第2話
その島に万能の妙薬が存在する、というのは単なる噂話でしかなかった。それを現実のものとしたのが、とあるアメリカ人の報告だった。
昨年、冒険家であり、フォトグラファーであるそのアメリカ人は、単身N諸島に連なる孤島の一つに足を踏み入れた。彼の目的は、いまだ文明の手が及ばない、未開の森で暮らす少数民族たちを取材することだった。
そこで、彼は突然の高熱に見舞われ、生死の境目をさまよった。
彼を侵したのは、チフスや天然痘に類する死の病だった。先進国ならばともかく、医療という概念すらない南の島でそんな病にかかれば、生存の見込みなどあるはずがなかった。手記によれば、彼は炎上する意識の中で、何度も死を覚悟したという。
しかし、彼は奇跡的にも生き延びた。彼を死の淵からすくい上げたのは、現地の治療師――いわゆる、魔術師だった。
現れた魔術師は、奇抜な衣装を纏った痩身の老人だった。彼は冒険家が滞在していた少数民族たちの村に住んでいて、村人たちからは神のように崇められている存在だった。
老人は奇妙な呪文を唱え、すさまじい液状の薬(動物の血を煮詰めたような、すさまじい臭いがしたそうだ)を冒険家に飲ませた。彼が現地で受けた治療はたったそれだけだったが、その翌日には熱が下がり、三日目には快癒してしまった。その後、彼は健康な体で帰国し、副作用や後遺症もなく、今でも祖国の地で元気に暮らしている。
彼はこの時の不思議な体験をSNSで詳細に綴り、「神の奇跡を見た」と過剰な表現でもって訴えた。しかし、世間ではさほど話題にもならなかった。科学と文明の恩恵に浴した人々の眼には、話題集めのほら話と映ったからだ。彼の手記はマスコミに取り上げられることも、ネットで話題に上ることもなく、眉唾なオカルト話として埋もれていった。
そんな中、魔術師の治療法――もとい、薬に注目する企業があった。
植物はあらゆる医薬品の根源だ。東洋医学の漢方には言うに及ばず、薬とは元来植物から抽出された成分から生み出されるものである。私たち人類は長い歴史の中で様々な植物の成分を研究し、調合し、利用してきたのだ。そして、この地球上にはまだまだ未知の植物が存在し、それらが驚くべき効能を有していても不思議ではない。
冒険家を治癒した魔術師の薬は、未開の地に自生する植物から作られたことが推測される。その植物が、未だ人類に発見されていない薬用植物であり、もしかしたら夢の万能薬になるかもしれない――そんなわずかな可能性に賭け、日本の大手製薬会社、F製薬から派遣されたのが、薬学の一研究員である私だった。
今まで薬学研究のために世界中を飛び回ってきたが、N諸島の環境や文化風俗には度肝を抜かれた。一番の都会であるという本島ですら、電気、水道のライフラインが十分に機能しておらず、政治も経済も教育も未発達だった。これが周囲に散らばる島に暮らす人々――これから接触しようという少数民族らとなると、テレビどころかラジオすら眼にしたことがなく、男も女も丸裸に近い格好で生活しているという。
この二十一世紀の世に、よくもこんな文明の空白地が残っていたものだ。生粋の東京都育ちである私は、この不衛生な環境下で生き延びられる自信がなかった。
「ナイトウさん、住めばどこだってテンゴク。ここだって美味しいものもいい女もいるんだから、悪くないよ」
そう言って、ガイドのナバクはあまり上手くない英語で私を励ました。
現地人のナバクはどこか胡散臭い中年男だった。南国に住む人間特有のいい加減さが弛緩した顔に滲み出しており、直感で一緒に仕事をしたくないタイプだと思った。だが、少数民族たちといくつもパイプを持っているというので、彼を雇わざるを得なかった。
美味いものを食わせてやる、と言われてナバクに連れてこられたのは、ぼろ小屋のような食堂だった。テラスと呼ぶには憚られる屋外席に通され、よく分からない肉(N島の人々は、豚肉のような感覚でトカゲやヘビの肉を食す習慣があるらしい)が浮いた、灰色のスープが出てきた。
ナバクはそれをうまそうに頬張ったが、私は手を付けなかった。早くも日本に残した妻の手料理が恋しくなった。
私たちは今後のスケジュールについて話し合った。私たちの第一関門は、例の薬を作ることが出来る少数民族と接触することだ。これから彼らと交渉を重ね、アメリカ人冒険家に処方した薬やその原料について、教えを請わなければならない。そのことについて、
「交渉はワタシがやる。ナイトウさんは、彼らとは話さないほうがいい」
と、ナバクはしまりのない顔を急に引き締めて言った。
「彼らには彼らの決まり、つまり掟がある。それが分からずに交渉するのは、とても危険だよ」
そう言ってナバクは口からスープの汁を飛ばした。N島民に共通する分厚い唇が、脂でてらてらと光っていた。
ナバクのおぼつかない英語を意訳すると、N本島周辺に暮らす人々はおよそ五十もの民族に分かれていて、住んでいる地域によって言葉も習慣も驚くほど違っているらしい。もちろん、倫理観や善悪の基準もそれぞれ違っていていて、彼らが持つ独特のルールの中には、禁忌とされている言葉や行動があった。それを知らずにうっかり破ってしまうと、命を奪われることもあるそうだ。
事実、この地域では、研究者やマスコミ関係者が彼らの怒りをかって、私刑にされた事例が複数報告されている。生きて成果を持ち帰るには、彼らの掟に従い、気に入られることが重要だった。
「それなら、特に気を付けるべきことがあったら、言ってくれ」
私は簡易な英語で、ゆっくりと問いかけた。
「彼らは、みんな神を信じている。彼らの神をボウトクするのが、一番いけない。だから、魔術師の恨みをかっちゃだめだ」
魔術師。
冒険家の手記にも登場した、治療者だ。そして、私たちが必ず接触しなければならない者たちだった。
この島々では、神や精霊といったものが当たり前に信仰されていた。そして、魔術師とはそれらと交信できる者を指し、それこそ神と同等の地位にあるとして崇められていた。
私は彼らを民間療法の治療者、あるいは占い師のようなものと考えていたので、ナバクのその怯えを孕んだ表情は意外だった。
「なぜだ? 魔術師は病を癒してくれる人なんだろう?」
「それだけじゃない。魔術師は人を呪うんだ。彼らの怒りは、神の怒りだ……」
「見ろ」不意に、ナバクが大通りの方を指差した。
大通りの真ん中を、一人の女が歩いてくる。
年若い女だった。原色の派手なワンピースに身を包み、縄のように長い髪を編んでいる。肉付きがよく、手足がすんなりとしていて、日本人の感覚でも美女と形容できた。
服装や体格だけなら、島の女たちと比較しても、別段変わったところはなかった。異様なのは、その肌だ。
褐色の腕や、首筋、そして額や頬に至るまで、青いうろこ模様がびっしりと浮かび上がっていた。この島では刺青を入れている者は珍しくないが、全身を覆う彼女のそれは、いやでも目を引いた。その青い色素は人体に張り付いているとは思えないほど奥深く、薄暗い夕刻の市場の中でも鮮やかに浮かび上がった。
女はまっすぐ遠くの方に視線を向け、優雅な足取りで通り過ぎていく。その眼差し、彫の深い顔立ちには、現世に顕現した女神のような、超然とした雰囲気を漂わせていた。
彼女が進む先にいる人々は道を開け、黒い人垣が一直線に割れていく。まるでモーセによって切り開かれる、海原を見ているような光景だった。誰もが表情を硬く強張らせ、あるいは顔を背け、小動物のような眼で女の背中を見送った。
「あれは神の娘だ。森の魔女だ……」
ナバクはうわ言を呟くようにそう言うと、口の中で島の言葉をぶつぶつと唱えた。おそらく、彼らの魔除けの言葉なのだろう。
「……彼女も、魔術師なのか?」
「そうだ。その中で、あの女たちが一番恐ろしい。くれぐれも関わるな」
ナバクの最後の言葉は、ほとんど耳に入っていなかった。私は夕闇に溶けていく女の後姿に、すっかり魅入られていた。
つやつやとした、美しい女の背中。その上に舞い散る花弁のような刺青の青が、ほんのりと光を放っているように見えた。
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