世界樹に生きる者たち(「紅と青」完結)

 浮ついた夜と同じくらいに、わいのわいのとにぎやかな店内。普段なら静かさを売りにしている空間のはずだが、今夜ばかりは、別である。数人の騎士が室内で目を光らせているが、客である市民たちはそんなことお構いなしだ。

 ある者は浴びるように発泡酒をあおり、既に限界を迎えた者はだらしなく床に倒れ、湯気立つ料理はせわしなく運ばれる。外で催されている演舞や模擬戦などの見世物よりも、食い気の勝る者たちは血気盛んに、この空気に酔いしれていた。

 そんな喧騒も壁一枚を隔てれば、がやがやと少しだけやかましい雑音へと変化する。だがガタン、と内側で倒れたテーブルの音に、紅竜が突然、ぶんと尻尾を振る。鞭は椅子に命中し、ガタッと負けず劣らずの音を立て倒れる。

 露店の立ち並ぶ道を眺めることのできる席へ、近くにいた通行人やテラス席の客たちの無数の視線が集まる。しばらく固まった彼は無言で備品をなおす。

「そんな驚かなくても……ジーダさん?」

 動揺を隠しきれていない彼と相席する、帽子をかぶる青竜は苦笑いを浮かべながら、口からはみ出ていた赤い肉を、数回首を縦に振って飲み込む。

「リエードさん、紅竜の男って、逞しいくせに音に敏感だから、そう言わないであげて」

 もう一人の相席者である人間は薄い笑みを浮かべ、料理の野菜をフォークで刺しながらフォローを図る。ジーダはフォローになっていないぞ、と席に着きなおす。

「そうなんだ。ラクリは、そうでもなかった気がするけれど」

 彼女は人並みだったわ、と彼女は一口頬張る。深く刻まれた笑みに、アリア、とジーダが目配せ。はっとした様子でリエードを見るが、大丈夫だよ、と彼は次の一口を求め、鼻先を皿につける。

 故郷から遺産などを売りに市場にやってきていたジーダとアリアは、商談の終わり際にテロに巻き込まれた。王の無力化のために人質としてアリアは捕まるものの、後を追いかけたジーダと彼女の手によって、どうにか危機を脱した。

 そしてテロ収束後、捕縛した実行犯を騎士に引き渡した二人は、聞き取り調査を受けた後に解放された。とはいえ、故郷に戻るための手段が当分の間使えないことを伝えられ、市場に残ることを余儀なくされる。暇になってしまった時間と、商談で手に入れていた硬貨で市場の観光を楽しんでいた。

 一方、遺産採掘の遠征から急ぎ帰還したリエードは、凄惨な光景を目の当たりにしつつ王や側近と出会った。そして彼らと騎士が敵を打倒し、テロが収束していく様を見届けた。

 その後、彼は行方不明となった同居人を探しに復興中の市場を奔走する。だが手がかりも何も得られることなく、ある日、人込みに紛れるジーダを見て、彼女だと勘違いする。よくよく見れば体格も角の大きさも異なる彼に謝りつつも、彼女のことを知る二人と度々、こうして交流をしていたのだった。

 やがて全員の皿が空になった頃、どこからか、わっと歓声が上がる。

 次の言葉を紡ごうと開いた口をそのままに、その方向を見やる。道をまっすぐ行ったところにある広場にたむろする人々が歓声を上げているばかりで、どのような見世物が行われているかなど確認できるはずもない。

 バタバタと早足になる通行人のように焦ることもせず、確かめることを諦めた彼らは途絶えてしまった轍を再び刻み始める。

 リエードの遺産好きについて、ともすれば、二人の故郷について。売りそびれた遺産の取引をもちかけ、あまりの錆具合に興奮した様子で軽く調べる。図書館の話から、彼女が故郷を捨てた話、彼女の娘を名乗る紅竜が現れ、自身とちょっとした喧嘩をした話。

 ふと、アリアは懐かしむような表情の紅竜を見て口にする。

「ねぇ、ジーダ。そういえば、ラクリにふられたんだっけ」

 えぇ、と驚いたような声を上げるリエードに、紅は首を横に振る。昔の話だ。その赤い尻尾がぴくりと揺れていた。

「たしかに好意は寄せていた。思い切ってみたが……俺も、やり方がまずかった」

 どこか寂しそうな表情に、青も視線をそらしてテーブルの上を見つめる。

「あぁ、あぁ、今のなし! 今の話はなし! 折角のお祭りなんだから、どこか行きましょ!」

 気まずい沈黙に耐えかねたか、突然立ち上がりながらバンバンとテーブルを叩くアリア。まったくだな、と肩をすくめ立ち上がるジーダは、リエードの脇を通りがてら帽子をポンと叩く。わずかに遅れて顔を上げた彼は、彼女と同じような牙を垣間見せ微笑む新しい友たちを、待ってよ、と追いかけるのであった。

 勘定を済ませ、いまだ者の多い広場とは逆方向へ歩き出す。どんどんまばらになっていく通りの真ん中を進むこととなる。

 先ほど食事を終えたにも関わらず、屋台から立ち上る煙は鼻腔をくすぐり、食欲を促す。敗北を喫しふらりと立ち寄る通行人とは違い、屈強な紅竜は爪で軽く腹を撫でるだけで、護衛対象である人間にのっしのっしとついていく。その隣の青竜は者々の邪魔にならぬよう、どこか窮屈そうに歩く。

 当てもない散歩の途中、ふと足を止めるアリア。ふと視界に入った、ぼんやりと熱を放つ光に誘われるようにしてふらふらと屋台の一つに立ち寄った。

 橙の明かりに照らされているのは陳列されたアクセサリ。

 人混みが途切れたことを確認し、遅れて追いついたジーダは欲しいのか、と覗き込みながら興味なさげに口にする。ううん、と人間は小さく首を振るものの、彼女が身に着けるには大きすぎるものを手に取る。ジャラジャラと小さな音が、店主との間を行き来した。

 二人の姿を遠目に見つめながら、道を塞いでしまわぬよう、身を細くして立ち止まってしまったリエード。こうしている合間にもあたりを満たす闇に鼻を利かせ、きょろきょろと目を見渡してみるものの、はぁと息をつくばかりであった。

 いいもの見つけたよ、と戻ってきていた二人に首を傾げる青竜。両手を後ろに回してどこか足取り軽いアリアと、相も変わらずゆっくりとしているジーダ。

「うん。故郷のお土産には足りないかなぁ」

 言い終わるか否か、バッと隠していた手を露わにすると、細い指に摘ままれ揺れる、二重の円を描くアクセサリ。

 鮮やかな赤と、深い青。その二つが交互に並べられ、紐で繋げられた、おそらくブレスレットが二つ。目を丸くするしかない彼は、君に似合うんじゃない、と身に着けることを勧める。だがアリアは笑みを深くして、また二歩進む。

 一挙手一投足を見守っていた紅竜が喉を鳴らし、青竜が一歩下がろうとする。だがすばやく伸ばされた細腕は太い首にかかっている鞄をぐいと手繰り寄せ、ブレスレットをねじ込んだ。中にあった硬貨袋と荷物がぶつかり、小さな音が鳴る。

 続けて、パシン。

「楽しかったよ。えっと、うん。私たちは……宿に、帰るから。また明日、会おうね」

 きょとんとするリエードの両頬が、華奢な手の平で叩かれたのだ。言葉を失い固まっている彼からするりと離れたかと思えば、いつの間にか先に踵を返したジーダを追いかけるようにして、パタパタと人込みの中に消えてしまう。もごもごと言葉が形を成す前に、また青年はまた独りとなってしまった。

 祭だというのに、広場と比べ人のいない世界。在庫の少ない屋台、明かりの消えていく遺産に、にこにこと家路につこうとしている者。だんだんと暗く、広がっている世界からは冷たい風が駆け上がってくる。

 暑いな。

 まばらな灯りに照らされる竜の青年呟いたは、ゆっくりと闇へと続く道を選んだ。


 市場の中でも、最も広い公園。しかし夜とも、ましてや祭りの日ともなれば、者影はないに等しくなる。太い通りや広場から離れた位置にあることも相まって、走り回れるほど広い空間は不気味に照らされ、屋台もなく、祭の熱気から逃れるようにしてここに来たのだろう者がちらほらと影を落とすばかりだ。

 サンバイザを被り、鞄を首にかける女の青竜が、のしのしと現れた。彼女は公園に入るなり、闇を見通すかのようにきょろきょろと細めた目を動かす。

 まず目に留まるのは、一番近くにいた四脚類のカップルが、彼女の隣を素知らぬ顔で通過していく姿。遠ざかっていく、ふらりふらりと今にも倒れてしまいそうな人間。彼に目を細めた青は尾を振りながら、広い広い空間に立ち入る。

 ただ広いだけの、砂の敷き詰められた空間。舗装された道に囲まれた、浅い砂のプールには誰もいない。代わりに、そこからならば見える影があった。竜の入った場所とは正反対の位置に設置されているベンチに座っている、ぼんやりとしか照らされていない、二人の立脚類。

 一方は人間、もう一方は、ボサボサとした輪郭から、獣だと思われる。休憩しているらしい彼らは何か言葉を交わした後、まずは人間が大儀そうに立ち上がる。もう一方は肩を借りる形で立ち上がる。少し立ち止まっていた彼らはふらふらと歩き出し、姿は見えなくなった。

「やっぱり、死んじゃったのかな……」

 ぐぐと砂を握りしめる青年はぽつりと呟くと、顔を上げた先にあったもう一つの出入り口へと歩き出す。急な坂道を曲がりくねって、住宅街へ。いくら歩いても、宴の中心から離れていくばかりで、光源はまばらとなり、誰ともすれ違うこともない。

 右前の爪が石畳をつかみ、左手が持ち上がる。遅れて右後ろが上がれば、つられて胴と尻尾がくねくねと曲がる。のし、のし、のしと生来身についている歩き方。

 だが、頭部だけは道の向こう側を真直ぐと見据える。サンバイザから垂れる紐も遊ばせて、ただ歩む。


「……から人がいなくなって、既にす、うかげ、つが経過した」

 遠くで揺れる規則的な光など気にも留めず、読者は消え入りそうな声で呟いた。

「魔法の実験が盛ん行われていたのが幸いして、魔力濃度が急速に高まっていることをいち早くけん、ちすることができたらしい」

 サラサラと紙と紙がこすれる音。

「貴重な研究環境ではあるが、うかつに立ち入ることは許されない。メモ程度に記しておくと、濃度の高い魔力はせい、たいに悪影響を、及ぼすためだ」

 くすんだ、短い爪がページを繰る。

「魔力はどこにでもあるものだが、空気中にある程度ならば問題はない。魔法として色々な現象を再現できる素晴らしいものだ。だがその実体はひぶっし、つであり、げん、しのように不安定なものである」

 ぱりぱりに乾いてしまっている黄色い紙を壊してしまわぬよう、慎重に、丁寧に。

「魔法は、こうみ、つどの魔力が、安定状態を保ち、初めて形を再現できる。魔法生物も、その研究せい、かで、あ、る」

 読み上げる度、鋭い牙と舌が覗く。

「では、現象の再現ができるほどの魔力の塊が、不安定な状態、即ち空気中にあると、どうなるのか」

 橙の鱗が、ぺろりと舐めあげられた。

「不思議なことに、安定状態を、不安定な状態に分解し、てしまうのである」

 紅の瞳が開閉する。

「具体的に言えば、魔法ならば魔力としてその形を失い、生物ならばその肉体をげんしれべ、るにまで分解してしまう」

 げんし。小さな呟きは闇に飲まれるのみ。

「また、植物由来のものや金属などは、分解されることは、ない、という研究報告がある。ひが、しで発生したすぽ、とで行われたらしい」

 そのページの最後の一行に、目を細めた。

「この現象の関係性は、解明されていない。せめて、濃度を下げる方法が分かれば」

 そこから先は見られることなく、本は閉じられた。手のひらサイズの、装飾の朽ちたそれを、表、裏、背表紙と冷たく眺めたかと思うと、読者はぶつぶつと呟く。言い終えた直後、ボッと小さな火が宙に現れた。ゆら、ゆら、ゆら。音もなく、吹けば消えてしまうだろうそれは、幸いにも無風の夜に生き続けた。

 わずかに照らされた彼女の姿は紅竜と呼ばれている、橙と黄の鱗に覆われた、立脚類の竜だ。血の滲む、ぼろの紫の衣に腕を通し、世界樹の根っこを跨ぐようにして座っていた。

 音も立てぬ火に、朽ちかけた本が近づいた。

 本に触れた火の形がゆがむ。ともすれば、黄色く変色した紙は熱に敗れ、茶色く、黒く変色していく。焦げ臭い香りが漂い始めても、冷たい視線の先にある本が下げられることはない。

 燃える。

 時間と共に物言わず、人知れず形を失っていく朽ちた紙束。装飾も、中身も、跡形もなく、彼女の手のひらの上で、尽きていく。鱗に火が舐められようとも、熱がる様子もなくゆらめく火をただ、紅の瞳で見つめていた。

 弱い風が吹けば、再び闇があたりを覆い隠す。彼女はまた、眼下に広がる市場をぼんやりと眺めていた。

「なんで、帰ってこれたんだろ。こんなとこに」

 夜を眺め、無気力に、

「魔法生物、か」

 ぼやく。

 市場を照らす無機質な明かりもまばらになり、夜の帳が下ろされようとしていた。紅竜はただ消えていく景色を望む。半分だけ閉じた目を瞬きするばかりで、幽霊のように、いたずらに時間を過ごしている。

 ガリ。

 停滞していた暗闇に音が鳴った。下方から聞こえ始めたそれは、断続的に、次第に、大きくなる。脱力したままの紅竜は一切の声も出さず、視線のみを動かすものの、暗いばかりでその正体を視認するには至らない。

「誰か、いますか?」

 ふたたび静寂がやってきたかと思えば、何者かの問いかけ。

「こんなところで焚火なんてしたら、捕まっちゃうよ?」

 パタパタ。続く小さな音にも彼女は応じない。

「僕は、捕まえたりしないけど……騎士や王様は、どうだろうなぁ。気づかれる前に逃げたほうがいいよ」

 真夜中だというのに、照らすような明るい声。パタパタと打ち付けるような音も続く。

「うるさいわね……」

 小さな呻りと共に、歯ぎしり。眠りを妨げられた時のような、不機嫌のもの。

「ほっといて。朝になればどっちも気づかないでしょ」

 拗ねた子供のような、無気力に支配されたような物言いに、彼は空を見上げて叫ぶ。もう一度、もう一度。呼吸を整えようと間を置いた後、

「アンタ、か。帰りなさいよ。一人にして」

 と投げやりにも聞こえる答え。

「なんだよ! どんだけ探したと思ってるんだよ!」

 気迫に欠ける、だが苛立ちをにじませる青竜が大きく口を開き、天を仰ぎ喉を震わせる。

「遠征から帰ってきて、王様と側近の人から世界樹に向かったって聞いて」

 声はすれど、闇ばかりのその世界にわめき散らす。

「樹海を探して、ギルもシェーシャも、テレアたちも、誰に聞いても知らない知らないってばっかりで、どうしようもなくて……」

 バシン、バシン。長い尾が激しく足場を打つ。

「アリアもジーダも、君を探してるのに。こんなとこで、何してるんだよ……!」

 対して、降ってくる言葉は淡々としていて、

「そりゃ、そうよ。少し前に、気が付いたらここにいたからね」

 起伏もなく事実を述べ続けた。

「じゃあそんなとこにいないで、さっさと降りて来い! 帰って来いよ!」

 咆哮にも近い、びりびりと震える空気に乗せられた言葉は彼女に届いたかは分からない。天を覆い隠す世界樹に隠れたままの彼女はゆっくりと息を吸って、吐き出した。次の呼吸が始まるが早いか、青竜は動き出す。

 ガリ、ガタ、ガリ、ガリガリガリ。

 しばらく続いた、爪をひっかける音。止む頃に、紅竜の視界に青竜が現れた。彼女の姿を認めた彼は一瞬だけ目を丸くして、よいしょと重い後ろ足を持ち上げた。

「帰ろう。みんな、待ってるから」

 根の一つに掴まり、這いあがってきたらしい。だらりと尻尾を垂らしたまま、サンバイザの取れた姿をさらしながら、ぼろぼろの鞄をつけて、金の虹彩が鋭く睨みつける。

 根を跨ぎ、座っていた紅竜。射貫くような鋭い目にも動じず、まるで絵画を眺めるかのようにぼんやりと彼を見つめる。尻尾をだらりと脇に垂らし、背筋は曲がっている。右袖のない、血の滲んだぼろぼろの衣。半ばで割れた爪、薄汚れた鱗。

 一歩、近づこうとした彼に、彼女は喉を震わせる。

「私たちは、知らない誰かに作られたものなんだって言ったら、どうする?」

 立ち上がろうともしない彼女が近づく。

「人類っていうのが、戦争の兵士に使ったりしてたんだって」

 また一歩。決して視線を逸らさない。

「じゃあ、母も、父も、アレンも、ジーダも、アリア、ヴィーク、ギル、シャーシャ、テレアも、テラーも、あんたも、私も、みんな、全部、全部、作られたものなのかって思ったら……!」

 じわりと紅の差した目が、ようやくぶつかった。

「誰かに、操られているかもしれないし、作った誰かが、いて、この世界なんてのも、全部、全部、誰かが用意したもので……そんなの、嫌で、嫌で……!」

 腕を伸ばせば届いてしまう距離で、きらりと紅色が輝く。

「でも、ばかみたいだって、割り切ることなんて、できなくて……」

 もう一歩。黙する彼の肩とわめく彼女の胸が触れる。

 震えと牙のぶつかる音を聞き入り、ゆっくりと息を吸い込む。

「じゃあ、僕が、君を作ったんだって言えば、ラクリはどうするの。どうしたいんだよ」

 低く素っ気なさすら感じられる一言と共に、強張っていた体が緩む。すぐそばにいる彼から視線を逸らし、また夜を映す。

 凪ぐ風に、木の湿っぽい匂い。星が照らす世界は闇に埋もれ、されどもただの陰影が美しく彩る。

「この世界は、僕が用意したんだ。なんでかっていったら……君たちが遺産の、本来の使い道を見つけ出せるのか、気になったからだよ」

 まるで棒読みの言葉に、ため息が漏れる。細い片腕が持ち上がると、そっと太い首筋に回される。爪が青の鱗を撫でると、びくりと竜の体が動いた。

「……もういい……私がばかだった……リエード」

 互いの呼吸を感じて、本当に。うん、大丈夫。言葉を交わせば、下がろうとする青。だが橙の爪が彼の急所を放さない。痛みに口を開きかけたものの、目を閉じたまま片腕を回し、よりかかる形となっている彼女に、グルグルと喉を鳴らすしかない。

 落ち着いている寝息にも近い呼吸に、彼もまた目を閉じる。

 ぬるい風を運ぶ夜は、そのまま歩んでいく。


 もういいだろ、とリエードが尻尾で抗議する。はっとしたラクリは、ありがとう、と腕を下ろし、にやりと微笑む。解放された彼はやれやれと言わんばかりの表情で一歩下がり、向かい合う。

「なんか、ものすごく懐かしくて。どうしてか、分からないけれど」

 僕だってそうさ。絶え間なくしなる青の尾は根をはたき続ける。

「あれから結構経ったんだよ? テロはたったの一日で納まったけれど、復興もまだ途中。今日に限っては、王様の提案でお祭りをすることになってさ」

 あきれているらしい彼に、気楽なものね、と同意する。

「だよねぇ。死傷者の確認とかも把握しきれてないのに……遺族への補償とかも含めて、それどころじゃないと思うけれどねぇ」

 肩をすくめる仕草をするリエード。微笑むラクリはどうでもいいじゃない。ここで一瞬だけ会話が途絶えるも、先に動いたのはラクリだ。垂らしていた足を持ち上げ、よいしょと立ち上がる。

「さ、帰りましょうか、リエード。小屋は大丈夫、よね?」

 もちろん。元気よく頷いた彼ものそりと立ち上がる。降りようか、と暗闇を見渡すものの、どこも根っこが崖のようにそり立っていた。道を確認するために覗き込むものの、眉間にしわを寄せる。

「……木登り、いえ、木滑り……違うわね。いつぶりかしら。運動音痴だったから、気を付けないと」

 そもそも、ラクリのいた根は高すぎる舞台のような形となっていた。手先の器用な立脚類ならいざ知らず、飛び降りるにも覚悟を要し、体勢を誤れば命に危険が及ぶことは想像に難くない。

「後先考えずここまで上がってきちゃったけど、失敗だったかなぁ」

 隣で深淵を覗く、げんなりとしている同居人。まぁどうにかなるわよ、とあたりを見渡す紅は暗闇に何を見つけたわけでもなく小さく肩をすくめた。

 ぬるく湿った風が吹く。心地よさの欠片もない息吹に、青が声を上げる。反対側の下方を眺めていた彼女は特に反応もせず、悩むように呻っていたが、パタパタと近寄る彼に尻尾をつつかれる。

 何よ、と振り返る彼女を前に、首にかかる鞄をゴソゴソと漁り始める。少しして、これといったことを言うでもない橙に差し出されたのは、シャラシャラと鳴る暗い色のアクセサリである。

 少しの無言の後に、なにこれ。受け取りつつ尋ねられ、彼はもう一つ、同じものを引っ張り出す。

「……なんのことかしらね」

 彼の取り出したものと、うり二つの、見る限り同じアクセサリ。同じものを用意して、うち片方を誰かに渡す。それの意味することは数えるくらいしか存在しない。

「……ほら、あんたのよこしなさい。どこにつけるの?」

 半ば強引に奪い取られたそれは、言いよどむ彼の首に下がる鞄の留め具が外され、革紐に通された。彼女の手にあったもう一方は、彼女の左腕に通された。人間には大きすぎる革紐と紅竜の腕にはぴったりなブレスレットあった。

だが特に見入ることもなく、彼女は彼の隣を素通りする。

「僕は、君と会えて、よかったと、思う」

 ふいに出た言葉が歩みを止める。

「魔法のことなんて分からないし、君がずっと、どこにいて、何を怖がっていたかなんて、分からない。けど……」

 続かぬ言葉に、数瞬遅れで、

「私もね、遺産のよさなんて分からない。あんたが、急にどうしてこんなことを思い始めたのかも、知らないわ」

 答えが返る。

「これからも、よろしくね」

 互いの表情が見えない中で、

「こちらこそ」

 小さく言葉を交わすのだった。

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