灰白世界の<魔人>たち

八枝

<魔人>は夜に蠢く

<魔人>は夜に蠢く・一

 奇妙な夢を見た。

 自分は巨大な狼だった。

 森を駆け、他の何ものも及ばないという誇りを胸に月に吼えていた。

 爽快。体毛の一本にすら力が漲る感覚。

 ところが心地よく吼えていたその時に、何の脈絡もなくドラゴンが現れた。

 自分などより遥かに大きな、まさに山のような存在。

 踏み潰された。それはもう呆気なく。

 そんな奇妙な夢を見て、桐生孝平は目覚めた。




 高校二年生、十六歳。身長176cm、中肉だが中学時代にサッカー部だったこともあり、まだ脚は筋肉質。

 特技は高い適応能力と、常にすっきりとした起床。

 その後者が災いした。

 最初に目に入ったのは見知らぬ人の顔だった。

「うどぅわぁぁぁぁあああああああ!!!?」

 自分の部屋である。自分の城である。両親が帰っているときでさえあまり入れない場所に知らない顔、というのはそれだけで怪談である。

 跳ね起き、壁に張り付く。止まるかと思った心臓はむしろ通常の三倍の拍子で踊り狂っている。

 部屋には電灯が点けられているが外は暗い。開け放たれた窓から夜風。孝平の頬を撫でる。

「ったく肝っ玉の小さい……」

 侵入者はふてぶてしく腕を組むと、鼻で笑った。

 その仕草は生気に溢れていて、心身ともに凍り付いていた孝平を少し溶かした。少なくとも幽霊の類ではなさそうだ。何ものであるにせよ、話が通じるならばなんとかなるのではなかろうか。

「お前……誰だ……?」

 問うた声はまだ掠れていたが、鼓動は通常の二倍にまで落ち着いた。

 観察する余裕も出てくる。

 目の前にいるのは、同じくらいの年齢と思しき少女だ。長身だろう。並んでみなければ判らないが、目測ではおそらく自分とほとんど変わらないように感じる。

 後頭部の高い位置で一つに括られた髪は、それでも肩の少し下まで達している。

 服装は、孝平の分かる範囲ではベージュのセーター、ミニのデニムスカート、ゼブラのオーバーニーソックス。ついでにデニムジャンパーを腰に巻いている。

「さてはて、どう答えたもんかしらね」

 少女は腕組みしたまま小首をかしげた。左耳にだけ着けられた菱形の小さなイアリングが揺れた。

 その間に孝平は息を整える。

 よく見れば、僅かに眉間を寄せた表情も勝気な少女は、魅力的だった。面立ちが整っていると言えば確かにそれもあるのだが、それ以上に存在感がある。目許や口許、挙措動作、すべてに力があり、だからこそ強く印象付けられる。

 きっと手入れを欠かさないのであろう桜色のくちびるが、やがて答えを紡ぎ出した。

「とりあえず、あんたのご主人様かな」

 酷い、というよりも訳が分からない言葉だった。

「いや待て。待て待て」

 引き寄せられかけていた心がまた離れる。

「何だよそのご主人様ってのは。俺が訊きたいのはあんたがどこの誰で、どうして夜中に俺の部屋に入って来たのかってことなんだが」

 すっかり呑まれていたが、考えてみれば警察に通報でもした方がいいのかもしれない。不法侵入だ。

 でも何か理由があるのだとしたらそれは可哀想か。

 でもご主人様とか言い出すあたり、やばいのかもしれない。

 でも通報すると自分も事情聴取やらで面倒なことになるのかも。

 でも背に腹は替えられないと言うか何と言うか、安全第一だろう。

 でもやはり。

 でもでもと逆接が連なるほど豪快に葛藤しながら唸る孝平を、少女は少し苛立たしげに見下ろした。

「うるさい、黙れ」

「無茶苦茶だな!」

 傍若無人というよりも、単純に理不尽。あまりのことに孝平は大きくため息をつき、そして思い浮かんだ単語がひとつ。

「……もしかして、あんた魔神だったりするのか……?」




 魔神という存在がいる。

 正確には、十五、六年ほど前に現れた自らを魔神と呼ぶ存在だ。人の女のような姿をして、人には至り得ぬ美しさを存分に見せつけ、人とは次元の異なる力を振るう。

 こと顕現数の多い日本においては、比較的近しい存在だ。社会に組み込まれていると言えるほどではないが、場合によっては道端ですれ違う可能性もないではない。

 少なくとも、インターネット上には特定の魔神のファンサイトがあったりもする程度ではある。

 そして、魔神というものは往々にして強引で理不尽らしいと孝平も聞いてはいた。

 だが。

「……いや、違うか」

 自らかぶりを振る。この不法侵入少女は確かに魅力的ではあるが、あくまでも可愛いクラスメイトくらいのものであって魔神には及ぶべくもないし、そもそも日本人にしか見えない。

 少し不機嫌そうにではあったが、少女もこくりと頷いた。

「『まじん』……まあ、普通に考えて魔神のことよね。確かに違うわよ。魔神に力を与えられた人間。『魔』に『人』って書いてね、<魔人>って呼ぶらしいわ」

「へえ」

 気のない返事になったのは納得してしまったからだ。孝平は魔神にどの程度のことが出来るのかを知らないものの、人に力を与えるくらいのことは出来るのだろうと。呼び名は紛らわしいが。

 しかし、彼女の正体が<魔人>という存在だとしても、それはこんな夜中にやって来て主人だと言い放つ理由にはならない。

「で、その<魔人>が俺に何の用なんだよ?」

「まあ、よくある話、<魔人>も色々いるのよ。元々人間だからね」

 窓を閉めてから、少女はちょこんとベッドに腰掛けた。

「手に入れた力で暴れ回るのがいれば、それを張り倒すのもいるわけ。ところがあたし、ちょっと失敗しちゃって。見た目はこう、何事もなく可愛いままなんだけど? 割と強烈にダメージ受けちゃっててね」

「……それで?」

 促す。可愛いと自分で口にしていることは指摘しない。実際に可愛いことは否定出来ないし、何よりも自分のベッドにそんな女の子が座っているという状況にどぎまぎして、あまりまともに頭が働かないのだ。

「つまりそのダメージが回復するまで何日か泊めて欲しいわけ。いいわよね? さっき気配探ったけど、この家には今あんたしかいないみたいだし」

「……まあ、出張中だからな」

 孝平の両親は共働きだ。今回は出張が重なって、二人とも明々後日まで帰って来ない。

 しかし、だからと言って泊められるわけでもないのだ。

「ホテルに泊まるとか駄目なのか? ってか、悪い奴取り締まるのなら仲間とかいるだろ、そっち頼れよ。あとさっき言ってたご主人様ってそれと何の関係があるんだよ」

「こっちにも色々あるのよ。あと、ご主人様ってのはノリよ」

 面倒な奴、とでも言いたげに彼女が溜め息をつく。

 面倒で無茶苦茶で理不尽で強引なのはお前だろうと思わぬわけもなかったが、孝平はその言葉を呑み込んだ。

「……明後日までだ。それ以降は駄目だからな。親父とお袋が帰って来る」

「あら、ほんとにいいの? かなり駄目元で頼んでみてたんだけど」

「頼んでるって感じじゃなかったけどな、正直」

 それでなくとも怪しいのだ、理性は泊めるべきではないと言っている。

 だが、だ。

「俺が見捨てたらどうなるんだ?」

「今日明日レベルでどうってわけじゃないけど、一週間もすれば十中八九、死んでるんじゃない? 敵も馬鹿じゃないもの、体力回復してない状態じゃ捌き切れない」

「それなら出来るわけないだろ。後味が悪い」

 自分が拒絶したがために死んだ、などとなれば寝覚めが悪いにもほどがある。

 この少女は面倒で無茶苦茶で理不尽で強引で、いくら魅力的であろうとも関わりたくないのが普通ではある。しかし、人命には替えられないのだ。

「一応来客用の布団もある。リビングでなら泊めてもいい」

「OK、交渉成立ね」

「俺、何か対価貰ったっけ?」

 交渉とは互いに何か得るものがなくてはならない。それは必ずしも正ではなく、負を清算する場合もあるのだろうが、今回は正真正銘何も得ていない。

 しかし少女はけらけらと笑った。

「こんな美少女と一つ屋根の下」

「別に彼女になってくれるわけでもないだろ」

 本当のところは、真っ当に欲望をもつ少年としてどきりとするものはあったのだが、それを押し殺す。

 が、無駄に終わった。

「考えてもいいわよ? こういう無茶を受け入れてくれる男の子は割と好き」

「……はいはい、考えるだけ考えるだけ」

 騙されない。騙されたくなるが、騙されてなるものか。

 明らかな動揺を浮かべながらも、孝平は煩悩を振り切る。

「とりあえずリビングに布団は出しとくから……」

「その前にお風呂どこ? シャワー浴びときたいんだけど」

 振り切れなかった。






「うーあー……」

 少女を送り出し、言った通りに布団を敷いて来てからパソコンを起動する。

 唐突にやって来た他人を泊めるとなると、さすがに寝られない。煩悩云々ばかりではなく、単純に見知らぬ相手が自分の居住空間にいるという事態に対する警戒の意味もある。

 それでも泊めることにしたのは、先ほど自分でも言った通り見捨てると後味が悪いということと、少年らしい無謀と背中合わせの冒険心のせいである。

 変わり映えのしない毎日にやって来た厄介事は、面倒だと思う以上に刺激的で、危険だからこそ心をくすぐる。

 そしてまた逆にだからこそ、だろうか。マウスを操る手は変わり映えのしない日常を求めるかのように、毎日訪れているサイトを開いていた。

 ハンドルネーム『甲乙』なる人物の運営する、さほど有名ではない魔神についてのファンサイトだ。

 まずは日記を見る。どこが更新されたかを確認するのにはそれが一番早い。

『クォレアーカ様のページを更新しました。着々と堅実に階梯を上げてらっしゃいますね。先日また契約者の方とお話しする機会があったのですが、以前お会いした時よりも綺麗になっておられてびっくりしました。正直、真正のモデルさんレベルですよー』

「うわ、クォ様のが来てる!」

 魔神クォレアーカ。<黄昏>のクォレアーカ。

 力量は可もなく不可もなくで、それだけならば『さほど有名ではない』どころかほとんど知る者のない魔神だったろう。

 だが、その存在を人々に知らしめる非常に大きな要素が一つある。

 孝平はクォレアーカの部屋をクリックした。

 現れるのは、不機嫌そうな表情をした少女の顔だ。

 人で言うならば、年の頃は十六、七というところだろう。驚くほど綺麗な蜂蜜色の長い髪と金色の瞳、すらりとした長身には幾重ものベルトの巻き付けられた赤のロングドレスを纏っている。

 クォレアーカは美しい。魔神というものは人外れて美しいものだが、その中でさえ群を抜いている。十本の指にならば、間違いなく入るだろう。

 その美貌はむしろ深窓の令嬢を思わせるのに、気に食わないものには狼のように牙を剥く野性味のある表情を見せる。

 言うまでもなく、一番のお気に入りだ。

 にへらにへらと笑いながら、新たに加わっていた画像を保存する。

 やはり、いい。写真だけで問答無用の魅力がある。

 躍動感、生々しさは管理人の腕もあるのだろう。しかし俗っぽいにもかかわらず決して触れられないと思わせる隔たりをも彼女は感じさせる。

 どのくらいそうしていたのだろうか。

 ノックもなく部屋のドアが開いた。

「何してんの? ……ってあんた魔神フェチ?」

「……別に、魔神自体が好きってわけじゃ……」

 こちらを見る半眼は生温くて、そのくせどこか冷ややかだ。言い訳の声はどうしても尻すぼみになった。

 彼女はすたすたと入って来ると、そのままベッドに腰掛けた。

「ま、いいけどね。彼女になって欲しいって言ってたくせにもう浮気するような奴だったって覚えとくだけ」

「アイドルみたいなもんだろ。というか、頼んでないし考えるだけなの見え見えなのに浮気も何も……」

 そう言いながら孝平は椅子の背もたれに肘を置きながら振り向き、絶句した。

 動揺も収まり落ち着いてしげしげと観察してみれば、彼女の格好は正直目の毒だった。

 見えているのは、どこから出して来たのか、ぶかぶかのワイシャツだけだ。ふとももが限界まで覗いていて、何かを穿いているのかどうかはよく分からない。

「ちょっとお前……なんつーかっこを……」

「ふふん、欲情したか」

 す、と彼女がシャツの裾をめくり上げた。

 目を逸らすべきだと孝平の理性は言った。しかし一瞬動かしただけで結局は凝視してしまったのは、やはり男のさがだろうか。

 しかし。

「ちゃんとショートパンツ穿いてるもんね。ねえ、期待した? 何期待してた?」

「……うぜえ」

「見つめてたくせに。うざいとか何それ、防衛反応? 照れ隠し?」

「心底うぜえ」

 今更ながらに顔を背ける。

 下着ではなくとも、瑞々しい太ももはむしろより生々しく意識に焼きつけられる。

「とっとと寝ろよ。体力回復してなくても明後日には放り出すんだからな」

 視線は画面に固定したまま、しかし内容は既に目に入っていなかった。自分の声が上ずっていることにも気付かない。

 くくくと彼女は笑う。

「可愛いわね、あんた」

「あのな」

鹿野かの瑠奈るな

 反論を封じるかのように被せて告げられた名をどう綴るのか、孝平には分からなかった。それでもそれがおそらくは彼女の名前なのであろうことは推測できた。

 少しだけ振り返り、名だけ呟くように告げる。顔は見ない。

「桐生孝平」

「じゃあそういうわけでよろしくね、こーへー君」

 何の迷いもなく彼女は笑みを含んだ声で名を呼び捨て、振り返る頃には既にドアの閉まる音。姿はもう見えない。

 いつベッドから立ち上がったのか、いつ移動したのか、孝平にはまったく感じとることができなかった。

 それはまるで彼女が幻であったかのようで、戸惑う。

「……面倒ごとに関わっちまったのは間違いないんだろうけどなあ……」

 キーボードの“M”を人差し指で叩きながらひとりごつ。

 自分が何を考えているのかも、実のところよく理解はしていなかった。

 ただ、妙に心が沸き立っているのだけは確かだった。

「とりあえずもう今夜は寝られねえな」

 時計の針は午前三時を差していた。

「……ってか、あいつのあの服、どっから出て来たんだ……?」




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