底知れぬ敵に仇刃を

※暴力・殺害表現あり


 ダンジョン洞を進む獣の立脚類の女性は、腕の半分くらいの長さはあるナイフを握りながらつぶやいた。

 リーア。

 寒さに震えるような声。それでもなお彼女は進む。

 鼻先の短い、犬と呼ばれている獣。青い目で闇の向こう側を見通そうと睨んでいる。汚れのこびりついたごわごわとした毛皮や、申し訳程度に体を隠している外套だったろうぼろ布からは、いかにも貧困街の者であることがわかる。

 この来客がこのゲームに参加し始めてから、その骨の浮かぶ華奢な脚に痛みが現れる程度の時間が経過している。たまにふらつくことはあれど、そのたびに口にする。

 リーア。

 何度でも、彼女は前方の闇を見据えた。立ち止まることがあっても、膝をついても、その手にあるものを手放そうとはしない。しかし、行けども、行けども道が続くばかりだ。


 テラー、リドルと別れたテレアは気の赴くままに、形のわからぬ住居を歩いていた。

 作戦会議の結果、それぞれ別々の道へと行くことにしたのだが、時折、

「話し相手がおらんと静かやなぁ」

と、どこか違和感のある歩き方をしながら、繰り返しぼやいていた。

 テレアの選んだ道は、ひたすらに一本道だった。急ごしらえで作り出したために、光源を用意できなかった洞窟。おびえることもなければ、ためらうこともなくすたすたと足を進めていく。

 奥へ。さらに奥へ。いずこへと通じている分からぬ闇の向こうへ。

 やがて、テレアが遭遇したのは黒犬の連れていた人間と竜だ。二人仲良く横に並んでいる。コツコツという石どうしがぶつかるような忍んでいないテレアの足音に気が付き、待ち構えていたらしい。

「あんたらか。あの黒犬の傭兵っぽいけど、どうなん? 獅子のやつが壁作れゆうてたからには、市場でえらいこと起きてるんと違うん? こんなところで油売っていいんか」

 まるで他人事かのような物言いに、答えるのは剣を抜いた禿頭の男だ。

「ちょうど、こっちに到着したときにテロが起きたんでね。それに、ヴィークさんのお願いは最優先でこなすことにしてるんだ」

 にこりとも笑わない固い表情に、ふぅんと鼻を鳴らすテレアは、竜を顎でさしながら尋ねる。

「あんたはどうなん? あの黒犬のこと、好きなんか?」

 ちろりと細長い舌を外気にさらした彼は数回、握りこぶしを作りながら、ぶん、ぶんと尻尾を激しく揺らす。

「好き……? ちがう。尊敬、してる」

 テレアが数回、うなずきながら拍手するかのように手をたたいた。コツコツと石の音が鳴れば、真剣なまなざしの二人組が構えた。

「じゃあ、やろか」

 お互いの姿が見えるかどうかの距離で、無機質な顔に笑みが浮かぶ。

 彼女の宣告が終わるか終わらないかのタイミングで、先に駆けだしたのは人間だ。わずかに遅れて、竜が前傾姿勢のまま大股で並走し始め、同時に距離を詰める。


 彼女がゲームを始めてからようやく出会ったのは、竜だった。耳をはたらかせていると響いてきた、固いもの同士をぶつけ合うような音。それの聞こえる方向へと歩みを進めている途中、ザザザと地面を滑ってきた彼は、ヴィークがここへと出発する際に連れてきた竜の男だった。

 半開きの口から舌を出しながら、仰向けのままぐったりとして動かない彼から離れるように、一歩下がる。音のやまない暗闇のほうをじっと見つめ、獣の立脚類はごくりと唾をのみこみ、また踏み出した。

 闇から現れたのは、見覚えある大きな背中だった。

 裏通りの店にて、ヴィークが一番初めに呼びつけた傭兵らしい人間の男だ。得物を乱暴に振るい続けているものの、勢いを緩めずに攻撃を加えている。

 もう二歩進むと、剣をその身で平然と受け止めている憎きドラゴンが現れた。立脚類の姿をしている彼女は、首、側頭部、二の腕と、肉体のどこに刃を叩き込まれようと防ぐこともせず、ゆっくりと剣を目で追うばかりだ。斬撃のたびに刃こぼれした欠片が宙をきらきらと舞う。

 やがて、叫び声と共に大きく振るわれた斬撃は、緩慢な動作により持ち上げられた腕によって受け止められた。続けてパキンと心地よささえも感じる音が、剣が折れたことを示した。

 相手を睨みつけた人間に対し、テレアは眉一つ動かさず、瞳を揺らさずじっと彼を見つめた。

 カンと折れた刃が地面にぶつかるとほぼ同時にゴゴゴと洞窟が鳴動する。すると、テレアの脇にあった何もない壁から岩がせり出し、勢いよく男に襲い掛かった。ギェと短い悲鳴が獣の隣を通り過ぎる。思わず女性は振り返ったが、すでに傭兵は暗闇の中へと追い出されてしまっていた。

「そういや、名前、聞いとらんかったな」

 不意の質問に勢いよく振り返ったみすぼらしい獣は、テレアと向かい合う形となった。さらさらと砂のように崩れていく岩柱を挟んで、牙を剥いて睨む。

「そんくらい、教えてくれたってええやろ? あの子をリーアリーアゆうて、名乗らずに誘拐でもするつもりなんか?」

 砂埃がもうもうと立ち込める中、先ほどまで刃をその身で受け止めていたことを思わせない笑みは、冷たく彼女を見下ろした。

「ガキにとっては、たまらんやろな。知らんやつに抱きかかえられて、知らん名前でひたすら呼ばれる。ガキにとって、あんたのとこに帰るんは幸せなんか」

 大きく揺れる手と瞳を見つめながら、口だけを動かすドラゴンは強く続ける。

「少なくともあんたは、あんたの幸せだけを欲しがってるように見えるよ。そこにはガキがおるけど、中には、おらん。どんだけリーアリーア、言うててもな」

 ハァと大きく空気を吸い込む音が聞こえた後、岩さえも貫かんほどの金切声が発せられた。瞳をぎらつかせながら、肩を上下させている獣。黙って、と口にしたのだと、洞窟の輪唱で初めて気付けるほどの声量だった。

「アートナ。わたしは、アートナ。リーアを……あの子を返して」

 毛皮につうと流れる二筋の液体が目から流れ出て、ぼろの外套にしみをつくる。一つ頷いたテレアは名を呼んだ。

「アートナ、か。ようある名前なんかな……話が長うなった。やろうや。それであんたが、満足するんなら」

 二人の視線が、初めてぶつかった。

 アートナは少しばかり胸を張り、ナイフを握りしめる。垂れてくる外套を払いのけながら再び、ドラゴンをにらみつけた。

 軽く首の筋を伸ばすような仕草をしたテレアは、拳を作った右腕を目の前にかかげた。特に何が起こるでもなく、わずかに笑みを浮かべながら静止した。

先手を取ったのはアートナだ。

 のろのろとしていながらも一歩ずつ確実に駆けた獣は、微動だにしないドラゴンの右腕めがけて、鋭さのない軌跡を描いてナイフの刃を叩きつける。ガリッと音を立ててぶつかり合った。直後、目を見開いた岩は左腕を伸ばして、細い体を跳ね飛ばす。細身の体はふんばろうとするものの、バランスを崩して尻もちをついた。

 取りこぼしたナイフを素早く拾い、見下ろしてくる無機質な視線をにらみつつ、立ち上がる。ところが視線を急にそらしたアートナは、外套の裾に刃を突き立てて切り裂き始めた。ドラゴンは何をするでもなく、ビリビリ音を立てている獣のすることを見守っていたが、獣の女性が左腕を振りかぶり、握ったぼろきれを仇敵めがけて投げつけた。

 ぶわと広がる布地に視界を奪われたドラゴンは無造作にそれを掴み、脇へと捨てる。開けた視界では、すでに姿勢を低くした獣が迫っていた。

 ドッと鈍い音を立てて、長い刃が岩の肉体に深く突き刺さる。

 両肩を押され、再び獣が押し倒されて後方へと倒れる。先ほどとは異なり、尻をしたたか打ちつけた彼女は顔をしかめながら視線を上げていくと、胸に深々とナイフが刺さったままドラゴンは棒立ちしていた。

 同時に、先ほどまで静けさをたたえていたドラゴンの表情に、曇りが生まれていた。

「あんた、どこでこれ手に入れたん? 遺産、とは、ちゃう。魔法の類か」

 柄を掴み、ナイフを引き抜く。勢いよく抜けたそれは彼女の手から零れ落ち、足元に転がる。その右腕には、のこぎりを入れたような切れ込みがあった。アートナが斬撃を入れた場所だ。

 サラサラと、テレアの肉体から砂が零れ落ちた。胸のあたりからとめどなく、泉の水のように現れるそれはナイフを隠していく。

「黒犬が、持って行けって……渡された」

 立ち上がろうともせずに唖然としている獣は、傷口を抑えようともしないドラゴンが形を失っていく様を見入っていた。

「けったいなもん渡されたなあんたぁ。気をつけよ。傷口から中身出てきて死ぬで」

 まるで他人事のような物言い。

 流れ出ていた砂が止まり、普通の立脚類でいうと心臓のあたりにぽっかりと穴が開いているにも関わらず、静かに佇むテレアは座り込んだままのアートナを見つめるばかりだ。

「まだ、終わっとらんやろ? きぃや。リーアが待っとるで?」

 挑発するかのように声を張って洞窟内に響き渡らせると、テレアはかがんで砂山に左手を突っ込み、無造作にナイフを取り出した。きめ細かな砂が舞い上がると同時に、刃を握ってしまった手が崩れていくこともいとわずに、アートナの足元に転がるよう、投げた。

 刀身に付着した細かな砂粒をまき散らしながら戻ってきた武器が、震える手に再び収まった。よろよろと立ち上がった獣は、震える体で、構えた。

 三度、アートナは仕掛けた。声を張り上げながら大股で近づくと、そのままの勢いでナイフを真一文字に切り結ぶ。テレアは再び右腕を盾に防御を試みるが、刃は今一度目、傷口めがけて振るわれていた。

 岩の腕が両断され、続けて首を刎ねる。

 傷口から砂があふれて、立脚類の竜を模した肉体が均衡を失い、ゆっくりと倒れた。アートナをまっすぐ見つめていた頭部と分離し、物言わぬ、動かぬものとなる。

 ドラゴンだったものを見つめた獣は、震えの止まらぬまま茫然とそれを見下ろした。来た道を一度振り返っても、先に倒れた傭兵たちが起きた気配はない。ナイフを持たぬ左手でこぶしを作り、胸に添える。

 リーア。

 穴の向こうに続く闇。どこまで続くかわからぬ景色に、アートナはまた一歩踏み出すのだった。


 いつまで続くのだろうと思われた洞窟は、唐突に途切れた。大きな目を丸くしながら歩き続けていたアートナの前には、岩の壁面に似つかわしくない、ノブのついた扉が静かに佇んでいた。

 行く道はそこにはなく、突き当りにぽつんとある、市場の中でも見かけそうなものだ。

 獣特有の短い指でノブが回そうと、右へ左へ捻る。しかし全く動くことはなく熱を生み出すのみだ。数度の瞬きの後、引いてみると、何かに引っかかってわずかに扉が動くだけだ。

 つづけて腕の力だけで押してみるものの、彼女が通るほどの道はできずに閉じてしまう。さらに全身を使って扉を押し込むと、ようやく人一人が通れそうな隙間が開通する。小さくうなずき、再び踏み出した。

 アートナは目の前に広がる空間を見渡す。

 どこを見ても岩ばかりであることには変わりないが、人間一人には十分すぎるくらいの広さのある部屋。隅には幼児向けの遊び道具や衣服などが乱雑に積み上げられている。その横には数枚の紙や筆。何に使うのかはわからない缶も並べられている。

 やがて視線は、台のような岩の上にある布団へと向く。わずかに上下しているそこへと、踏み出した。形を成さない音を発しながら涙を溜め、一歩ずつ、歩む。

 静かな足音であったものの、異変に気が付いたらしい部屋の主はむくりと起き上がる。被っていた布団がずり落ち、きょとんと眼を丸くした幼い顔がアートナの方へと向いた。

 親の手から離れ、自ら進んで遊びまわろうとするくらいの人間の子供だ。アートナの毛並みに似た髪。くりくりとした赤みがかる茶の瞳。獣と人間の夫婦の手から離れてから大した年月が経っていないにもかかわらず、彼はもう赤子ではなく、あどけない少女へと成長していた。

 誰、と閉じようとする目をこすりながら彼は口にした。まだ本調子ではないらしい小さな声はアートナの一歩を止めるには十分だった。

「リー、ア……お母さんよ。帰りましょう?」

 ぼろぼろの外套の内側から持ち上がる細い両腕が近づく。

「あなたは私と、夫の子供なの。ここに棲んでいるドラゴンがあなたを連れ去ったの」

 じっとアートナの姿を見つめるリーア。

「あなたはリーア。あいつに何を言われたかは知らないけれど、ここはあなたのお家じゃないの」

 獣が一歩、距離を縮めた。リーアはじっと瞳を見つめる。

「なかなか、子供ができなくてね? ようやく産まれたあなたは、少しすると何も口にしようとしなくなって……」

 ぼろぼろの牙を覗かせつつ、やさしく語り掛ける。

「目に見えて弱ってた。医者になんか診せられないから、診るだけならタダでいいっていう旅人にお願いしても、ダメだった。時間ばっかりが過ぎて行って……」

 拒否することも、逃げることもしないリーアの頬に、アートナが触れる。

「よかった。帰ろう? 一緒に。お父さんは、もういないけれど」

 そして、背中に手をまわし抱きしめる。

「つらい思いを、させてしまうかもしれないけれど……」

 小さな一言など聞こえていないかのように、リーアもまたよろよろと手を伸ばして、遠慮がちに力を込める。

「リーア。これからは、一緒だからね」

 テルの個室から歩き出した異種族の親子は、ダンジョン洞の出口を目指して歩き出した。


 こっちでいいはず、と繰り返し呟きながらアートナは来た道を歩いている。ところが彼女の協力者たちの姿は見当たらず、ただ暗闇だけが、入口とは異なるどこかへと誘おうとしているかのようである。

 わが子の手前、弱音を吐くこともせず毅然と手を引きながら歩く獣は、隠しきれていない疲労を案ずるリーアに声を掛けられる。

「休憩しなくても大丈夫?」

 うん、と笑顔を向け、また闇に臨む。

 ほどなくして、闇に浮かぶ立脚類の姿を見つけた。アートナと同じような外見をした獣で、この洞窟の入り口で出会った者だ。どこか上品な雰囲気を思わせる真っ黒な服を着ている狐。

 多少の汚れの見える彼は、テラー、とドラゴンに呼ばれていた。

「あなたは、なんなんですか? テルを助けてと言えば、奪ったと言う。しまいには、テレアを殺し、テルをさらう」

 恨みのはらんだ言葉を放つ彼の周囲にはゆらゆらと揺らめく黒いもやのようなものがあり、明確な敵意をもつ狐の目はアートナを射抜かんとする。自身の後ろに隠れるよう、彼女は立ちふさがる。

「リーア、聞いちゃ、ダメ。あいつらに、だまされちゃダメ」

 ピクリと動いた皺だらけの眉間。黙るのはおまえだ、とテラーが吐き捨てる。

「テレアは、助ける代わりにテルをここに置くことを求めた。それをおまえたちは飲んだ。そしてテルは生きた」

 ぶつぶつ。

「それ以上のことを、おまえたちは求めたんだ!」

  怒声とともにテラーが地面を蹴った。一瞬で縮まった二人の距離をさらに詰めようと、アートナに向けて手を伸ばす。だが只人である彼女に一瞬の対応を求めるのは無理がある。

 細い首を掴んだ腕は勢いのまま押し倒す。

 不意の衝撃にリーアとつないでいた手を放し、わが子を背に倒れこむ。

 母さん、と下敷きになった少女が目を見開いて叫ぶ頃には、一組の手が命を摘み取ろうとしていた。

「おまえはこれまで会った誰よりも、わがままだ!」

 獣特有の細く、鋭い爪が食い込んだ。

「テルを連れて行って、どうする」

 見下ろす瞳が溢れんばかりの憎しみを持って力を生み出す。

「満足に食べられない環境に置いて、飢え死にさせるのか!」

 あまり汚れていない牙が、ぐぐと持ち上がった口端からのぞく。

「商人から金を借りて、破滅したいのか!」

 唾を飛ばしながら、さらに力を込めるテラー。抵抗を試みるアートナの細い指が金色の毛皮を掴むが、びくともしない。

「世界樹の王は、おまえを許さないだろう。騎士がおまえを見つけ出し、罰を与える」

 空気を求めあえぐ獣に、血を思わせる赤い視線が冷たく降り注ぐ。鼻先が触れそうなほど近いにも関わらず、激しく息を巻くわけでもなく、狐は静かに息を吸って、吐き、淡々と指に圧をかけていく。

「テル、部屋に戻るといい。後で、ゆっくり話そうじゃないか」

 下敷きになって茫然としているリーアを、黒いもやが尾のようにしなり、服を引っ張り丁寧に移動させる。わずかに遅れて地面に叩きつけられたアートナは、一瞬だけ緩んだ手を乱暴に剥がし反撃に出る。

 わずかに目を見開いたアートナは右手での抵抗を緩めずに左手を懐に忍ばせ、大きく払うようにして薙ぐ。びりびりと外套を裂きながら現れたナイフはテラーが身を引くよりも早く、胸元を大きく裂いた。

 満月を思わせる真ん丸な赤が二つ、アートナの上には浮かんでいて、震えながらそれは落ちてくる。

 覆いかぶさるように倒れたテラーはぴくりとも動かなくなる。揺らめいていた黒いもやも消え去り、アートナが動かなくなった彼をどかして、起き上がる。すぐそこで腰を抜かしていたらしいテルは、うつぶせのテラーをじっと見つめているが、差し伸べられた手を取って立ち上がった。

「帰りましょう、リーア。頑張るから……」

 弱弱しく笑う母親の姿を見ながら、こくりと頷く少女たちはダンジョン洞を道なりに進んでいく。誰とも出会うこともなく、脱出が叶うのは、間もなくのことである。

 いくつもの視線が、背後に注がれていることにも気づかずに。

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