なんら変わらぬ日常を

 ある朝、郵便配達を生業としている山飛竜のトレムが、棒立ちしながら差し出された荷物ごしに、獣の王へおずおずと尋ねた。

「王、今日の夜はお暇ですか?」

 まだ朝も早い時間でこそあるものの、真珠のような目をぱっちりと開いている飛竜。それに対し、王は眠気に抗おうとしているかのように答える。

「夜? 少し遅くてもいいなら、空いてるよ」

 するとくりくりとした目を輝かせながら荷物は郵送員に引き取られる。束になっている郵便物から垂れさがる丈夫な紐だけを器用に咥えて、口を開けている自前のカバンにしまいこむ。それから頭を上げて視線を合わせる。

「じゃあ、今夜、お願いします」

 若い山飛竜はそれだけ言い残すと、王の返事も待たずに後ろに下がった。

 郵送員の中でも体格がけた違いに大きい彼だが、他の局員たちに遮られてすぐに見えなくなる。そしてすでに荷物を受け取っていた獣と言葉を交わしながら外へと消えた。一方、カルは他の配達員の名を呼んで、郵便物を一人ずつ配っていく。トレムの仲間たちも、この二人のちょっとした会話を気にしていない様子だった。

 なんら特別なことはない、片隅の日常である。陽と共に目覚め、王を介して荷物を受け取る。昼には目的地に到着し、受取人に手渡す。夜となる前に市場に戻り、眠り過ごす。

 獣の王であるカルは毎朝、前日に集荷した郵便物を配達人たちに配っている。正しく言えば、集荷して地域ごとに仕分け終えたものを手渡している。

 かつて、彼らが王の座に就いたとき、それぞれの役割を決めることとなった。お互い初対面に等しい状態だったが、他の二人はすぐに決まってしまう。

グレイズは市場の治安を維持するための騎士団を率い、指揮することに決めた。

 フェリは市場を見て回り、住民たちの生活を豊かにするための方法を探し、施工していくと決めた。

 最後なってしまったカルは何をしようか、と悩んでいた。己はなんら特別な能力なんてないと主張していた彼に、グレイズが言ったのだ。優男のお前は愛想でも振りまいてれば女から寄ってくるだろう、と。それならば人気のない郵送業に顔を出してみようという試み以来、ずっと続いている。想像以上に者が集まったのだ。以来、毎日の運送業には余裕が生まれた。

 また、これらの配達先は市場のみならず、周辺の町村にまでおよぶ。そして必要とあらば、村町からも郵便物を受け取ることもある。者物が集まるというだけあって、外部との連絡手段はあった方がいい。いつの間にか、これが彼の担当する役割となっていたのだった。

 陽がある程度高くなったころ、ようやく本日分の荷物は空になった。配達員たちが皆出て行くと同時に、獣の王は大きく欠伸をする。立ちっぱなしの仕事を終えて、彼は配達員たちの寝泊りする空間から出る。

 短い廊下を歩くと、柔らかい日差しが差しこみ始めている広間を通り抜けて階段を上がろうとする。同時に、ギッシギッシと天井がきしむ。一段ずつ段差に足を乗せていけば、ぬっと姿を現したのは見上げるほどの竜の巨体。グレイズだ。ちょうど踊り場で鉢合わせる。

 先に進もうとする獣の王の目に、竜の王が愛用している細身の剣が映る。鎧も身に着けず逞しい体を白の衣の下に隠しながら、グレイズはカルの道を塞ぐなり口を開く。

「もう少し、働いたらどうだ? おまえと道で会ったことがない」

 睨みと共にほんの一言。敵意にも近い、呆れだ。

「ぼくはきみと比べたら、日陰者だ。それでいいんだ」

 不敵な笑みをつくって答える同僚に、ふん、と鼻を鳴らして竜は階段を通り抜けて広間、外へと出て行った。獣は階段を登り切り右手に伸びる廊下を進む。特別な装飾などはないが、住居としては十二分である空間を突き当りまで歩く。そこにある木製の扉に手をかけた、ちょうどそのとき、隣の部屋の扉が開く。開ききった扉からひょこりと顔を出したのはフェリだ。白い長髪を揺らしながら微笑んでいる。

「ああ、おはようございます、今日は何をされるのですか?」

 いつもと同じように、三つの武器を背中に携えた白い人間の王は声をかける。廊下に出つつ扉を閉じ、鍵がカチャリと音を立てる。

「まだ何も。これから考えるよ」

 そうですか、と二人はすれ違う。それぞれの時間を歩み始めた。もっとも、すでに市場では活気が見え始めている頃だ。


 世界樹のふもとにある市場には、観光のために訪れる者も少なくはない。定住目的でやって来たはいいものの、空気が肌に合わず引き返すこともままある。夢を見て道をたどったとして、そこに望むものがあるかは別問題なのだ。

 もちろん鼻から観光目的で来た場合、まず求めるのは案内紙だろうか。出入口付近で配っている、いつも同じビラ。そこには観光名所が記されていて、目的もない者たちは必然的にそこへと向かう。

 飲食店、芸人に、お土産屋。そんなものを中心に取り上げられているビラに記されている唯一の建物が、王たちの住まう場所だ。特に名前があるわけでもないが、市民からは玉座と言われている。樹の根元に建っているそこには、王たちの他にも、その側近や郵便配達員なども住んでいる。そして市場の住民たちが自由に利用できる空き部屋も提供されていたりする。だがあまり利用者がいないことも事実ではある。

 暗い昼間に、玉座の玄関口から姿を現したのは獣の王だ。いつもと同じように白い衣を羽織り、だぼっとした同色のズボンを履いている。ふかふかとした灰色の毛並みが昼間の木漏れ日を浴びてきらきらと輝かせ、ぴんと立つ三角の耳をぴくぴくと動かしながら彼が向かったのは荒れ地の方角だ。

 道行く者たちに声をかけられながらカルはふらふらと歩いて回る。景色を眺めながら、観光でもするかのように。

「今日も平和でいいもんだな……グレイズは訓練に行っていて、騎士は少ないし。フェリも草原でお茶会だったっけ。僕は何をしようか」

 一日中屋内で過ごすのもよかったが、することもない。故に遅い時間ながらも出かけてみたが、王に変化が訪れることはない。そこらにある屋台の品物を眺めながら、ただ歩いていく。

 それでいても、毛並みに人一倍気を遣っている王は自然とりりしい表情になってしまっている。女性からの人気である所以だが、当人はあまり興味がないのが現実である。

 時間が経過して、空腹を覚えたカルは手近な出店で軽食を購入する。並ぶこともなく店主の目の前で数秒間悩んでいたが、発酵食品で肉を挟んだものに決める。はいよ、と答える店主は商品と共に一枚の紙をカルに手渡す。無論、包み紙ではない。きらびやかな文字が躍っている。

「大樹の天恵?」

 カサ、と乾いた音を立てて広がる紙には、真ん中にでかでかと書かれた黒い文字を読み上げる。

「ええ。王様も、よければいかがです? すぐ近くで講演もやってますんで」

 店主はにかって笑いながらすすめる。そうですか、と軽く流すカルは場所だけ尋ね、その場を後にする。ありがとさん、と声を張り上げる店主も仕事に戻る。

 王は指や毛皮が汚れることも気に留めず一口、二口と食事を終わらせる。舌で唇をぺろりと舐め、それから紙を改めて眺めた。

 おそらく手書きで書かれているのだろう癖の強い文字は、大きい文字くらいしかはっきりとは読めない。他はぐちゃぐちゃとつぶれてしまっているのだ。思わず道の真ん中で立ち止まり、紙を見つめてしまう王は肩を落としてあたりを見渡す。先ほどの出店の方を眺めたが、そちらへと戻ることはない。

 大層目立つ白い姿は人通りの少ない道を選んで歩いていく。貧困街に近い場所でこそあるが、てこてこと歩いていく獣には警戒心の欠片もない。時折のぞく尻尾を筆のように垂らしながら、どこかを目指す。

 さらに人気が亡くなった場所できょろきょろとする王が目に止めたのは、貧困街の近くにしては大きな建物だった。市場の一般的な住居よりも一回り小さい程度の大きさで、汚れてしまっている布を玄関に垂らして奥を隠している。それなりに古い建物なのか、朽ちかけている部分もある。だが建築物としての役割は十分に果たせるだろう。

 治安が決していいとはいえない場所で、のんびりと耳を動かす王は建物の側面にある小窓を見つけて下に座り込む。できる限り音を立てぬようにしながら、中から聞こえてくる声に耳を傾けた。

「偉大なる大樹は我らに命を与えました。水も命も、陽も月も、昼と夜も、我らと同様に作られました。全て大樹から授かったものなのです。すべての源たる母なる大樹に、感謝を。灰から、天から我らをお守りくださる父なる大樹に、感謝を」

 中からは多くの吐息と、太い声による演説の締めくくりが聞こえてきた。少し遅れて気配がうごめき、大きくなった衣ずれの音が聞こえる。カルは壁面に軽くもたれながら、演説の続きを聞き入る。

「大樹から授かりましたこの命は、ある日、力に目覚めることがあります。鍛錬を積むことにより似たようなことができることもありますが、多くの者たちはその力を開花させることなく、日常を過ごされていることでしょう」

 大きく空気を吸い込んだ。

「それが、魔法と呼ばれている力です。一般的には、魔力と呼ばれている力を操り、火、水、風などの現象を再現することを言いますが、それは違います。その者たちは大樹に選ばれたからこそ、操れるのです」

 室内がぽっと明るくなる。

「その昔、私は、魔法は才能がなければ扱えないものだと教えられました。人一倍の努力はしましたが、扱えたことはありませんでした。その昔、王が陣の特性に気が付き、広めてもそれは変わりませんでした。大樹に選ばれるまでは」

 パチャパチャと液体が音を立てる。

「そう、私は大樹に選ばれたのです。大樹が私に囁くのです。こうすれば火が踊り、水が波打ち、風は刃となるのだ、と」

 中から外に向けて、激しい風が流れた。同時に、歓声が聞こえ始める。背中を震わせるカルはうるさいな、と耳をぴくぴくと動かす。。

「大樹は、私たちに魔法という術を授けてくれる師でもあるのです。私も、魔法の体得のために修行を繰り返しました。大樹が振り向いてくださるのはいつになるかは、わかりません。しかし、大樹は師としていつしか、私たちを認めてくださいます」

 手を打つ音。

「偉大なる大樹は、我らを見つめてくださっています」

 だんだんと大きさを増し、拍手の濁流があふれ出す。のぞきこまずとも、中の光景は容易に想像できるだろう。

 恨めしそうに音の聞こえてくる窓を睨みつけながらわずかに口を動かす。しかし声は轟音にかき消されていく。機嫌を損ねた様子の王は建物から離れ、適当な道を選びながらまた貧困街をさまよう。人通りどころか気配すらもない道は、昼間特有の暗さも相まって不気味である。

 そろそろ帰ろうか。王の呟きと、欠伸。すると物陰から飛び出した影が彼を取り込み、にらみつけた。

 人、竜、獣が二人ずつ、黒い布で顔を隠して王と対峙している。最低限の鎧に、その手や口には見覚えある剣や槍、ナイフが握られている。

「なんだい、突然。約束もないけれど、ぼくを攫いに来ても何にもないよ」

 笑いもしなければ、構えもとらない。ただ自然に立っている王は隙だらけだ。それを見てか、カルに向かって全員が、わずかにタイミングをずらして襲い掛かる。今日は厄日だ、と王はぎゅっと目を閉じた。


 次に獣の王がゆっくりと目を開くと、すべての刺客は地面に伸びていた。同時に、四脚類の獅子と呼ばれている獣がそれらのうちの一人の上に乗っていた。その大きい体格で、どことなくしたり顔で王の方を向いている。

「カル様、みすみす殺されるような真似はおやめくださいませ」

 男らしい獅子はタテガミをふさふさと揺らしながら暗殺者を踏みつけ、王に近寄る。その視線は険しいもので、ぼんやりとしている王に従者の一人でもつけるように注意を促す。

「けどリドル、そんなことしたら自由に動き回れないじゃないか。ぼくだってフェリみたく、市を見て回りたい時だってあるんだから……ダメかい?」

 いけません、と獅子が牙をむく。

「あなたは王なのですから、その命を軽く見てはいけません。フェリ様のように武器の扱いに長けているわけでも、グレイズ様のように戦い慣れているわけでもない」

 そっか、と微笑む獣の王は一息の間をおいて、帰ろうか、と笑みを深くする。

「少々お待ちください。今こやつらを連れていきますので」

 いたって真面目なリドルは空に向かって吼えた。すると間もなくして、駆け付けた騎士たちが暗殺者を連れて行ってしまう。

 それから王は側近の後ろに従い帰路につく。世界樹から顔を出す太陽の光を浴びながら、ぽかぽかと歩いていく。落ちる頃には玉座にたどり着くだろうか、とカルが呟けば、何が落ちるんですか、とリドルは顧みもせずにただ道を急ぐ。なんでもない、とため息。

 黙り続けてしばらく、大通りに出る最後の角を曲がろうとした時だった。二人の背後から走ってきた人間に、カルは声をかけられた。なんでしょう、とにこやかに答えるカルは立ち止まる。ため息とともに獅子も引き返し、無言のまま二人の間に割って入る。

「急ですまんけれど、こんくらいの、人間の子供を見んかった? リジールって、名前なんやけれど……」

 軽く息を切らせている人間の若い女性だ。貧困街の一角であるにも関わらず、その服装は市場の一般的なものよりも多少高級そうなものに身を包んでいる。その違和感にカルは言葉を一瞬だけ詰まらせる。

「申し訳ありませんが、ぼくたちはそのようなお子さんを見かけてはいません。よければ、詳しい特徴と、あなたの住所を教えてください。人さらいなら、騎士を動かすこともできますので」

 すると女性の顔がぱっと明るくなる。彼が王であることを知らないのか、訛った言葉のままで二人はやりとりする。用を終えた女性と別れて、王と獅子は玉座へと帰宅する。

「カル様、くれぐれも体を冷やされぬよう」

 入口の広間で、獅子はそそくさと階段を上がり姿が見えなくなる。ようやく一人になれたカルは無表情に動き始める。向かった先は自室ではなく一階にある一室、フェリの部下であるレミーの部屋だ。立脚類用の扉を開けた先には、壁にかかった大量の鍵。玉座にある自由部屋の鍵たちだ。それぞれ個別にフックにかかっている。たった一つの空白を除いては。

 王はそれらをじっと眺めてから、部屋を後にする。

 次に、レミーによって管理されていない鍵の部屋へと移動した。

 かなり大きめの扉をノックして開けば、広い部屋の真ん中に、山飛竜が丸まっている。身体の大きい彼がいても、なおも余裕のある空間に脚を踏み入れる。

「こんばんは、でいいかな。トレム」

 先ほどとは異なる、明るい笑みを浮かべた獣の王は広めの個室へと消える。

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