?」

 聞き慣れぬ単語に、孝平は苛立ちを抱えながらも戸惑う。

 青年はもう既に元のやる気の見えない顔に戻っていた。

「カニバリズム。人間を食べる習慣や好みのことだ。その中でも、彼女は肝を食らうんだそうだ。被害者は判明しているだけで十七名、つけられたあだ名が<ダキニ>」

「ダキニ?」

 それも知らない単語であるに違いなかったが、わざわざそちらを訊き返したのは他に無視したい言葉があったからだ。

 だが青年は避けたところを無造作に踏みつけて来た。

「ダキニというのはインドの神話に登場する、肝を食らう鬼神、女神だ。僕も詳しくは知らないし、気にすることはない。重要なのは、現時点で少なくとも十七名の人間が彼女に殺され、その遺体にはことごとく肝臓が存在していなかったということだよ」

「……まさか」

 鼻で笑うも、息が震えていた。

 あり得ないともあり得るかもしれないとも思わず、ただただ嫌だった。発想自体が気持ち悪くて仕方がないのだ。

「どうして肝臓なんて食うんだよ? 意味ないだろ。それにそんなに殺人事件が起こってたら絶対ニュースになってるだろ?」

 今朝瑠奈と話していた通り、連続殺人や猟奇殺人のニュースなど知らない。

「肝を食らう理由は彼女に訊いてくれ。ニュースになっていないのは、死体が出ていないからだ。<魔人>の絡んだ件はすべてこちら側で処理をしている。表では単なる行方不明者だよ。年に何万人といるうちの一人になっている」

 孝平と違って、青年は人を食うということを口にしながら嫌悪すら見せない。何の興味もなさそうだ。

 やはりこいつはおかしい。そう孝平は思う。

 平静な口調だからもっともらしく聞こえるが、言っていることに裏付けは何もないのだ。

 無理矢理に笑みを浮かべる。強張った顔面の皮膚が引き攣るようだった。

「それで、あんたは殺人鬼を止めに来た正義の味方ってわけか?」

「善悪も今更だ。あまり興味はないんだが」

 精一杯の皮肉、それにさえ青年は心を動かさない。

「どうしても分けたいというのなら、僕は悪だ。無論、鹿野瑠奈も悪になる」

 気持ち悪い。

 背中に当たったのは壁だ。いつの間にか仰け反っていたらしい。

 苦労して声を絞り出す。

「……悪党の言うことなんか聞くわけねえだろ」

 惑いそうになる己を叱咤する。

 人は嘘をつくことができる。不安を煽り、動揺させ、自分を瑠奈から引き離そうとしているのだ。

「盗人にも三分の理という。僕の言うことにも道理が皆無というわけでもないんだが……」

 青年が再び苦笑にも似た僅かな表情を見せた。

「元々、独りでいる君を偶然見かけたからせめてもの忠告をしたに過ぎない。そうしたいならそれでいい。君の意思は尊重する」

 視界の中でロングコートが揺れた。

 いつしか、孝平の目に映っていたのは背中だった。褪せた色がぼんやりと薄れ、溶けてゆく。

 電灯の明かりが暗い。煌々と輝いているはずなのに、人々が影絵のようだった。








「ちょっと! ちょっと、こーへーどうしたのよ?」

 色が戻って来たとき、目の前にあったのは瑠奈の顔だった。あと少し近づければ口づけることが出来そうなほど近い。

 くちびるに視線が吸い寄せられた。甘い香りは、彼女の吐息なのだろうか。

 だが、まだ朦朧としたままであった意識は新たに鼻腔を打ち据えた匂いに強制的に覚醒させられた。

 香ばしい。

「ほんとにどうしたの?」

 明らかに心配そうな表情を浮かべている瑠奈。その右手には紙袋を二つ提げ、左手には肉を突き刺した串が四本。

「……お前の敵がここに来てた」

「えぇっ!? もう見つかったの? 絶対振り切ったはずなのに、いくらなんでも早過ぎる……どんなペテン使ったのよ……」

「……そういえば」

 ぞっとした。

 敵がやって来たということにばかり気を取られていたが、言われてみれば瑠奈の言う通りだ。彼女がやって来たのは今日未明のことである。まだ半日しか経っていない。だとというのに、もう自分のことまでも調べ上げたということになるのだ。

 自分は、話にならないほど敵を甘く見ていたのではなかろうか。そして驚くということは、おそらく瑠奈も。

「それで、大丈夫だった?」

「特に手は出されてない。それよりあいつ、お前のことを肝臓を食べる悪人だとか言ってたんだが……」

「……へ?」

 見つめると、返って来たのは怪訝そうな表情。自分の左手を見て、こちらをもう一度見て、また串に目をやって。

 それを差し出した。

「肝臓ってこれのこと?」

 焼き鳥かと思ったのが、よく見れば違う。全体的にのっぺりとして、匂いもやや生臭い。

「はい、あーん」

「む」

 言われるがままに口にすれば、舌の上に広がった味は予想通りのものだ。

 レバーである。

「確かにあたし、レバー大好きだけど……変なあだ名つけられたりもしたくらいだけどさ。え? 悪人って何?」

「十七人殺したとか言ってた」

「ちょっとまさか、あんた信じたんじゃないでしょうね? ってか、他に変なこと言ってたりしなかった? 知らないうちに濡れ衣着せられるとか勘弁してほしいんだけど」

 むっとした調子でまくしたてる瑠奈に、孝平はほっとした。やはりあの男の言っていたことは出まかせだと確信するとともに、青年の無感動な顔を彼女の豊かな表情が洗い流してくれる気がしたのだ。

「とりあえず、何か対策練った方がいいんじゃないのか? 半端じゃなさそうだぞ、あれ」

「そうね……っていうか、どんなのが来たの?」

「知ってるんじゃなかったのか?」

 標的以外は傷つけない職業暗殺者めいた奴とまで断定していた以上、知らないはずはないのにと思ったのだが、瑠奈は小さく肩をすくめてみせた。

「あいつら、組織なのよ。あたしが知ってるのはその組織が何を目的としてどういうポリシーを共有してるかってことだけ。そりゃ、昨日あたしがやり合った奴なんかは分かるけど、さっき来たのがそれと同一人物だとは限らないもの」

「お前ら、もしかしてかなりいい加減なんじゃないか? 情報洗い出したりしそうなもんだけど」

 半ば呆れつつも孝平は頷き、先ほどまでの姿を思い出しながら言葉にする。

「二十五歳とか、そのあたりの男だ。背は多分俺より高い。変なコート着てて……」

「変なコート?」

「春だってのにロングコートで、片方の袖がやけにデカいんだ。あとあいつ、なんかどう見ても気力が……」

 なさそうだった、と言おうとした言葉を呑み込む。

 見るからに瑠奈の顔が蒼白になっていた。くちびるも、震えているような。

 意味は分かる。

「……やばいのか?」

「…………正直、最悪かも」

 彼女の声までもかすれていた。

「それ、間違いなく<竪琴ライラ>の処刑人だわ。総合力じゃ日本の<魔人>の中でも屈指って話。どうしようか、こーへー?」





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