尋ね人は微笑む
祖母はこう言った。あたしは、子供を捨てたことがある。
突き抜けるような青に浮かぶ、ちぎれた雲遠くを見つめていた時だった。遊び疲れ、うずめていた鼻先を上げて、はてなと首を傾げて見せると、肉の落ちた頬を揺らしながら、穏やかに微笑んでいただろう。
ただ当時、子供という単語に耳を疑ったものだ。
自分も捨てられるのか。ぞわりと冷たい風が背中を撫でたような気がした。
「不安で不安で、仕方なくてね。育てられるのか、どうしても、怖かったんだよ」
なんでだろうね、と笑みを深くした祖母は、自分よりも倍以上はある体で抱きしめてくれた。
「大丈夫。あんたは大丈夫だよ。あんたは、大丈夫だ」
一生、穏やかであった祖母は、それきり子供のことは口にしなくなった。
またあるとき、祖父が椅子に揺られながら教えてくれたことがある。
あいつが子供を捨てたことがある、と言ってたろう。ふかふかのソファでうたたねしていたときだ。
「どう見ても、ぼくらの子供じゃなかった。金のような体毛に、短い鼻先。ようやく産まれた子だっていうのに、おまえのような美しい黒ではなかったんだ」
あいつは今でも、その子供のことを気にしている。そう付け加えた祖父も一言だけ口にしてから、それきり話さなくなった。
ダンジョン洞の、比較的地上付近の開けた空間にいたヴィークたちは大地の揺れを感じ、雑談をピタリと止めた。ゴゴゴゴ、と今にも天井が落ちてきそうな地響きに、砂がぱらぱらと降ってくるが、崩れてくる気配はない。
かなり長めの地震が終わり、警戒の体勢を解く。何だ今のは、と背曲がりの獣が目をぎょろぎょろと動かしながら呟く。
「あのドラゴンの合図だよ。この揺れの後、しばらくしたらゲームを開始していいそうだ」
いたって平静な様子のヴィークの説明に、機嫌をよくした全員が得物を抜いた。
「あね、さん。こども以外は、やっていい、んだな?」
竜の尻尾がぶんぶんと振られ、埋め込まれた刃が地面を抉る。嬉しそうな彼は、腰にぶら下げていた手甲を装着した。鈍く光るそれは殴ることに特化した道具だ。
「殺すな。戦闘不能にしたら、そのまま進むんだよ。あっちもこっちも、全員無事なら、追加で報酬やるから、肝に銘じときな」
分かった、ステーキ食べる。と口数の少ない竜はフン、と鼻を大きくする。
「んじゃ、さっきの話の通りに別れるってことでいいんだな、ヴィークさん」
人間の戦士がそう尋ねると、頼むよ、と彼女は答える。
彼らのやり取りをよそに、目線の高い獣の女はダンジョン洞の奥を睨み、いまかいまかと舞台の開場を待つ。力を抜きなよ、と背後から黒の協力者が語り掛けるが、そんなものは届いていない。
しばらくして、彼女の一声は彼らを遅れることなく、闇へと導いた。
テレア、リドルと別れたテラーは、ダンジョン洞を道なりに進んでいた。時間がないから適当に穴をつなげた、とテレアは口にしていたが、分かれ道は滅多にない。いつもは明かり代わりとなる岩も、いつもより小さく、数段は暗い。
正装のテラーは靴がゴリゴリと削れていることも気にかけず、ただ歩いた。どこまで作ったのだろうと思えるほど長い通路。聞こえるのは、体の振動に合わせて鳴る自身の足音のみ。いつもテレアと暮らしている場所だが、こうしてみると不気味な空間に身を置き続けているのだと自覚する。
トットットッ。
別の足音が狐の耳を動かす。四脚類のものらしい、断続的な音は次第に距離を縮め、彼の目の前に現れた。ぼうと照らされている手入れの行き届いた黒の毛並みを揺らしながら、彼女は顔を上げる。
「ん、あんたかい。久しぶりだねぇ」
ヴィークの目は真っすぐ狐を見上げた。遅れて尻尾が退屈そうに揺れる。対する狐は彼女を睨み、足を揃えて立ち止まる。
「テルを助けた時以来、ですか……それほど時間は経っていないと思いますが」
そうだったかい。首を傾げつつ思案する素振りを見せる。
「いつもいつも、尋ね人が来るもんでね。相手にしてたら時間なんて忘れちまうよ」
そうですか。耳がピクピクと動いた。
「あなたはなぜ、あの獣の女性を助けるような真似をされるのですか」
敵を目の前にしながらも腰を下ろし余裕を見せる獣は、知りたいかい、と口端を歪める。そんな態度に関わらず、ただ背筋を伸ばした姿勢はどこかこわばっている。
「単純な話さ。あの子が黒猫を追いかけて、私のとこに来たんだよ。話は聞いたけど、もちろん、初めは断ったさ。金にもならないしねぇ」
鞭のようにしなる尾がふわりと揺れる。
「でもさぁ、運命のいたずらとでもいうのか、そいつに金が舞い込んでねぇ。面白いと思って、傭兵三人、おまけでつけてやってきたってわけさ」
ぱちくりと瞬きしたヴィークの視界から、テラーが消えた。
次に目を潤そうとする頃にはすでに遅く、ゴッと後頭部に鈍い痛みが走るのと同時に、地面と腹が密着する。遅れて地面と靴のこすれる音。
「自分から捨てておいて、勝手な人間ですね、あれは」
犬の右側に現れ、踵落としを決めたテラーはそのまま、押さえつけるように体重をかける。毛皮に足跡が付着する下で、いったいねぇ、と変わらぬ様子の彼女は続ける。
「っ……そうだね、あいつは勝手さ」
咳。
「しかも、旦那は、子供を取り返してくれるっていう詐欺師に騙されて殺されたんだって、さ。ついてないよねぇ、あいつも、私も」
痛いから緩めとくれ。首根っこを押さえつけられている状態のまま、尻尾が揺れる。
「そういや、名前聞いてなかったっけ、ね。餞別に、教えとくれよ」
答えない狐はぐうと体重をかける。笑うように痛みを訴える相手に、容赦はしない。まいったね、と呟いた獣は抵抗もせずに口を回す。
「そうだ、あんたはいつから、ここにいるんだい? 私の祖父母から、面白い話を聞いたことがあるんだよ。それも、捨て子の話さ」
いわく、その獣の夫婦は一人目の子を捨てた。二人目以降は捨てず、その中の一人の子供からヴィークが産まれた。ただそれだけの話だ。
「じゃあ、一人目はどこに捨てられたって話さ。祖母は、教えてくれなかったけど正気じゃなかったって話さ。だから祖父が、この荒れ地の崖近くに捨てたそうだよ。当時から、ここには何かがいる、なんて噂が、あったらしくてね」
数日後、祖父の使いの者が荒れ地へ向かうと、赤ん坊はいなかった。誰かに、神様にでも拾われたのだろうと判断した。祖母にそのことを告げると、誰のことだと尋ね返した。かなりの歳月を経て、ようやく引き離した子がいた、と自覚したそうだ。
「もう、死んじまったけどね、二人とも。代々黒い毛並みを誇りとしていただけなのに、栗毛の子供だからって拒否する母親……、最低なもんだよねぇ、テラー?」
穏やかな語りを続けていた彼女はするりとテラーの踏みつけから抜け出すと、ぺろりと鼻を舐める。
「どうやら正解みたいだねぇ。名前くらい、調べ上げれば出てくるもんさ」
血の混じる唾液が口端から、地面につうと垂れた。
「あんたは、どうしてあのドラゴンの傍にずっといるんだい? 育て親だからかい? それとも頼るやつがいないからかい?」
ぼんやりと照らされる細長い影は揺らめき、小さな獣に大股に近づく。その鼻先を狙って蹴りをいれようとするが、右へと避けた彼女の体側面を撫でただけで空ぶった。
「あんたが、テレアをそそのかして、ここを作らせたんだろう? なんでそんなことしたんだい? そんなことしなくても、テレアみたく、ドラゴンが生きれるだけの魔力が得られるはずだろうに」
テラーの胸に思い衝撃が走る。軽い身のこなしに似合わぬ一撃は、片脚では耐えきれずあっけなく背中をついた。ヴィークは彼の上に立ち、鼻先が触れ合いそうなほど近づいて向き合う。
「あたしには子供はいないけど、予想くらいはできるよ」
どけ。ドラゴンが目と牙をぎらりと光らせた。
「他人――誰かが欲しかったんだろう? 孤高のドラゴンであっても、あんたは私ら獣となんら変わらない」
大型犬の重さに押されたまま、テラーは叫ぶ。
「テレアは独りでも平気なやつだったけど、あんたはそうじゃなかった。けど、育て親から離れることもできずに、あいつの魔法を利用することを思いついたんだ」
うるさい。鼓膜をやぶってしまうのではないと思うような声が、むなしく闇に吸い込まれていく。ほぼ同時に彼の上から飛び退いたヴィークは姿勢を低くし、こちらもまた牙を剥いた。
対するテラーは正装が汚れたことなど気にせず身体を起こし片膝立ちとなる。顔面右半分を片手で隠しながら、ギラギラと彼女を威嚇する。
彼の後ろでは、魔力が形を持ち、陽炎のように揺れている。八方へと伸びる薄い影より出ずるそれらは、よくよく目を凝らしてみればいくつか尾のようにも見える。
先に、黒い獣が駆けだした。
通路に対し垂直方向に助走をつけた彼女は岩の壁を半ばまで上る。一瞬だけ動きを止めたかと思うと、改めて狙いを定め相手に飛びかかる。対する狐も彼女を見逃さない。眼だけを動かしながら魔法の尾を揺らめかせる。
尾の一つが迫りくる敵影を捉え、その身を大きくしならせた。魔力によって作られた実体のない幻のような鞭は、容赦なくヴィークの脇腹にバシッと命中する。地面に叩きつけられた体からは、肺から空気が押し出される音が鳴る。それでもなお気を失わなかった彼女は再び立ち上がった。なおも敵意は散らさない。
再び立ち上がる敵に、テラーは顔面右を隠したまま、立ち上がる。
「はは、流石は、ドラ、ゴン……一般人が敵うはずがない、か」
獣の力ない静かな一言と同時に、もう一方の眉尻がぴくりと動いた。いまだに揺らめく尾に囲まれている彼の右の前腕半ば、服が僅かに切り裂かれ、下の毛皮の部分と、首の同じ高さにも同様の傷ができていた。どちらとも薄く血がにじんでいる。
「はは……あんたの勝ちで、いいよ。行けばいいさ。ただ、テレアと約束したみたいに、殺さないでくれよ。絶対、なし、だ」
続けて、はは、と短く笑った黒の獣はゆっくりと脚を畳むと、道の真ん中に居座るかのような恰好になった。対するテラーは顔を露わにし、背後では色が薄くなっているものの、まだ魔法の鞭がいまだ揺らめいている。
「よかったね、人でなしの祖父母の代わりに、愛してくれるやつがいて。適当に、やつらに報告しとくよ」
その言葉を最後に、二人の間に言葉はなくなった。
間もなくしてテラーの魔法も姿を消すと、彼女を残して、どちらから来たのか分からなくなってしまった道へと歩を進める。
一方、狐の姿を闇に見送った黒犬は、にやりとしながら、やっくりと地に伏せた。
「傷が、癒えたら、観戦しようか、ね」
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