第3話
翌朝、ナバクに連れて行かれたのは、N本島のほど近い海上に浮かぶ、孤島のひとつだった。
地元の漁師が操る船に運ばれ、私たちは島に上陸した。さほど大きくないその島は、ほとんどが木々で覆われ、海上から見ると森が覆いかぶさってくるような威圧感があった。
海辺には人の姿がなかった。石だらけの砂浜、青い水平線と白波、まばらに散らばる漂着ゴミ。あとは樹木、樹木、樹木。むき出しの自然が広がっている。若い頃に見た、冒険映画のジャングルそのものの世界に、私たちは立っていた。
本当に、こんなところに人間が住んでいるのだろうか。一抹の不安が、私の胸に去来した。
「ここからは歩きだ。森の中では、ワタシから離れるなよ」
そう言って、ナバクは木々の奥を指差した。もちろん、その先に人の手で作られた道などなかった。
私たちは登山家のように大きなリュックサックを背負い、森の中を歩いた。森での歩行は思っていたよりも過酷だった。足元は網目のような木の根が縦横無尽に張り巡らされているし、土は水気を含んで踏みしめにくい。そして何より堪えるのが、熱帯の暑さだ。常に熱の塊が首元にまとわりつき、何もしていなくてもイライラした。
運動不足の上に、南国の蒸し暑さに適さない私の身体は、すぐさまバケツを被ったように汗だくになった。
「ここから二時間ほど歩いたところに、知り合いが住む村がある。ちょっとのシンボーだ」
「二時間?」おうむ返しに言った私の声は、老婆のように上ずっていた。
さすがに現地人だけあって、ナバクは森の熱気も長時間の徒歩移動も、まったく苦にならないようだった。うっそうとした獣道をすいすいかき分けていく。私は犬のように喘ぎながら、彼の後に続くのがやっとだった。
濃密な森の空気が、肺を侵した。なぜか、市場で嗅いだのと同じ、何か腐敗していく甘い香りが、うっすらと漂っている。
森はどこまでも深く、終わりがなかった。空は晴れ渡っているはずなのに、あたりは薄暗く、風もないので耳が痛くなりそうだ。そびえたつ巨木、不穏な葉擦れの音、湿った地面の下で蠢く微生物の気配。そのすべてが、文明に汚染された私の侵入を拒もうとしているような気がした。
「少し、休ませてくれ」
私は立ち止まり、かたわらの樹木に手をついた。まだ森に入って二十分ほどしか経っていなかったが、すでに両足が鉛と化していた。
ナバクはそんな私を見下ろし、呆れたように腕を組んだ。
「情けないなあ。この調子じゃあ、村につくのは日暮れになりますぜ」
「そんなこと言っても、こう暑いんじゃあ……」私は顎の下から滴る汗を拭った。
「ナイトウさん、危ない!」
突如、ナバクの声が森に轟いた。違和感を覚えて木についた腕を見ると、黒い塊が這っていた。
それは黒地に赤いまだら模様の、巨大なクモだった。ルビーのような八つの目玉が、私の顔を無機質に見上げていた。
私は思わず悲鳴を上げた。慌てて腕をぶんぶん振り回すと、クモは茂みの中へと落ちて見えなくなった。
「あれは毒グモだよ。噛まれなかったか?」
ナバクが私の腕をとって傷の有無を調べた。幸い噛まれはしなかったが、悪寒で全身が震えていた。私は子どもの頃から虫が大の苦手なのだ。
「森で油断しちゃだめよ。危険な生き物がたくさんいるんだから」
やれやれ、と言わんばかりに、ナバクは首を振った。
こっちは日本の都会育ちなんだ、森のことなど分かるか――そう言ってやりたかったが、私はぐっと言葉を飲み込んだ。これも新薬開発のため、医学界のため、ひいては私の出世のためだ。
「……では、森で気を付けるべきことがあれば、教えてくれ」
「そうだね、たとえば――」
どすっ。ナバクの得意顔が、石のように固まった。
どこからか飛来した矢が、ナバクの太い首を貫いていた。その時、私は何が起こったのか分からず、数秒の間彼と見つめ合っていた。
ひゅぅ――貫かれた喉から、細く息が漏れた。
まるでスローモーションのような動きで、ナバクの身体がひっくり返った。神経を破壊された影響なのか、広げた手足の末端が、魚のようにぴくぴくと痙攣した。
「ナ、ナバク?」
彼の駆け寄ろうとした瞬間、空を切って矢が鼻先をかすめた。私はその場に釘付けになった。
矢の飛んできた方向を見た。数十メートル先の木々の奥に、男が二人、弓のようなものを携えて立っている。その姿は、ほとんど裸のようだった。
島の民族だ――こんなところで矢を使っているのは、彼らしか考えられない。理由は分からないが、私たちは彼らから攻撃を受けていた。
再び彼らが矢をつがえだした。私は荷物を放り捨て、弾かれたように森の奥へと走り出した。
とにかく走った。どこへ向かえばいいのか分からないまま、むしゃらに走った。死への恐怖で背骨が震え、足がもつれ、奥歯が鳴った。
どうしてこうなった。
彼らはどうしてナバクを殺したのか。どうして私まで殺そうとするのか。知らないうちに、彼らの禁忌を犯してしまったのか、はたまた、彼らは外部から来た人間と見れば、問答無用で殺してしまうのか――
疑問が頭の中で渦を巻いた。しかし、今は冷静に考える余裕はない。
ひゅう、と魔物が鳴くような音を立てて、矢が頭上を飛び越えていく。森の狙撃手たちは、ぴったりと私の後についていた。
「た、助けてくれ! 殺さないでくれえ!」
彼らに通じるはずがないのに、私は日本語で叫んでいた。子どものように泣き叫び、泥と擦り傷にまみれて森を駆け回った。
もはや魔術師の薬などどうでもよかった。新薬の開発だって、医学界の発展だって、自分の出世さえどうでもいい。
生きて国に帰りたい。安全で、言葉の通じない野蛮人などいない、平和な日本に――
その時、地面が喪失した。足元の地面が大きくえぐれ、穴のようになっていたのだが、背後の男たちを警戒していたせいで気づかなかった。
天と地が反転する。悲鳴を上げる間もなく、私は真っ暗な穴の底に落下した。そして頭部に衝撃が走ると同時に、意識が黒く塗りつぶされた。
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