巌(いわお)の子
いつもの洞窟の中で、テレアは立脚類の姿で胡坐をかきながら欠伸をしていた。
どうかされましたか、と外からコツコツと歩いてきた獣のテラーが尋ねる。市場にて買い物をしてきたらしく、紙袋を抱きかかえている。中には少しばかりの食糧があり、ひとつをテレアに手渡す。
「おお、すまんな。いや、テルが外に出たい出たい言うとるんやけど、世間知らずがだいじょぶか、思うて」
市場で売っている白い果物だ。テレアは口を大きく開き、かぶりつく。果汁が溢れ、口回りの岩肌がしっとりと濡れる。
「世間、というより、市場のことは市場で学ばせる方がいいですよ。傭兵でも雇って護衛でも頼んだらどうですか」
それもそうかねぇ、と彼女はうわのそらにぼやくが、テラーはそういうものです、と紙袋から棒状の菓子を取り出してかじり始める。
「テルに護衛つけんなら、やっぱ信用できるやつがええなぁ。誰か知らんか」
ひんやりとした空間に、食事の音が響く。
「護衛……傭兵なら、少し探せば見つかるでしょう。あるいは、騎士にお願いするだとか」
そうかねぇ、と顎と首の間を掻くテレア。その体は硬そうな岩に覆われているものの、何も身につけていない。
「商売相手やけど、騎士のやつらを信用できるかいうたら、難しいんちゃう? なんかあったらそっち優先やろし」
それは契約によるかと。テラーが袋を地面に置いて、ふわふわとした尻尾を左右にふる。
「時間を、仮に陽が昇り、落ちるまでとして、畜産物一頭分は飛ぶでしょうか。それに加えて、テルの食費……はいりませんね。しかし騎士たちの食費もこちらが払うとなれば、それなりに、といったところでしょう」
そうかそうか、と茶色の瞳が歪む。果実を種ごと食い、指に就いた果汁をきれいになめとって喉を鳴らす。
「でもな、人間のあのくらいの年頃は、警戒心が強いやろ? やったらあんたか、あたしが付き添った方がええんとちゃう。騎士連れてくんのは、それからでもおそうはなさそうやけど?」
そうですね、とテラーが菓子を食べ終えて、包み紙を袋の中につっこむ。
「あなたはいつもここにいるわけですから、ちょうどいいでしょう。たまには羽を伸ばしてきてください。ここは私が預かりますから」
では明日にでも、とテレアが微笑み尻尾を揺らす。
二人の視線は交わらない。代わりに、同じ場所へと向けられていた。わりと新しい住人のいる部屋への扉だ。
一組の夫婦から赤子を、半ば奪うようにして迎え入れたテレアは、彼をテルと名付けた。おまえの名前と似とるな、とテラーに言ってみたが、あなたも同じでしょう、と言い返された。
人間本来の成長以上に早く育っていくテルに、テレアは特別驚きもせずに、魔力の満ちた部屋を提供してやった。しかしその弊害か、言葉の覚えは悪く、テラーが指導をしている。だがテルが覚えたのは、つたない言葉と、外には世界が広がっていることだった。
狐の購入した本が好奇心をひきつけたのかは分からないが、それに伴い、隙を見ては部屋を出ようとするようになったのだ。もちろんテレアが監視しているために、抜け出すことは叶わない。
そして明日、彼女は子供を連れだしてみようと決めた。
テルが満足するのか。それが一番気になるところだったが、案じていても仕方のないことだった。
ダンジョン洞から出た二足歩行のテレアはテルと手をつなぎ、歩いて下まで行こうな、と歩き始めた。だが目の前に、どこまでも広がる世界に好奇心を押さえきれないのか、子供は視線が右往左往としている。
「おちつき、テル。落ちたら死んでまう」
ぎゅっと強めに手を握って見せても、無駄だった。赤寄りの茶色い髪と瞳を持つテルは朝焼けに照らされ始めている市場を指さして、はしゃぐ。
「えレアっ、あぁに?」
天真爛漫な子に、優しく答える。
「市場や。テラーが持ってきたものも、あそこで買うてくるんよ」
買うてく、と不思議そうに反応する彼女が、どこまで理解をしているのかは不明だが、疑問に一つずつ答えてやる。
世界樹に、荒れ地に、家、その隙間を動く者、樹海、花、草、と何に対しても疑問をもたげるテルは、市場につく頃にはおぼつかない足取りになっていた。疲れたやろう、とテレアが片腕で抱きかかえれば、間もなく眠ってしまう。
二本足のテレアは、一般的な人間の男よりも体格が二回りほど大きい。テルは、人間ならば自由に駆け回り始めるくらいの体格だ。故に、テレアは片手だけで彼の体をたやすく抱きかかえられる。
「可愛らしいやつやねぇ。ちゃんと生まれとれば、あたしんとこに、くることもなかったやろうに」
テルの頬に鼻先をすりつけてやってから市場へと足を踏み入れる。洞窟を出たときよりも増えている人々に、面倒そうな視線をやりながら、ただ歩いていく。何も身に着けていない彼女の姿に、行きかう者たちが時折視線をやるが、彼女は気にしない。立脚類たちの体格が、似通っているからであろう。
テレアは市場の中でも一番大きい公園へと向かった。テラーに聞いた通りの位置にそれはある。空いているベンチを探して座り、テルを横たえて膝枕をしてやる。尻尾を軽く揺らしつつ、鱗だらけの手で柔らかい肌を撫でてやりながら、公園で遊ぶ者たちをながめていた。
球を投げ合い遊ぶ者に、追いかけられ逃げる者。隣のベンチでは商人らしい獣が朝食を取っている。軽く首をまわしてみれば、白っぽい空の地平線、公園へと続く道から続々と市場の住民が歩いてきている。
膝上のテルが寝返りを打った。テレアは彼に、声をかけるでもなければ、起こすこともしない。ただ、物珍しそうに公園を眺めているだけだ。
テレアは長い間、荒れ地にいる。市場が次第に大きくなっていっても、洞窟から出なかった。
「いつの間に、こんなでかくなったんやろうなぁ。あたしの気づかん間に」
ここにやってきたのは、いつだったろうか。彼女の記憶にあるのは世界樹だけが三種の大地の真ん中に立っている景色。
「こんなんやから、騎士の連中もくるわけやね。エストとかも」
背後を見やれば、所せましと家屋が並んでいる。者の気配もひしめいている。今日も一日が始まろうとしている。
「樹は、変わらんのにねぇ。周りに蟻みたいに集まりよって」
視線を上げて、壁のようにそびえ立ち、天を覆いつくさんとする世界樹に目を向ける。その天を目指す姿に目を細める彼女は、また公園に視線を戻す。昼食などにはまだ早いだろうが、準備を始めている屋台が見え始めている。出される看板メニューは全て、軽食ばかりだ。
特に変わり映えしない景色をひたすらに見つめる。あるとしたら、間違いだらけの間違い探しだろうか。
じきに昼が来るだろう頃に、テルが目を覚ます。んん、と膝の上で伸びをする子に、
「よう寝れたか。まだ、遊べるよ、テル」
優しく語る竜の手が頭に伸びた。撫でられながらも、少しの時間をおいてぱっちりと目を開いた子供はあたりを見回すと、すぐさま彼女の脚にしがみつく。眉を軽くひそめた竜は、ああ、と合点がいったように声をかけ始める。
「怖いか、テル? 大丈夫や。なんも怖いことはあらへんよ」
警戒。親から離れまいとする本能。
「初めて、やもんな。あたしと少し、歩いてから帰ろか、な?」
答えない我が子を向かい合う形で抱きかかえたテレア。ゆっくり慣れたらええよ、とささやくと、言葉を知ってか知らずか、彼から震えが引いていく。
二人がまず向かったのは、屋台の並ぶ通りである。様々な匂いのする場を通り抜けて、次は人通りの少ない道を選んで進んでいく。
食欲をそそる道を通り抜けたとしても、二人は何も口にしなかった。ただ歩いた。テルが屋台に向けて指をさすも、なんやろうね、とテレアもはぐらかしていた。彼女は本当に、それを知らなかったからだ。例えば、野菜と肉を何かに挟んだものや、橙色の飲み物などだ。
止まることを知らない輝く目には、あらゆるものがかわるがわる映し出されていく。右見て、左見て、上を見れば、下を向く。時折テレアが声をかけてやるが、せわしなく子の興味が移っていく。
ドラゴンも観光がてら、あたりを見渡していた。だが建物ばかりの味気ない景色に、いつしか彼女は道の先ばかりを気にしていた。気配がどれだけあるのか、どんな音がするのか、あるいは、空気が淀んでいないか。
次に二人が立ち止まったのは、市場の中でも一番高い位置にある公園だ。少し小さいためか、はたまた別の要因か、誰もここにはいない。振り返ってみればしんと静まり返る路地があり、衣ずれの音でも聞こえてきそうだ。
「ちぃと、やすもうか? それから、帰ろか」
テルと目線をやると、つぶらな瞳がテレアに向けられた。質問の意図が分からないのか、あるいは聞かれたのだと認知していないのか、テルは何も答えずに見つめ返す。微笑み、彼の頬に鼻先をこすりつけた母は公園に進入し、子を下ろしてやった。
え、と言わんばかりのきょとんとした顔が、遠ざかっていく顔に向けられる。短い腕を伸ばして、手を取ろうにも、顎に添えられたそれに届くことはない。考え込むそぶりを見せたテレアは何もない空間を、来た道とは反対方向をぼんやりと見つめていた。小さめの家屋が並ぶ市場だ。
ぺちぺちと彼女の腿を叩いても反応してくれないと知るや、テルはよたよたと走り出す。やがてタッタッタッと絶え間なく鳴り始める音に、心なしかテレアの口角も上がる。
二人の専用の空間。世界樹の陰からわずかにはみ出ている日向に座り込むテレア。広すぎる空間を走り、端っこにある植物に関心を寄せるテル。
時間は過ぎていき、誰もこないままに長い影を落とすこととなった。帰ろか、とテレアが彼を抱き上げ、方角を確認する。
そこは草原の方角のど真ん中であり、彼女たちの歩いてきた、樹海と荒れ地の境目とは逆であることを知る。
帰路へとついた二人は、荒れ地に面する市場を通ることになった。
荒れ地は市場の中でも土地が瘦せていて、畑があまりない。あったとしても細く小さな野菜ばかりが採れる小さな畑ばかりだ。そのためか、あまり裕福ではない者が多く、治安がよくないことでも有名である。しかし手荷物がテルだけの彼女にとっては、ただの通り道にしかならなかった。
あちこちに汚れの目立つ者たちの中を通り抜けながら、ふとテレアが道端に立つ者に視線をやった。その横を通り抜けながら、見覚えのある獣と人間の姿を観察する。
身なりを整えれば美しい茶の毛並みを持つだろう立脚類の獣の妻は、上下ひとつとなっている汚れた一枚の服を着て、人間の夫の肩に押し付け嗚咽を発している。金の髪をもつひょろっとしていそうな男は、こうするしかなかったんだ、と彼女を抱いている。
どうして、どうして、と嘆き続ける妻に細めた視線をやるテレアに、二人は気づかない。テルにじっと見つめられても、動かない。
やがて二人は何事もなく帰宅した。テラーにテルを任せて、テレアは普段の巨体へと戻る。背中に顎を置いて、ぼんやりと巌の中を眺める。外の世界と比べ、ひんやりとした空気の漂う暗い空間。
テルを寝かせたテラーが彼女のもとへと戻ってきて、どうかされましたか、と大きく仰ぎながら口にした。そうやな、とテレアが答え、続ける。
「変なこと聞くけど……あんたは親のこと、覚えとるか? んで、子は親を覚えとるもんなんかな」
どうでしょうね、とテラーが尻尾をふわりと振る。
「私の親は、あなたですよ。母上。あなた以外の親なんて、覚えていません」
にこにこと微笑む彼に、そうか、とテレアの目が閉じた。
「あたしも、もう親の顔なんて忘れてもうた。そうやんな。忘れる、もんやから」
洞窟の中が寝息で満たされるのは間もなくだった。テラーは姿を消せば、眠りだけが闇を支配する。洞窟の入り口に瞬間移動したテラーは、やけに雲の多い空の下で、一人の時間を楽しんだ。
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