溢れ、蝕み、食らいつき

 石飛堂の倉庫にあるベッドの上で、主は目を覚ました。仰向けで眠っていたらしい彼は数回、瞬きをすると上半身に力を込める。薄い布団がはらりと落ちれば、元傭兵の証である胸板が覗く。だがそんなものよりも目を引くのが、右肩にある大きな古傷だろう。

 背中まで貫通しているそれは、右胸真ん中から真直ぐ天井へ続いている。鋭い刃物で貫かれ、斬られたのであろう致命傷たりえるもの。すっかりふさがっているものの、そこにはまだ堅い鱗は生えていない。

 寝間着は最低限主義の彼は、大きな欠伸をしてから倉庫の中を見渡した。

 まだ朝早いらしく、薄暗く底冷えするその空間はいつもと変わりない。視線を正面にやれば、いつもは寝相の悪い山飛竜が藁の上で丸くなって眠っている。薄ら笑みを浮かべた彼は掛布団をすみに寄せて立ち上がる。

 まず向かったのは台所だ。昨日、夕食と共に購入しておいた加工品を手に取って、作業机に持っていく。厚い紙の包装を鋭い爪で破きながら座り、尻尾を通した背もたれに全体重を預けて朝食をとり始める。

 終始、表情を変えずに食事を終える。一方でよくしなる尻尾を数回、床にぴしりと打ち付けた。

 その後、残ったゴミを机の下の箱に放るものの、机の上にある加工途中の石に視線は釘づけだ。鼻息ひとつを鳴らし、机に置いてあるランプを灯してから作業を開始する。

 分厚い革製の手袋をはめ、机の脇に並べてある金属製のやすりを手にとり、石を傷つけていく。傷つけられた石は調味料のような砂利、砂となり、机の上に小山ができあがる。時折左手に転がした石はころころと転がり、少ない光をあちこちへと飛ばす。

 だが納得できなかったらしいギルは、細かいやすりに持ち替えてさらに削っていく。

 ゴトン、と低い音とともにシェーシャが身じろぎをひとつ。道具の持ち替えた際の音だが、立てた当人は振り返りもせず、起こしたか、とだけ声をかけた。だが回答はないのをいいことに、黙々と作業を再開する。

 外から聞こえてくる足音が、近づいては遠ざかる。幾重にも重なれば、それは雑踏となり倉庫の中を侵食していく。倉庫側の道は表と比べて、人通りが少ない。しかし通る者たちは限られているため、自然と親しい者同士らしい声も混ざってくる。

 そのうち、シェーシャがぱちくりと目を開いた。けだるそうに藁を踏みしめた彼女は、寝床の上で座るような体勢をとって動きを止める。尻尾を床に這わせ、身体に巻き付けるようにしている。

 おはよう。ザリザリと削る音の中に放たれた声はギルの背中めがけて届く。もうすぐ昼だぞ、と答える彼は輝きを持ち始めた石と道具を置き、手を止めた。座ったまま椅子の向きを変えて、視界に彼女を迎える。

 ぼんやりと照らされた顔は、まだ眠そうだ。弱点でもある腹を堂々と見せながら、彼の瞳を見つめる飛竜。その距離はどちらにとっても、わずか数歩分だ。

「別にいいじゃん。もう、旅はしないんでしょ? それとも、どこかに行くの?」

 そうじゃないが。主は手を止め、左手をひじ掛けに置きながら答えを濁す。

 その日、石飛堂は休みにする、と事前に決めていた。どうして、と尋ねた彼女への答えは、たまには好きなだけ寝ろ、だった。

「じゃあ、ギルは何してほしいの? 一緒に、買い物でもしたいの?」

 そういう気分じゃないな。土竜は質問に答えない。むー、と頬を膨らませるように喉を鳴らす彼女は台所へと歩き出す。首を伸ばせば残りの食料が届く位置に来て、包装紙にくるまれた食料を嘴のようにも見える口先で咥える。

 大地を抉る爪で器用に紙を破き、中身を引っ張り出して一飲みにする。次にゴミを咥えて、ギルへとのっしのっしと近づいて、渡す。彼は受け取って、箱に捨てる。ただ入れるだけの行為だが、落下地点の予測が飛竜には難しいらしい。

 手を、翼を、伸ばせばお互いに触れられる距離だ。

 カサという音と同時に、ギルが下ろしていた右手を彼女の目元に伸ばす。顎に指を滑らせて、鱗の感触を楽しむように喉、胸へと触れていく。やがて指は離れて、元の位置に戻った。視線をそらさない彼に、彼女は一歩、距離を詰めた。

 飛竜の女と、土竜の男では、体格は前者が大きい。広げればテント代わりになるだろう翼の部分を除いたとしても、変わらない。勝っている部分があるとすれば、後者には角があるということくらいだろか。

 牙も爪も、武器は扱えないが飛竜は巨大だ。

 薄暗い倉庫の中で、飛竜が土竜に襲い掛かっているようにも見えなくはない光景。だが視線だけは逸らさない彼女は首を伸ばして、喉を鳴らしながら自身の鼻先を相手の口元にこすり合わせる。

 山飛竜が甘えているときに出す、クルクルという玉を転がすような音。彼女が、二人きりのときに流す音。

「甘えたいのか、シェーシャ?」

 二人きりだというのに、耳打ちをする彼の言葉に、シャーシャは鱗を輝かせながら、うん、と尻尾を揺らす。

「その前に、な。聞きたいことがある」

 逞しい胸板にすり寄る彼女は、なぁに、と声音を変えずに尋ねる。クルクルとまだまだ甘えるつもりらしい恋人に、ギルが質問を投げかける。直後、ピシャリと尻尾が床をうつ。同時に、倉庫の中に反響する可愛らしい音が止む。


 その日も、人間の子供が姿を現すことはなかった。リジールというみすぼらしい少女は何日前も前にやってきて以来、ここへは来ていない。

 ここのところ、石飛堂には多くの予約が入っていた。指輪から腕輪、ネックレスに、首輪。それらにつける宝石の加工と、引き渡しが連続していた。おかげで、この店の金には余裕ができている。

 久しぶりに忙しかったとはいえ、立ち去った少女にはいつでも来い、と告げていた。それにここには、彼女お手製の、完成目前の宝石があるのだ。その価値を教えられているというのに、みすみす手放したりするだろうか。

 一方のシェーシャは、若干だが、以前と比べて元気になった。多忙だったことに遠慮してか、目に見えて甘えることは少なくなっていた。それでも機嫌よく尻尾を振ったり、水浴びに興じていたりする。

 そのこと自体は、主にとっても微笑ましいことであり、次も頑張るか、と思えるのだった。

 だが、数十秒にもわたっただろう二人の間に流れた沈黙の中、ゆっくりと視線を上げた彼女の目。氷を思わせる輝き持ちながら、ぎょろりと彼を眺めていた。

 背筋を伝う何かが、脳裏に焼き付いた景色をあぶり出す。


 石飛堂の倉庫にあるベッドの上で、主は大儀そうに目を覚ました。仰向けで眠っていたらしい彼は数回、瞬きをする。寝ざめが悪いらしく、ぼんやりと天井を見つめて、視線を動かす。作業机のランプが灯しっぱなしであること以外、いつもと変わらない倉庫。天井は黒ずみ、薄暗い。そして、既に、外からはわずかに喧騒が聞こえ始めている。

 意識がはっきりとしたらしい彼は上半身に力を込める。布団はかけていなかったらしく、そこにはいつもの体があった。だが、いつまで経っても彼は起き上がることはない。軽くうめき声を上げ、指がわずかに動くばかりだ。

 視線を動かす限り、身体を縛るロープも何もない。ただいつものような景色が広がっているだけだ。よくよく足の方を見れば、丸くなっている美しい緑色の背中がわずかに映る。どうにか上半身をわずかに持ち上げて、喉を動かす。

 だが彼から発せられたのは、言葉ではなくただのうめき声だった。猿轡も何もつけられていないというのに、ん、と音しか出せないギル。そんな彼にようやく気が付いたのか、シェーシャがゆっくりと頭をもたげて彼の方を見た。

「動けないの、ギル」

 きょとんと冷たさの残る眼を見開いて、寝たきりの肢体を見つめる山飛竜。おはよう、と続けながらギルの足元に立つ。

「魔法って、すごいよね。やろうと思えば、なんでもできちゃうんだもん」

 小さく瞳を動かしてから、先と同じように腰を下ろして、彼を見下ろす山飛竜。わずかばかりに開かれている翼が、威圧感を与える。半分陰になっているその姿を睨むギルは、大きく呼吸を繰り返している。

「ギルが教えてくれたんだよね、魔法のこと。いろんなことができるって」

 いつものように、相手の瞳を見つめる。ぼんやりと半分が照らされている彼女は、いびつに口端を釣り上げ笑っているようだ。

「それで、お金も出してくれたんだよね。なんていう国だったっけ、あそこって」

 一歩。藁が踏み締められる音と、爪と床がぶつかり削れる音。

「魔法の国じゃないし……ふう、せんの里、だったっけ。楽しかったよね」

 ミシ、という音とともに、ゆっくりとギルの足元が沈んだ。

「すごいよね。こうしてたら、あのとき、ギルは怪我をすることもなかったのかな」

 さらに、身体はベッドに沈み込む。次第に距離を詰めてくる恋人に釘付けになりながらも、彼は逃れようとあがくが、徒労に終わる。飛竜はベッドの上で両足を揃えると、獲物の右肩にある古傷へ鼻先を近づける。ふんふんと鼻を利かせてから、口を開く。べろんと踊った大きな舌が、じっとりと舐め上げる。

 虚ろながらも輝いて見える彼女の瞳が、目の前にある。血色のいい桃色の闇から吐き出される熱い吐息に、ギルは歯を食いしばる。

「ギル、痛くない? ちゃんと、寝れた?」

 釘付けのまま、ゆっくりと頷く彼に、よかった、と安堵らしい吐息と共に目元を緩めたシェーシャは、続けて首筋に舌をねっとりと這わせる。翼を少しだけ広げて、ベッドに手をつくような形となる。

 彼女の翼の付け根を、半ばにらみつける形となっているギル。

「やめてくれ、シェーシャ」

 見開かれる二つの双眸。一方は冷たく、もう一方は大きく震えている。飛竜の首が引かれ、至近距離で向かい合う形となってから数秒の沈黙。

「ねぇ、ギル」

 楽しそうな声は、三日月型にゆがめられた視線と共にギルに降り注ぐ。

「教えて? 私の好きなものって、なあに?」

 ちらちらと見える、生え変わり始めの牙。二つの回答。妙に倉庫の中に響くが、彼女の目は笑い続けている。

「じゃあ、ギルが魔法のことを教えてくれたのって、どこだっけ」

 経緯も、金額も、期間も、途切れ途切れながら。

 一問、一答が繰り返される。いくつも、ゆっくりと、何度も。しかしシェーシャは答え合わせも、何もしない。ただ、尋ねるだけだ。じぃと彼の目と、身体を眺め続ける。

 ギルは寝たきりのまま、されるがまま。突然開くようになった口から、答える。どれくらいの時間が経過したのか、何を答えたのか。覚えているのもつらくなるような、長い長い時間だ。

 とうとう、思い当たる質問がなくなったのか、彼女は首を数回傾げた。数回の瞬きののちに、目を大きく見開いた。

「じゃあねぇ、ギルは、私のこと、好きなの?」

 間髪入れずにギルは答えた。迷いのない言葉に、嬉しい、と舌なめずり。

「じゃあ、リジール……あの子のことは、好きなの?」

 土竜は、違う、と答える。数分ぶりの沈黙が訪れてから、くすりと鼻を鳴らす山飛竜は彼の鼻先を舐めた。

「教えて? ……あの人間の子供を、どうして連れてきたの? ねぇ」

 クスクス。おかしそうに笑っている。

「……ああいうやつらを、放っておけねぇのは、知ってるだろ。できることなら、助けたい。そう、思っただけだ」

 本当に? ずいと近づく見慣れた顔から、また甘い吐息が漏れた。

「お前は興味ないだろうが、俺は、クソみてぇな親を持って生まれたんでな。ああいうやつを放っておけねぇ。知らねぇやつに金をやってたの、知ってるだろ?」

 静かに語る青年をよそに、何度も、何度も、彼の体を求めているかのように頬をすりつけては、舐め上げる。

「うん、知ってるよ?」

 けど、と続く。

「あんな子、どこが可愛いの? きれいな鱗も、自由に動かせる尻尾もない人間の子供が、ギルは好きなの?」

 古傷、首筋、角、瞼。飛竜は何度も、彼を求める。抗いようのない土竜は軽く目を見開き、ふぅ、と息を吐き出す。

 それから、ギルは跨る彼女から投げかけられる質問に答えるだけとなる。時折、身体に力を込めるものの変化は訪れない。ランプの弱々しい光だけの、薄暗い倉庫の中で、恋人に弄ばれるだけの時間が過ぎていく。

 外の喧騒が引いてきたころ、シェーシャは狭いベッドの上で横になっていた。翼の下敷きとなっているギルは今朝と変わらぬ姿勢で、延々と魔法で縛られ続けている。

 背中を壁に押し付けながら、竜二頭には狭すぎるだろうベッド。彼の横顔を見つめているシェーシャは、時折欠伸をしながら二人だけの時間に入り浸っていた。

 誰も訪れない、邪魔されない。己と相手だけの息遣い。視線も、言葉も、肉体も、お互いが、お互いだけのもの。先ほど消えたランプにより、さらに暗くなった倉庫は、明かりなどなくとも見渡せた。

 喧騒が消えたころくらいに、ギルが彼女に声をかけた。シェーシャが彼に答えると、続ける。

「山飛竜は夫婦になる相手を決めたら、一生添い遂げるものなのか?」

 目だけを動かせば、目をまん丸にした可愛らしい竜顔が見える。

「ふーふ? なんだっけ、それ」

 いつもと同じ世間知らずを貫く飛竜は、ぽかんと口を開く。

「ああ、ああ。悪い。そうだな……一度、好きになったやつ以外に、誰かを好きになったり、するのか?」

 目を点にして瞬きする彼女に、眉を寄せる。

「ん……シェーシャ、俺が、おまえに渡した石のことは、覚えているか? 青い、おまえの爪くらいの大きさの奴だ」

 少し首を傾げ、自身の足を見やる彼女は数秒黙り込んだ後、ぺろりと舌を出す。

「えっと……ギルに返したんじゃなかったっけ。いらないって言ったと思うの」

 そうだったか。深いため息の後に、あそこか、と呟いて続ける。

「俺はな、最高傑作を、夫婦になる相手に渡したい。そう思ってたから、渡した」

 再び起き上がり、土竜の顔を覗き込む飛竜。

「ふーふになるのって、石なんかがいるの?」

 穏やかな言葉と共に、顔をずいと近づける。

「さあな? 俺が渡したかっただけだしな……俺は、お前とで共にありたい。お前のことが好きなのは、今も、変わらない」

 半ば、覆いかぶさる体勢の彼女の首に、両の腕が伸びた。

「すまん。おまえを独りにして。だから、リジールのことを教えてくれ。好きとかは関係ない。ただ、助けたい。シェーシャ、頼む」

 ぎゅっと抱きしめる力が強くなるも、彼女の肢体は崩れない。

 しゃっくりのような息を詰まらせる音。狭い狭い寝床の上で身体を重ねながら、時間だけいたずらにが過ぎていく。既に夜も更けているのか、外からは何も聞こえてこない。

 やがて落ち着いた飛竜は、やっぱりヤダ、と彼の耳元でささやく。

「じゃあ、ギルは、あいつを助けるために、何をするの? あの時みたいに、どこかに行っちゃうの? そんなの、ヤダ」

 ある古傷に軽く牙を突き立てる。色の薄い鱗が数枚はがれて、なめとられる。

「……絶対なんて約束はできないが、約束する。帰ってくる。今と変わらない姿で、お前のとこに」

 彼女へささやきつつ、首筋を撫でてやる。

「大丈夫だ。ここは俺とお前だけじゃない。騎士もいれば、傭兵もいる。どうにでもなるさ」

 本当に、と首を引いて目を丸くする。お前に嘘はつかない、と真っすぐな視線。次にシェーシャが紡いだ言葉に、彼は静かに、一言だけ答えるのだった。

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