<魔人>は夜に蠢く・二
「今日は祝日だし、買い物に行きましょ?」
朝食の席で、二晩だけの予定である居候がそう言った。
彼女の前にあるのは炊き立てのご飯と卵焼き、それからわかめの味噌汁。さらに加えて食後のデザートに練乳のかかった苺。
同じものは孝平の目の前にもある。
これらはすべて、瑠奈が作ったものだ。一言も断りは入れてもらえなかったが。
いや、それはいいのだ。考え方を変えれば、これはお礼なのだろうと解釈できる。むしろそう受け取るのが普通なのではないか。
「……買い物?」
寝不足の頭は理解力が低下している。漠然と、おかしいとだけ先に思い、半呼吸してから理由に思い当たる。
「出歩いていいのか? 悪い奴らに狙われてるんじゃなかったっけか」
「昼間で人のいるところなら大丈夫。どんな<魔人>でも、人目につくところで仕掛けて来ることは滅多にないから」
瑠奈の答えはあっけらかんとしたものだ。
「その証拠に、怪死事件とか聞かないでしょ?」
「……んー、まあ……確かに事故とか普通の殺人事件しか聞かないか。あと、火事だとかビルにトラック突っ込んだとか」
記憶を掘り返すも、思い当たるものはない。
現在、日本は平和である。世界に目をやれば<災>と呼ばれる怪物によって殺される人間が年間数百万人単位でいるらしいと聞いているが、それが何かの間違いではないかと思えてしまうほど、本当に日本は平和である。
十年と少し前ならば日本でもそれこそ百万人以上が命を落としたという話も聞いたことはある。だが、では何故に今は平和であるのか、孝平は知らないし話題にも出て来ない。
「けど滅多にないってことは、あり得ないわけじゃないってことだろ?」
「まあ、たまに変なのもいるから」
瑠奈は米と卵と味噌汁を恐ろしいまでの速さで平らげ、それなのに苺はゆっくりと味わっている。よほど好きなのだろうか。
「今回の相手なら、そのへんはすごく真っ当だから安心していいわ」
「できるわけねえだろ」
今更ながらに後悔が湧いて来た。無論、今から昨夜に戻ったとしてもやはり泊めただろうが。
あふ、と欠伸を噛み殺し、卵焼きを頬張る。
不味くははないが格別に美味いわけでもない。何も言わずに頬張っていると、瑠奈が半眼になって言った。
「まさか、睡眠薬でも飲まないと寝れない性質だったりするんじゃないでしょうね?」
「別にんなこたねえよ。むしろ小さい頃から薬は嫌いだ」
昨夜の自侭な様子からすると感想を言わないことに文句でもあるのかと思いきや、そんな内容で少し戸惑ったものの、正直に答える。
別段苦い薬を処方された覚えもないのだが、なんとなく嫌いなのだ。異物を身体に入れるような、そんな感覚がある。
「ならいいわ。人間、自分の免疫力が一番よ」
妙に上機嫌で、瑠奈。
また着替えでもしたのだろうか、今朝は昨夜やって来たときと同じ服装である。
その活力に押され、孝平は小さくため息をついた。
「薬に何か拘りでもあるのかよ?」
それは何の気ない、尋ねる気すらなかった、ただの相槌の代わりだ。
だというのに、瑠奈は表情を強張らせた。
苺を咀嚼する動きが止まり、孝平を見つめ。やがて、張りのない笑みを浮かべる。
「<魔人>になる人間にはね、色んな理由があるの。あたしの場合、それが健康関連だってこと」
「……訊いたらまずかったか?」
「別に。ちょっとびっくりしただけ。ほら、男なんだからもっと早く食べなさいよ。これじゃ、あたしが大飯喰らいみたいじゃない」
そう、また明るく笑うものの、今度はやはりどこか無理をしたもののように見えて、孝平も動揺を禁じ得なかった。
しかしそれ以上を触れることも出来ずに話題を変える。
「……で、何買おうってんだ? 武器とかか? そこらに売ってるものじゃないだろ」
「武器なんか要らないわよ。持ってるもん。そんなものより服とか下着の替えとかの方が切実なの。別に好き好んでこんな昨日と同じカッコしてるんじゃないワケ」
「まあ……そりゃそうだろうな」
気圧されつつも、やはり気になるのかと納得する。男である孝平でさえも、仕方なくならばまだしも好んで同じ服を着たくはないものだ。
既に武器を持っているという部分は気にしないことにした。
「じゃあ、気をつけて行ってこい」
さて今日はどうしようか。思案を巡らせる。
どこかへ出るつもりはない。もしも瑠奈が先に帰って来たならば、一人でこの家に置いておくことになる。何かと迂闊なところのある孝平だが、さすがにそこまで無用心ではなかった。今日は月曜ながらも祝日だからいいが、明日の学校は休まなければならないか。
クォ様画像集の整理でもするかと考えていたところで、瑠奈が心底意外そうに思いもよらぬことを口にした。
「何言ってんの、あんたも来るのよ」
「……なんで?」
孝平も間の抜けた顔で視線を返す。服や下着を買うのに自分が必要だとは思えないし、そんなものに付いて行きたくもない。
加えて、大きなデメリットまであるのだ。
「お前と一緒にいるとこを敵に見られたら、俺まで標的にされないか?」
それは必ずしも怯懦のもたらした台詞ではない。
無論のこと、もし狙われるとなったならば恐ろしいには違いない。しかしそれよりも重要なのは、自分が彼女の弱点になってしまうということだ。
「<魔人>がどのくらい強いのかは知らねえけど、どうせ普通の人間よりずっと上なんだろ?」
「ピンキリだけど、あたしなら指先一つで人間くらい木端微塵」
「ってことは敵さんもそのくらいできるわけだ。デコピン一発木端微塵にされろってのか、俺に。まさかお前、俺の命なんてどうでもいいとか思ってないよな?」
ただでさえ互角以上である相手と、簡単に死んでしまうような人間を庇いながら戦えるわけがない。人目のある場所では仕掛けて来ないにしても、この家が分かれば今夜にでも襲って来ることくらいはできるだろう。そうなればもう終わりだ。
彼女に自分を守る気があれば、だが。
「もちろん、あんたが狙われるようなことになれば守るわよ。でも今回に限ってその心配はないと思う」
そう答えた瑠奈の表情はまるで苦笑のようで、そしてすぐに真顔になった。正面から孝平を見つめて告げる。
「今回の相手はね、なんていうか……硬派な職業暗殺者みたいなやつらなの。標的以外は誰も殺さない、傷も与えない、他人の物もあんまり壊さない。そういうポリシーを持ってるのね。あんたが標的にされることはないの。だからあたしはホテルとかじゃなくて、この家に上がり込んだわけ」
その言葉の意味を咀嚼し、やがて理解した孝平は深い溜息とともに額に手をやった。
「…………なるほど、そういうことかよ。ある意味、お前は俺を人質にしてるわけなんだな?」
巻き添えを出すことを敵が厭うのなら、一日中他人の近くにいればいい。
ホテルならば人間自体は沢山いるが、そのかわり人に紛れて部屋に近付き、彼女しかいないところへ襲撃をかけることができる。多少の物が壊れるくらいで目的は達成されるだろう。
それを防ぐためには襲撃を四六時中警戒しておかなくてはならない。あるいは人のいる場所に滞在し続けなければならない。肉体的にはまだしも、精神的に休めないのだ。
対してこの家ならば、常に他人と一緒にいることができる。別々の部屋にいようとも、外からはどの部屋に誰がいるのか確信は持てないはずだ。徹底的に巻き添えを出すこと嫌うのなら確信なく手は出せない。
孝平自身が言う通り、ある種の人質のようなものなのだ。
「つまり、俺を買い物に連れて行きたいってのも……」
「まあ、昼だから必要ない気もするんだけどね。途中で人通りのない場所通ったときのために協力してほしいわけ。怒った?」
「笑顔で訊くか、それを」
やはり彼女は実に『いい』性格をしているようだ。
だが、困ったことに孝平はこういうものが嫌いではなかった。胸の奥で疼く何かがある。
「乗りかかった船だからな、付き合うよ」
デパート地下の一角、目立たぬように据え付けられたベンチに座り、孝平はぼんやりと人々の流れを眺めていた。
隣には紙袋が二つ。このデパートに来るまでにもあちこちを散々連れ回された成果だ。瑠奈は充分な金を持っていたが、なぜか昼食は奢らされた。
わいわいと騒がしい声が耳に入って来る。
盛況だ。こういった場所に来ることが少ないのでよく分からないところはあるのだが、何かキャンペーンでも行われているらしく、歩き回るにも人が邪魔になりそうなほど混雑している。
瑠奈には早々に置いて行かれた。まだ買うのかと呆れもしたが、服だの下着だのを買うのに付き合う趣味はないので今回置いて行ってくれるのは望むところではある。
ただ、暇だった。もう一時間は経っているのだ。
眺めているだけということもあり、人々の顔はあまりよく認識されない。暗さの中でぼやけている。
暗いのだ。照明は充分なはずだが、外と比べればやはり雲泥の差だ。太陽の光というものがどれほど明るいのかがよく分かる。
と、視界が更に暗くなった。目の前に男が一人、立っている。
三十路か、それを少し過ぎたあたりだろう。長身だ。180cmは越えている。白いシャツに黒っぽいスーツを着て、地味なネクタイを締めていた。
眼鏡の奥からこちらを見つめ、低く重い声で問うて来た。
「少々ものをお尋ねしたい」
美声と言えるだろう。響きそのものは関西のものだ。
孝平の背に悪寒が走った。瑠奈を狙う者が、自分に接触して来る可能性はある。目の前のこの男がそうではないとは言い切れない。
「……何でしょうか?」
自分でも警戒の滲んだ声になったと思う。
男も感じるものがあったのか、少し間を置いた。
「市立体育館へはどう行けばよろしいか」
「……目の前の国道を東へ道なりに行って、河を渡ったところで左に折れたらもう見えてますよ」
警戒を深める。道など、わざわざデパートの地下で訊くようなものではない。
「市立体育館で何かあるんですか?」
逆に質問する。道を尋ねるのが何らかの欺瞞であるなら、まともに答えられないはずだ。
射るような視線を受けながら、男の表情は変わらない。捉えられぬ顔で、一拍置いてから答えた。
「市立体育館自体に用はありませんが、そこを目印に落ち合う予定でして」
無難な回答だ。嘘だと断じることはできない。
「奥さんですか?」
「知り合いです」
あくまでも淡々と告げ、男は小さく頭を下げた。
「助かりました。ありがとうございます。では」
口調にせよ間にせよ、早くも遅くもない。ごく普通のものだ。ただ、低く重い声は耳に残った。
このまま行かせていいのかと、立ち去ろうとする背に思わず声をかけそうになるが、すんでのところで堪える。
怪しいと思ったのはただの勘だ。そう思えてしまうだけのことで、証拠はないのである。
こんなところで道を尋ねることがおかしいくらいのもので、それも絶対に不可解であると言える要素ではない。ここに来てはいけない理由はないし、手近な誰かに道を訊いてはならないわけでもないのだ。
過敏になっている自覚はある。伸ばしかけていた手を収め、大きくため息をついた。
大丈夫だ。瑠奈の言っていた通りならば、この人出のデパートで襲われることはあり得ない。
そう自分に、どのくらいの間、言い聞かせていただろうか。
「断言はしないが、君の感性よりも理性の方が正しい」
先ほどの男とは異なる声がした。あそこまでの重さはない、少し若い声だ。
びくりとして顔を上げれば、今度は青年がこちらを見つめていた。
二十代半ばと思しき容貌は見目好いものではない代わりに悪くもない。先ほどの男性と同程度である背丈も、日本人男性として長身に分類されはするが珍しいわけでもない。平凡な容姿とはよく観察すれば没個性ではないものの、気に留められなければ結局平凡の一言で済まされてしまうものだ。
むしろコートの方が目立つかもしれない。春だというのに色褪せたロングコート、それも右袖だけ異様に大きく広がった奇妙な仕立てになっているのである。
「……それはどういう……」
無意識に腰を浮かせる。孝平は既に答えを得ていた。
そして青年の言葉はその答えを肯定するものだった。
「君が警戒している相手は、おそらく僕だ」
表情も声も無感動に、そう告げた。
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