第8話
私が村に来てから、ひと月が経過していた。そろそろ日にちを数えるのも億劫になってきた頃、よどんだ村の空気に風が吹き込んだ。
いやに外が騒がしいので表に出てみると、村の真ん中で人の塊ができていた。村長の息子と、村外から来た男たち(制服らしきものを着ているので、すぐにそうと分かった)が、何かを話し合っているようだった。急速な変化を嫌う村人たちの周囲には、早くも警戒と不審の気配が漂っていた。
何事かと思って木陰から様子をうかがっていると、その中に、見慣れた顔を発見した。彼だけ肌の色も服装も誰とも異なっていたので、風景画に落としたインクのように、存在が浮き立っていた。
「吉岡!」
私の呼びかけに、その男ははっとして汗まみれの顔を上げた。
吉岡は私の同僚だった。彼とは同期で何度も一緒に仕事をしているので、気心もよく知れている。いかにも人の良さそうな彼の丸顔を見た瞬間、涙が溢れそうになった。
「無事だったか、内藤。ずっと心配していたんだぞ」
「君、ひどい格好だな」吉岡は私の姿を眺め、からかうように言った。その時の私はシャツもズボンもよれよれで、髭も伸び放題の漂流者のような姿をしていた。忘れかけていた羞恥心が呼び起こされ、私は照れ隠しで笑った。
私から連絡が途絶えて間もなく、本社はすぐに吉岡を派遣し、N本島の警察と協力して私を探してくれていたそうだ。村長の息子は早々に本島へ使いを送っていたのだが、警察内の伝達ミスのせいで私のことが伝わらず、ここへたどり着くまでに時間がかかったのだと彼は言った。
「この国の警察官ときたら、まったく当てにならないんだ。仕事は遅いし、連携はとれないし……」
吉岡は警官たちを目の前にして、日本語でぼやいた。私は苦笑で答えるしかなかった。
私もまた、これまでの経緯について手短に説明した。ガイドのナバクと森の中を歩いたこと、動物と間違われて射殺されたこと、村の娘に保護されて、ヘビ料理を食わされたこと。世にも奇妙な体験の数々に、吉岡は「大変だったなあ」と、終始目を丸くしていた。
「今すぐ日本に帰ろう、内藤」
ぽん、と彼は私の肩に手を置いた。丸々とした彼の手は、痩せた私の肩にはずしりと重かった。
「社のみんなも、君の奥さんも、ひどく心配している。気の毒に、こんなところにずっといて、君もすっかり参ってしまっただろう」
と、吉岡は周囲を見回した。新たに訪れた異邦人を、村人たちは例のじっとりした目で包囲している。私の身を案じてと言うよりも、今すぐ自分がこの村から立ち去りたいという想いが、彼の丸顔にありありと描かれていた。
「いや、私はまだ帰れない」
私の一言に、「何だって?」と吉岡は目を剥いた。
「まだ、やることがあるんだ。新薬の原料を見つけていない」
「もういいじゃないか、そんなことは。事故に遭ったのだから、仕方がない。本社からもすぐに、戻れと言われているし……」
いいや、と私は首を振った。
「あと三日、いや二日待ってくれ。原料を手に入れる、あてがあるんだ。君から、あと少し待ってほしいと、本社に伝えてくれ」
なおも渋る吉岡をなんとか説き伏せ、今日のところは警官たちと共に、本島へと帰らせた。彼は二日後、またここに来ると約束してくれた。
珍しい島外の人間を見物していた村人たちも、三々五々、散り散りになっていった。村にはまた元の静けさが戻り、ぎらぎらと注ぐ陽光が陽炎を立ち上らせた。
振り返ると、ニギが少し離れた木の陰に立っていた。その頼りない小さな身体を幹に隠すようにしながら、瞳を不安で陰らせていた。
「ニギ」私は彼女の許へ駆け寄った。
「なに、あの人たち?」
ニギは、視線で吉岡たちが立ち去った方角を指した。
「私の、仕事仲間さ。迎えに来てくれたんだよ」
私の言葉に、ますますニギの顔が曇った。私が帰郷できるのは喜ばしいが、いなくなるのは嫌だ――素直な少女の表情には、そんな葛藤がありありと浮かんでいた。
ついに、この時がきたのだ――
私は、静かに息を吐いた。
「君に、話したいことがあるんだ」
そう言って、私はか細い肩に手を置いた。それは私のものよりもなお、繊細な輪郭をしていた。
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