過ぎた時を顧みず

 草原の道から市場に入ると、道端には子供が忍び込めるスペースもないほどに出店が並んでいる。毎日似たようなにぎわいを見せて、来訪者の欲望を満たしている。

 まずは肉に野菜、魚、穀物に総菜。さらには直方体の遺産や、ちょっとした小物まである。どこで作られているかもわからない商品ばかりだが、どれもこれも使えないものでもない。そもそも評判の悪い店はすぐに立ち退くため、入口という格好の宣伝場所にはいいものが集まるものだ。

 者だらけの道を少し奥にいったところには飲食店が立ち並んでいる。生肉など含む一品ものからコースもの、麺からご飯もの。一息つくための喫茶店から、ちょっとした遊戯場もある。表の方の通りなので、昼間に人通りが絶えることはまずない。

 多くの者がそれぞれの道行く隣で、ある喫茶店のひとつに目立つ橙色の竜の姿があった。屋内ではなく店の前に設置されている席についていた。ズズズ、と湯気の立ちのぼる飲み物を飲むさまは、彼女の慎重さをうかがわせる。

 彼女が通された席は喫茶店の隅っこだった。案内した店員は口にこそ出さなかったが、尻尾が邪魔にならない場所を選んだのだろう。尻尾を自由にできる店の方が珍しいため、黙って従った彼女はおとなしく本を開きのんびりとしていたのだった。

 数ページ繰ったところで、ふとその鼻先を上げる。抜けるような空を背景に、いつのまにかたたずんでいる人物がいた。明るい空に反し、市場に落ちる影が濃く、赤い目が細められた。

「ラクリ、だよね? 久しぶり」

 そこにいたのは人間の女性だった。肩よりも少し長いくらいの黒髪を後ろで結び、尻尾のように垂らしている。色白で細い面に、薄い化粧顔。金のくりくりとした瞳がラクリの方を向いている。

 紅竜は目を軽く見開き、ゆっくりと息を吐き出してから口を開く。

「……アリア? なんでこんなところに」

 市場でよく見る衣服を着て、テーブルを挟んで立っている女性。両手と肩に荷物を下げてこそいるものの、身軽そうに見える。アリアと呼ばれた彼女は笑みを深くしてやっぱり、と顔を軽く紅に近づけた。

「久しぶり! アレンから聞いてたけれど、元気そうね!」

 まぶしいくらいの笑顔に対し、まあ座りなさいよ、と笑みも見せずに空いている席を爪で指す。立脚類用に作られた空席だ。アリアは手に持っていた荷物を地面に下ろしてから、席につき先客に向き合う。本が閉じられ、カップが持ち上がり、一口。テーブルに静かに置きなおした竜は前のめりになり頬づえをついた。

「あいつ、言いふらしてんの? ……うっとうしいわね」

 本を懐に入れつつ、再び細められた目と言葉には思慕のようなものはない。アリアは軽く笑みを絶やさずに、そう言わないであげてよ、と肩に下げていたカバンを膝に乗せて口を開いた。

「紅竜の族長も、黙って出て行ったラクリをずっと心配してたよ? アレンだって、急に命令されて、とまどってたし」

 カバンから取り出されたのはぼろぼろの本だった。ラクリにも見えるよう、テーブルに静かに置かれた。だるそうにしていたラクリの瞳が揺れる。

 持ち運ぶのにちょうどよい大きさの、赤色だったのだろう手帳。すっかり色あせてしまっていたが、そこらに陳列されている本でないことは一目でわかる。その表紙にはすれてこそいるが、円を使った模様が描かれているのだ。

 陣の描かれている本、魔導書。見るからに、遺産だ。

「ちょっと、なんでそんなの持ってんの!」

 背筋が伸び、明らかな動揺を見せた友に、欲しいでしょ、とクスクスとおかしそうに笑う。もちろん、とラクリが爪でテーブルをコンコンと鳴らすが、奪い取るようなまねはしない。

「うちの図書館の書庫にね、あったの。それも奥の、奥の本棚に」

 よく燃え尽きなかったわね、とラクリがまた一口飲み物をすする。地下室があったの、と本に視線を落とすアリア。

 昼間の絶えぬざわめきの中に訪れる、沈黙。

 数十秒も続いたこれを破ったのはアリアだ。店内に戻るのであろう店員に声をかけて飲み物を一つ、注文した。同時にカバンから取り出した硬貨を差し出す。それを受取ろうと店員が手を差し出そうとしたとき、ラクリが制止した。私がおごるわ、と懐から取り出した硬貨をテーブルごしに手渡した。

 一瞬だけ驚きの顔を見せたが、ありがと、と一言の礼。

「別にいいわよ。こんなとこで出会うなんて思わなかったし、そのお祝いとでも思ってて」

 店員がアリアに向かって一礼して立ち去る。ラクリが余った硬貨をしまって、腕を組んで静かに体勢を整える。

「それで? なんでここに来たのよ。私みたいに移住するの? よければ、顔の広いやつを紹介するけれど」

 そこで初めて、アリアの顔から笑顔が消えた。長く静かに息をはいて、吸い込む。何かあったのね、とほほ笑む紅竜はカップをつまんで大きくあおる。

「まぁ、ここには何でもあるしね。ちょっと息苦しいけれど、それくらい我慢できるならありなんじゃない?」

 二人の外側にある声と物音はいまだ絶えず、やかましく変化していく。空になったカップが置かれる音がやけに大きく鳴り。次に口を開いたのはアリアの方である。

 あのね、とためらい気味の言葉に、ラクリは黙り続けた。

 影落ちる世界樹の市場で、ちっぽけな生き物たちの中には荷物をまとめている者が見え始めた。


 私が生まれる少し前くらいから、紅竜の一族は人間と交流を始めていた。私は知恵の共有がひと通り終わったくらいの世代なのだろうか。おかげで村に出るのは別に苦ではなかった。

 その人間たちが建てたのが図書館。本というものに魅せられていた私が足を運ぶのは必然だったんでしょう。育て親の持っていた、魔法使いについて書かれていた本がきっかけだが、本格的に読み漁り始めたのはアリアと出会った頃だったっけ。

 紅竜は基本的に、狩猟とちょっとの農業の糧にしか関心がなく、字に興味を持つ紅竜はいなかった。魔女の絵本を眺めていた私を思ってか、あるいは邪魔者だったのか、育て親は好きに本が読めるようにと、人間たちから字を学べるよう手配をしてくれた。

 おかげで私は紅竜の中でも変人になってしまった。狩りも下手なわけでもなかったし、特に気にすることもなかったけど。

 既に独り立ちをした私は巣から、日課のように図書館に通っていた。狩りは帰りに済ませることにしていて、獲物がなければ、そのときはそのときだった。扱いなれた弓と矢を背負って、同族と顔を合わせることもほとんどなく、書物の楽園にたどり着くのだった。

 紅竜の生息する森から出ると人間の村があり、外れに古めかしい図書館が建っている。おはよう、と声をかけてくる人間も少なからずいた。適当に言葉を返しつつ扉をくぐって、中から漂ってくる独特のにおいを吸い込む。虫よけのにおいだ。

 市場と比べればちんけな村。そのわりにはかなり大きな図書館だった。ずらりと並んだ本棚に、本の前で立ち読みをしているのだろう人間たち。まれに村では見かけない者もいたが、今思えば村への珍客だったのだろう。

 まだ読めていない本のある棚の前へ行き、見覚えのある本を取り出す。覚えていたページより少し前を開いて、読み始めた。弓を背負いながら本を読むなど、今考えればありえない。家で紅茶を飲みながらじっくりと読むほうが楽しめる。今日みたく、雑踏を隣に変わった飲み物をいただくのもいいけれど。

 ある日のこと。たしか、一冊、二冊と読み終えたのはお昼ごろだったろうか。視界の隅にいつの間にか現れ、とどまり続ける影に気が散り、視線をそちらへと向けたのだ。私よりも小さな、上下一枚となっている薄い青の服を来た人間の少女だった。

 じっと私の横顔を見つめながら、ぽかんと口を開けている。見覚えのない子供だったが、どうしたの、と声をかけた。呆然としていたかのような彼女から返事はなかった。今の私なら、面倒だからと無視しているかもしれない。

 いつまで待っても動かない子供にしびれを切らした私は、読んでいた本のタイトルとページを覚えて元の位置に戻した。そして彼女に近づいて、迷子なの、と手を差し出してみた。私の胸くらいの身長だったろうか。

 すると子供は両手を広げて私を捕まえた。今よりも太かった私の右腕を抱きかかえ、引っ張って、こっち来て、とようやく口を開いてくれた。折角の読書を邪魔されたけれど、私は返事もせずについていくことにした。特に、理由はなかったけれど。

 引かれるままに図書館の少し奥に行くと机と椅子が並んでいる。とはいっても全て立脚類用だったから、使うことなんてなかった。尻尾がどうしても邪魔になる。

 彼女が連れて行った先は机の端っこ。抱えるほどの分厚く大きい本がそこには開かれていて、挿絵と文字があちこちにちりばめられている。

 私を解放した少女は椅子に膝を立てて乗り、机に身を乗り出しつつ本の真ん中を指さした。きらきらと輝く目と笑顔を私に向けながら。

 なんだろう、とよくよく本を見てみる。私の好みは小説が中心だったから、それが図鑑であるということは後日知った。そこには紅竜の男と女らしい模写があった。色も雑ながら塗られていて、私よりも鼻先が長く、脚は細かっただろうか。

「それは、私じゃないわ」

 この少女は、図鑑で見つけた紅竜を私に見せたかったのだろうか。どうして。それが理解できなかった。

 それのモデルは私じゃない。色あせ具合を見ても、数世代前の紅竜の模写だ。それでもなお、私と図鑑を見比べる彼女に名を聞いた。不愉快、というわけではないが、聞いておいた方が親を探しやすいだろうと考えたからだった。

「アリア! あなたは?」

 思わず目を見開いたことはよく覚えている。どうしてそんなことを知ろうと思うのか。私はそんなこと考えたことなかった。

 紅竜は幼少期の成長は早く、短い。そして独り立ちをしてからの期間がとても長く、老いはあっという間に進行して、亡くなる。もちろん私も例外ではなく、当時は独り立ちしてまだ百の日を数えたくらいだ。そういえば、アリアと私の誕生した日は近いらしい。

 種族の時間の流れは、どうしてこうも違うのか。人間のように長く子供であれたなら、アレンのこともどうにかなっていたのだろうか。

「ラクリ。ラクリ・エスト」

 教えてほしいと言ったのに、教えないのは不公平か、と考えて名乗った。そうなんだ、と笑みを深くした子供は、椅子から私の胸に飛び込んだ。椅子がバタンと大きな音を立てて倒れた。同時に、不意の衝撃に対して尻尾に力を込めて倒れることだけは免れる。静かであるべき図書館の中は、少しやかましくなっていただろう。

 ひとまず、私はアリアのしたいようにさせることにした。理解が追い付かなかったが、下手に拒絶するよりかはいいだろう、と。

 どうしてここにきたの。本があるから。どんな本が好き。小説。好きなたべものは。肉。おうちはどこにあるの。森の中。おとうさんはどんなひと。知らない。おかあさんは。それは、産んでくれた人のこと。わかんない。

 邪魔にならないよう、彼女を抱えたまま部屋の隅に座り込んだっけ。机の並ぶ空間の端で尻尾を丸くして、アリアを膝の上に乗せて。子供の好奇心は私に向いていて、そんな話をしていただろう。なぜどうでもいいことばかりを知りたいのかわからなかったが、適当に答えていた。どうせ、今日までの関係だ、と。

 その日の閉館間際まで、私たちは隅っこにいた。そしてその時間に、私は人間の男から声をかけられた。アリアの父親だと自ら名乗り、同時にアリアもおとうさん、と呼んでいただろう。

 彼は私のことを知っていたらしい。軽い世間話をして、仲良くしてやってください、と頼まれた。適当な返事をしただけだったか、その時は。

 以来、アリアはことあるごとにめざとく私を見つけ出してはまとわりついてきた。とうとう折れた私は彼女の友達としてちょくちょく遊ぶようになったものだった。


「あのね、図書館。あの図書館を再建しようかと、思って、さ」

 へぇ、とラクリが悩む素振り。

「そのためのお金が要るの。まさかあの人がこんなものを隠し持ってるとは思わなかったけど……これを元手に建て直したいの」

 軽くにらむように、じっと目の前の幼馴染を見つめるアリアに、ラクリは一言、金額を述べる。

「私が、今出せるのはこれくらいね。時間をくれるなら稼げるだけ稼いでくるけれど」

 市場の隅っこの土地は借りられるだろう額。魔法に関すると考えられる本の遺産にしては破格の値段に、うつむき押し黙る女性。一方、ふと視線を道にやる紅。少しばかり人通りが減ってきただろうか。向こう側の店がちらちらと見える。

 何か思案しているらしい友を目の前に、ラクリは本を再び取り出し開いた。ほぼ同時に、お待たせしました、と店員がアリアの席に飲み物を置く。氷が浮かんでいて、カップに水滴が見える。だが当人は景色が見えていないらしく、返事もせずにじっと遺産の本を見つめていた。

 店員が一礼して立ち去ってから数秒、ようやく面を上げた。

「もっと、欲しい。まだまだ足りないの」

 覚悟のような、熱を持った視線が上がる。

「分かった。じゃあ、次に会う予定を決めましょうか」

 たったの数行を読み進め、改めて本を閉じる紅竜は軽くほほ笑んでいた。


 あるときアリアは私の巣に遊びに来ていた。森の中のどこにでもあるような木の下が、私の巣だった。適当に必要なものを集めて作った寝床があるだけだ。本くらい数冊欲しかったものだが。いつかどこかで、天気を気にする必要のない住処が手に入ればいいな、と思ってたっけ。

 アリアも大きくなり、私の首下くらいまでの身長になっていた。出会ってからどれだけの月日が経ったか忘れたが、それなりの時間だった気がする。

 たしか、アリアから言い出したんだっけ。紅竜の住処に行きたいって。何もないわよ、と返したけれど、それでも行きたいって。突然どうしたのかと思ったが、まぁいいか、と彼女を招いた。

 図書館の裏の森の入り口でいつもの彼女と待ち合わせをして、それなりに歩いて到着する。何も出せないけれど、と振り返ってみると、アリアの顔がどこか厳しいものになっていた。思わず目を見開いてどうしたの、と声をかければ、聞いてほしいことがあるの、といつになく真剣な表情となる。

 雑草と土だらけの地面に座り込んだ私は、アリアの話を聞いた。溜まっていた水が堰を切って川となり、激流となっていくような熱と暴力の言葉が私に投げつけられた。実際にそれは私に投げつけられたでもないし、受け止めることはしなかった。ただ私は聞いていた。特別同情もできなかったし、しようとも思えなかった。

 どうしたらいいと思う、という質問が飛んできた。事のてん末から分かることが、私に答えられる唯一のことだった。

「アリア、あんたはどうしたいの? 私はできるだけ、あんたに協力してあげるけれど」

 できるだけの、彼女のためになるだろうと思った言葉。同時に無難で、誰のためにもならない言葉。後悔はしていないが、当時の彼女がこうしたいと願うきっかけの一言だ。

「あの人に、目にもの見せたいの。どうしたらいいと思う?」

 光の灯った少女に、私は提案してしまった。こうすればいいんしゃないか、と。

 ほんの序の口の魔法を覚え始めた私は手を貸した。アリアを親友だと思っていたからこそ。

 後日、村の図書館で火事が起こった。

 数秒前までは手のひらで踊っていた火種が、枯れ草を食み、貪欲に木材までむさぼっていく。星空は煙でたちまち曇り、思わず咳を一つ。離れるわよ、とアリアと共に森まで下がって、派手な宴をただ見つめていた。

 一時、勢いが強くなることはあったが、森には燃え広がらず、きれいに燃え尽きた。私のえり好みによって救われた本たちは、今も私の家の本棚に入っている。

 その後は、なるようになるしかなかった。アリアの母は病で亡くなり、父も図書館が燃え尽きて、アリアたちの生活は毎日食つなぐことがやっととなってしまった。

 彼女は、大好きな母親が寝床で、今にも息絶えそうなほど苦しんでいるのに図書館に引きこもっている父親を憎んでいた。彼女自身も大好きな本だったが、大好きな人を救ってなんてくれないもので、向けようのない矛先は彼へと向けられてしまったのだ。

 そしてアリアは、私のせいにすることもできたのに、単独犯でやったのだと言い切った。父親もそれを怒鳴ることもせず受け入れた。怒りにも似た表情をしていたが。

 紅竜たちの間でもその火事は話題になったが、私にも矛先が向けられることはなかった。育て親がうわさ話を聞きつけてやってきたくらいだ。

「ラクリ、おまえが放火犯とつるんでたって聞いたけど」

 彼女は手土産に適当な野菜を渡してきたか。

「私は何も。あの子とは友達なだけ、よ」

 可もなく不可もない答えは、どう映ったのだろうか。


 次に会う予定を決めると、あとは雑談になった。ラクリはリエードやテレアのこと、アリアは紅竜族が森を切り開いて家を建て始めたことなどだった。

 やがて先ほど届いた飲み物も氷だけになり、二人はほぼ同時に席を立った。遺産の本も、読まれていた本も元の場所に納められた。

「ああ、そうだ。遺産とか高値で売れるし、宝石なんかも売れるわよ。もしあれば、持ってきたら? それの価値の分かるやつ、紹介したげるから」

 そのときはよろしく、とアリアはようやくまぶしく笑う。

「それじゃあ、また今度。ちゃんと用意しててよ、ラクリ」

 軽いほほ笑み。

「その本は欲しいから、用意しとくわ。またね」

 二人は別の方向へと歩き出した。紅は市場の中心へ、人は出口へ。

 雑踏の中へまぎれていってしまう後ろ姿は、お互いに振り返りもせず、ただ黙って自らの道を進む。

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