暗がりの洞窟-岩を操り形持たぬもの-
穴ぐらは客人を拒まず
世界樹に雨が降っていた。どこまでも続いている曇天の雲が広がっている。
雨が降ること自体は珍しくないのだが、今日はまれに見る豪雨だ。故に、いつもは活気に溢れる市場も不気味に静まり返っていた。ザァザァとひたすら雨が降りしきる中、外に出ている者といえば、家を持たぬ者か、あるいは雨に濡れたがる物好きか。
世界樹が傘になっているにしても、高い上に広いため、市場には大粒の雨水が降ってきやすい。よく家屋の屋根をドンドンとたたく音がするものだ。
そんな中、荒野に面している家屋のひとつから、扉を乱暴に開き飛び出してくる者がいた。後を追うようにして、戸締りもせずにもう一つの人影が飛び出す。明かりがついたままの屋内には、雑然とした家具が並んでおり、食卓には食材の切れ端がちらかっていた。
雨に濡れないために、できる限り全身を布で覆い隠し、先んじていた者が向かった先は荒野である。小さな門を潜り抜け、遥か彼方に見える崖へと駆けていく。追う者は何度か見失うものの、ついていく。
二人は崖へとたどり着き、立ち尽くした。目の前にそびえるそれは、市民には到底踏破できるようなものではない。加えて、この豪雨に濡らされた、岩肌と体と荷物では。
やがて先んじた者が、この崖は樹海に続いている、ともう一人に。まるで名案だ、と言わんばかりの明るい声で、また走り出す。また遅れる者は、待って、と掻き消される声を発して彼を追いかけた。
大粒の雨粒は、いまだに降り続く。
やっとの思いで崖の上にたどり着いた男は、ぽっかりと口を開ける二つの穴のうち、手前へと駆けこんだ。雨風をしのげる場所にようやくたどり着いたというのに、一息つく間もなく奥へと向かう。
かなり遅れて現れた者は崖に空いている二つの穴を見比べて、奥の穴へと足を踏み入れる。ふた息ほど休憩を挟んでから進む。
異なる道へと進んでしまった二人は、やがて合流した。どうして向こうからでてくるんだ、と先の者が問えば、分からない、と後の者は答える。いくらか落ち着いたのか、ようやく二人は足並みをそろえた。
どこまでも続く、薄明りの灯る洞窟を進む。
どこまで続くのだろう闇へと飲まれていく。
交わす言葉もなければ、引き返すこともない。
「やれ、今宵の営業は終わっとるんよ。雨も降れば、客も来んし」
洞窟が開け、広間のような空間が二人を迎え入れる。その真ん中にたたずむのはドラゴンのテレアである。たとえるならば、寝起きの目をこすっているような声を出しながら、呆れている様子の彼女を、二人は強い眼差しで見上げる。
「はたまた、別件かねぇ? 防水の衣も身につけんところを見るに、よほどのことがあったんやろ。もしくは、ただの貧乏人かねぇ」
くっくと笑う彼女に対し、男が大きく息を吸い込んだが、少し待ちぃ、とテレアが制止する。
「風邪ひいて、悪い噂流されたらかなわんから、体拭き。今テラーに持ってこさせるし」
テレアの気遣いの言葉の数秒後、獣が夫婦の後ろから足音もなく現れて、それぞれにタオルを被せた。二人が驚いて声を上げ振り返るも、すでにテラーの姿はない。ひとまず来客は、身体についた水滴をふき取った、しかし衣服はべったりと体に張り付いたままだ。
テレアが首を伸ばして、二人の顔をよくよく見ようと近づく。申し訳程度の雨除けの布をとった顔が、ようやく顕わになる。人間の男に、立脚類の女の獣だ。
そして、男の腕には小さな子供。
「おう、可愛らしい。水に濡らすのはもったいない家族じゃねぇ」
穏やかな、微笑んでいそうなテレアに、男は改めて息を吸い込んだ。
「娘を助けてくれ! 頼む!」
喉から飛び出したのは広間を震わせるほどの叫び声だった。子供をしっかりと抱きかかえながら、続けて勢いよく膝をつき頭を下げた。
「娘を! ドラゴン様っ!」
続けて、その妻も同様に膝をつき、同じく声を張り上げる。わんわんと木霊する叫びに、テレアは目をぱちくりとさせ、息をつく。
「何様や、あんたら。営業時間外に来といて、何の説明もなく助けろて。なにせぇ言うんや」
気落ちしたのか、いささか声音が数段階低くなる。顔をあげぇ、と言われた夫婦はがばりと面を上げ、言いたいことを口にし始めた。互いに待つこともせず、言いたいことを口走る。
静かなはずの洞窟が、一気にうるさくなった。広間を占領しているテレアも、彼女の後ろで腕を組んでいるテラーも、二人を咎めたり制止したりはしなかった。息継ぎをする以外に、口が止まることはなかった。
ようやく静寂が戻ってきたころ、彼らは肩で息をするばかりだ。
「落ち着いたか、二人とも。話はよう分かった。やから、少し休み。こっからはあたしが話したるから、な?」
子供に諭すかのような穏やかな言葉を聞いた二人は、追い詰められたような顔に同じ色の希望を灯す。テレアがやれやれ、とため息。
「まず、あんたらは夫婦になって、子供が産まれた。まぁ、異種族で結ばれて、子供を成すなんて珍しい例でこそあるけれど、ないわけやないしな。で、生まれたのが、その子やと」
はい、と男。彼に抱かれる子供は、石のようにおとなしい。
「で、産まれて間もなくは健康そのものやった。それが数日前の話や、と」
はい、と女。視線を我が子へと注いでいる。
「やけど、数日前からその赤子は何も口にせんと。何を用意しても、どう工夫しても、医者に話を持ち掛けても、匙を投げられる始末……要は、そういうことやんな?」
その通りです、と父親が我が子を包んていた布を少し緩め、子の顔をドラゴンへと示す。テレアが覗き込めば、蒼白とした小さな顔がそこにはある。
このドラゴンは、この洞窟から出ることはあまりない。出たとしても、この崖の上に出るくらいだ。市場に出たこともなければ、赤子など見たこともない。世話の仕方も分からない。
「で、こっちに連れてきた、と。あたしゃ王でなけりゃ神でもない。一体何を求めてるん。テラーも、何も知らんやろうし」
ため息。
「この子が助かるならば、なんでもいたします。どうか、ドラゴン、様っ」
冷たく見下ろす彼女に、動じることなく、真っすぐ見上げる。数秒の沈黙。視線を先に逸らしたのは、テレアである。
「まぁ、ええやろ。なら、こっちの条件を飲んでもらおうなぁ」
特別、企んでいる様子もないテレアの言葉に、夫婦が顔を見合わせる。痩せこけた頬にはっきりとした笑みが作られる。
「ひとつ、二度とここへは来ぉへんこと。ひとつ、このことを他言せぇへんこと」
はい、はい、と頷きと共に契が立てられていく。
「ひとつ、あたしゃ何もしていないし、何も引き受けていない」
テレアの目が細められて、冷たく見下ろす。
「その子供は、この洞窟の前に捨てられとった。そしてあんたらには、そんな子供はいなかった、ことにしよか」
返事が止まる。
「どれか一つでも飲めへんいうなら、さっさと連れて帰り。その子助けたいなら、置いていき」
ドラゴンが、にたりと表情をゆがめた。対照的に、夫婦の顔が青くなる。子が、わずかに父親の陰に隠れた。そんなこと、と母親が牙をむこうと息を吸い込む。
「黙りぃ。子供を救いたいんやろ? ならそこにあんたらはおらんわ。本当に助けたいんなら、理由も聞かず、置いていき。助けたいんやったら、なぁ」
だがそんな暇を与えないドラゴンは言葉を選ばせない。
「はよぅ、置いていき。その子はあんたらには手におえん。その子供は、運が悪かったんや」
夫婦が顔を見合わせた。
「見殺しにはせん。やから、助けたいなら、置いて、帰って、忘れた方がええ。そうしぃ」
長い沈黙。ザァザァと降りしきる雨音が遠くから反響していた。洞窟の奥だというのに、響いていた。
山のようなドラゴンが首を曲げて、動かなくなった。目だけを彼らに向けて、動かなくなった。何度もお互いに視線を合わせる夫婦はそれだけで意思疎通を図る。
いつまで続くのだろうと思われた時間は、来客が去ることで破られた。二人が雨に打たれ始めたころに、やれやれ、と出口の方向からテラーが歩いてきた。彼は地面に置かれた布の塊、赤子を抱き上げて、その顔をじっと覗き込む。
「どうするんです? いやですよ、子守りなんて」
眉を八の字に歪ませながらの言葉だが、赤子は反応しない。力なく、ずっと目を閉じている。
「あたしがやるわ。魔力を分解なりなんなりとしてやりゃええ」
それはよかった、と安堵するテラー。当然やろ、と強気のテレア。
「それで、この子はなんで食べようとしないんでしょうか。そう言うからには、何かご存じなんでしょう?」
赤子を包む布を軽くはだけさせると、痩せてこそいるが、そこそこ大きい体があった。産まれた直後ではないことは明らかだ。夫婦の言葉に嘘はないらしい。
テレアがふむ、と首をかしげながら近づく。
「テラー、生物の体は魔力で構築されとることは知っとるよな?」
ええ、とテラーが答えながら赤子を布で包みなおす。
「今この世は魔力でできとる。この岩壁も、水も、硬貨もな」
同時に、テレアの巨体が形を失った。塊だった鱗が粘土から、泥水へ。目から光が失われ、粘土の海へと溺れて、山が土砂崩れを起こす。その代わりに形作られるのは、もう一つのドラゴンの姿である。
「やけど、基本的に生物の体は、その当人特有の魔力で形作られとる。やから、身体は混ざらんし、同時に、簡単には燃えないし、水にもならん」
溶けていたものがなくなり、彼女はぱちりと目を開く。茶の瞳をテラーへと向けると、次は彼女が赤子を抱く。だが慣れていない様子だ。
「ええ。そして食べることで魔力を吸収する。魔力は生命維持に必要なものですからね」
手の空いたテラーは背筋を伸ばして、細い目で二人の様子を眺める。
「そうや。んで、母乳は言ってしまえば、身体の魔力と、空気中に漂っとる魔力と中間のものや。赤子は、魔力を取り込む力は未熟やから、そうすることで最低限しか備わっていない能力を少しずつ鍛えるんよ」
けど、と続けるテレアが赤子に触れる。
「この子は、鍛えたい機関そのものが貧弱みたいやねぇ。生物としては欠陥品って言われてもおかしゅうないわ。市場の住民やなかったら、もうすぐ切り捨てられるところやったねぇ」
優しく、鋭い爪の背で柔らかそうな頬に触れた。
「で、どのようにして保護するのですか。何も口にしないのでしょう」
少し強めに。
「あの母親は、離乳食も何も食わすことができなかったことが問題やった。やから、魔力を直接食わせればええ。ここなら、魔力の調整もできるしな」
楽しそうに微笑むテレアの口が小さく開き、分厚い舌が踊る。
「約束したからには、食うとかはナシですよ。ひとまず、子供に必要なものを用意してきますので、部屋でも作っておいてください。夜泣きで眠れないなんて、嫌ですからね」
ため息を漏らすと、狐の獣は腕で円を描いて姿を消した。残された二人はしばらく立ち尽くしていたが、
「さて、もう少し、待っとき。魔力なら、好きなだけ食わしてやるから」
テレアが、これまで以上に穏やかな声で語り掛けた。思いもよらぬ出会いに喜んでいるのか、あるいは、感動しているのか。
彼女の語りと同時に、洞窟全体が揺れた。ゴゴゴ、と低い重低音と共にぱらぱらと石片が落ちてくるが、不思議と彼女の頭上へは落下しない。直線の落下が、奇妙なカーブを描いて避けているのだ。
広間が生き物のようにうごめき、空間が変化していく。石片が軽く積もり、揺れが収まったころには、壁しかなかった広間の一角に小さな部屋ができていた。部屋というにはあまりにも狭すぎるものの、赤子が収まるには十分な空間だろう。
「魔力の調整もしていかんとなぁ。忙しくなるんかねぇ」
そこに赤子を安置したドラゴンは、広間でぽつんとひとり、眺めていた。尻尾をゆらゆらと動かしながら、にんまりと。
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