第13話 レム
どれだけ時が過ぎたろう。
時間の感覚はうせていた。教会の鐘の音も聞こえないので、いまが夜なのか、朝なのか、ちっともわからない。暗闇のなか、おれはネルの膝に乗せられて過ごした。袋に入った胴体は、どこか牢のまんなかにでも転がっているはずだ。
1度は揚げ戸が開き、パンとワインを乗せたカゴが下りてきた。ネルは一口も食べなかった。カゴのなかに、おれのミルクはなかった。
じめじめと嫌な場所だ。腐った葉っぱの臭いがたちこめている。むき出しの地面から、直接、冷気が伝わってくる。どこかで、かさかさと、なにかが這いずりまわる音がする。空気はよどんでいた。
ネルのマナが弱まっているのを感じる。おれの体がちっとも反応しない。あの森から出たのがいけなかったんだ。あそこの空気にはマナが満ちあふれていた。ネルの体にそれがたくわえられれば、こんな牢なんか、ひとっ飛びなのにな。
「――森に、帰りたい」
ネルがつぶやいた。
「心配するなよ。じき、帰れるさ」
おれは気休めを言った。森のエルフどもが、おれたちを受け入れてくれるわけがなかった。長老のザンなら、ひょっとしたら力になってくれるかもしれない。ここから脱出するのが先決だけどな。
ネルは、カロン王子との結婚を受け入れるだろうか? さもなくば、火刑――おれは中央広場の処刑台を思い出し、身震いした。
「マナンのことを教えてあげる」
ネルがふいにしゃべりだした。
「マナンはね、ずっと大昔に地球を支配していた種族なの。その力があまりに強力すぎて、ついには自滅したんだって。わたしはその生き残りなの」
やはり、そうだった。ネルはマナンの血を受け継いでいるんだ。
「その血を絶やしたら、だめよね」
ネルは自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
翌朝、パンの乗ったカゴが下ろされたとき、ネルは結婚の承諾を伝えた。
するとハシゴが下ろされた。ネルはそれを登って、朝の光りのなかに出た。おれの頭を片手で握っているので、登りにくそうだった。胴体の入った袋は、ネルの腰にぶらさがっていた。
揚げ戸が閉められる瞬間、牢の底でなにかが光った。
エーリヒからもらったメダルだ。おれを馬小屋に置き忘れても、あのメダルを忘れたらだめだろ。2度と取りには戻れないぜ。
おれはとっさに取りに行こうとして、体が袋のなかにあるのを思い出した。
「いいの」
ネルはそう言って、兵士について歩きだした。
おれはいぶかった。あんなに大切にしていたメダルなのにな。
ネルとカロン王子の婚礼は、来週行なわれると発表された。結婚式は、中央広場にある神殿で挙げられ、そのあと城で披露パーティをするという。
式当日、ネルは、居城の3階の1室で着付けをした。王子の花嫁には最高の装いをと、仕切りカーテンの向こうで、ずいぶん時間をかけている。
おれがいるのは、ベッドのそばのテーブルの上だ。頭はちゃんと胴体についている。ネルが
おれは、ここから脱出する方法を思案した。
ひとつしかないドアの外に、兵士が1人立っている。部屋の窓は細く、おれは通れても、ネルには無理だ。おれは考え込んでしまった。
カーテンの仕切りが開き、ネルが姿を現わした。
おれはぽかんとネルに見入った。
金色のわっかを頭に載せ、裾が床まで届く薄布をかぶっている。足もとまですっきり流れる服は、まるで白いキャンバスで、色とりどりの糸で模様が描かれている。そでは大きく開き、ひらひらと花びらみたいだ。
ネルのうしろに、着付けを手伝った2人の侍女が控えている。
「しばらくひとりにしてください」
ネルがひとばらいをした。
侍女が退出すると、ネルが裾をひきずって歩いてきた。
「わたし、きれいかしら?」
「いままで見たネルのなかで、一番きれいだ」
おれはテーブルで立ち上がった。
ネルが両手を差し伸べる。おれは走り、ひと跳びでその上に乗った。
ネルの胸もとで、ぎゅっと抱きしめられる。ちょっと強すぎるくらいだ。息苦しくなった。おれは抗議しようと――。
頭に水が落ちてきた。
「ネル」
顔を上げたとたん、もろに水をかぶった。
しょっぱい。それは海の味がした。
見上げると、ネルの瞳に海があふれている。頬をつたい、おれの顔に落ちた。ぽたり、ぽたり、落ちつづける。びしょ濡れになった。
おれはそれを止めたいと望んだ。
どうするすべもなかった。
城門が開き、ネルとカロンを乗せた6頭だての馬車が、つり橋を渡った。掘り沿いの道を行き、メインストリートで折れて中央広場に向かう。騎馬の列が先導し、おれたちの乗った馬車と国王夫妻の馬車が続き、そのうしろを徒歩の行列が進む。ラッパがやたら吹き鳴らされた。
おれは、ネルの腰に巻いた幅の広い帯のなかにもぐりこんでいた。馬は嫌いだ。あまりにたくさんの馬を見、いななきを聞いて、気分が悪くなった。
結婚の布告が出ていたらしく、中央広場はすでに市民でうまっていた。布告では、結婚相手をどう紹介したのか、おれは疑問に思った。
新郎新婦の乗った馬車が、神殿の前に止まった。
ネルとカロンが降り、幅の広い階段を上がった。群集の一角から、マナン、と叫びがあがり、ざわめきが広がった。
ネルが立ち止まって振り返る。
おれは帯から顔だけ出し、広場の様子をうかがった。
騎馬の列からゲルダーの乗る1頭が離れ、大声をあげた人物に向かった。騎馬のまま抜刀し、騒ぎの主に切っ先を突きつけた。
「カロン王子の妃はマナンではない。神がわが国につかわした救世主である。それは宮廷における審理で証明された。かの姫君は、アーサー王との戦争において、わが軍の切り札となろう」
そういうことか。宮廷の審理で、ゲルダーは反対の証言していた。ああは言っているものの、はらのそこは煮えくり返っているんだろうな。
ネルが扉をくぐり、おれたちは聖堂に入った。
そこはやけに天井が高く、深紅のカーペットがしかれた通路を挟んで、たくさんの円柱が並んでいた。ネルとカロンが通路を進むと、荘厳な合唱がはじまった。柱のあいだに、立派な身なりの男女が何十人も立っている。花嫁をどう思っているのか、よそよそしい感じがした。
神殿の奥は丸く広がり、壇上で、主任司祭が待っていた。丸みをおびた三角帽をかぶり、すその長い白服に、赤いマントをまとっている。
司祭が指先で床を示す。カロンがひざまずき、ネルもそれにならった。カロンが誓いの言葉を述べ、ネルも小さい声でつぶやいた。カロンは大きな帽子をかぶり、だぶだぶのチュニックに、赤レンガ色のマントをまとっている。白い顔をして、まるで肉巻きアスパラのようだ。
司祭が2人の結婚を宣言した。532年、4月。ネルはバロメル国の妃となった。
挙式のあとカロン城に戻り、披露宴が催された。
中庭の主塔の前に、天幕がはられ、ネルとカロン、そして国王夫妻が並んで着席した。バロメル王の横にいるジルは、あの夜の女とは別人のようだ。きらびやかな服を着て、おつにすましている。
おれは顔を合わせないようにした。
中庭の周囲には騎士や貴婦人が集まり、騎馬試合が始まっていた。これはなかなか面白く、おれはジルに注意しながら、帯から顔をのぞかせた。
鎧に身をかためた騎士が馬に乗り、中庭の端と端で対峙している。丸い盾をかまえ、おそろしく長い槍を突き出している。騎馬が同時に駆けだし、試合場の中央でぶつかった。激しい音とともに、いっぽうの騎士が落馬し、もういっぽうは騎乗したまま駆け抜けていく。その騎馬の勝ちだった。
バロメルが立ち上がり、快哉をあげた。
おれも叫びたかったが、ジルがいるのを思い出し、自制した。また頭をもがれたら、かなわない。首はまだ据わっていなかった。
ネルはというとしょんぼりして、飲み物にも手をつけていない。正式な披露宴はこれからで、いま大広間で準備を進めているらしい。
バロメルがワインをぐいっとあおった。おれのミルクはないようだ。
日が傾きはじめ、宴席は宮廷へと移った。
大広間には宴会の準備がととのっていた。花びらを散らした絨毯が床にしかれている。壁にかかっていたのを敷いたんだ。むきだしになった小さな窓から風が吹き込み、肌寒い。あの絨毯は風よけだったと合点した。
台に長い板を載せたテーブルが運ばれ、それが縦に2列置かれていた。その上に燭台が並び、鶏や豚の肉、魚介、スープ、チーズ、カゴに盛ったフルーツなどが、ロウソクの明かりに映えていた。
宴会客のテーブルの端に、それと直角に、もう1台のテーブルが置かれ、おれたちは国王夫妻とともにその席についた。客は長いベンチに座ってごちそうを囲み、酒つぼを手にした給仕が広間を行き来する。
バロメルが乾杯の音頭をとり、祝宴が始まった。
カップが空けられ、食事にとりかかる。みんな手づかみで食べていた。ネルは食欲がなく、料理に手をつけようともしない。主役のひとりの、そんな様子を気にかける客はひとりもいなかった。
それにしても、やつらが胡椒をふんだんに使うのには、まいった。味覚が狂っているに違いない。バロメルは、ワインにまでふりかけている。鼻がむずがゆくなってきた。おれの鼻は穴しかないから、てきめんだ。は、は……。
「くしょん」とネルが音をたて、ごまかしてくれた。
ジルが険しい目を向け、おれはネルの腰帯のなかにもぐりこんだ。
宴は進み、出席者は酔いがまわりだした様子だ。
ネルは気分が悪いと言い、席を立った。
侍女が1人ついて、大広間から廊下に出た。兵士が1人立っていて、部屋まで案内すると言う。3階に上がる階段の踊り場で、ゲルダーが壁によりかかっていた。不服そうな顔で、鋭い視線を流す。嫌なやろうだ。
着付けをした部屋に入り、ようやく落ち着いた。
侍女が仕切りカーテンの向こうに消え、ネルはベッドにへたりこんだ。もの思いに沈んでいるようだ。ドアの向こうで、兵士が見張っているのは間違いない。
おれは、帯のなかで、ネルの今後を考えた。
あの森には2度と戻れそうにない。王姫として城で優雅に暮らすのもいいんじゃないかな。食事にも寝る場所にも困らない。いい服を着て、いい料理を食べ、騎馬試合を見て、面白おかしく暮らせばいい。
ドアが乱暴に押し開けられた。
入って来たのはバロメルだった。ひげづらを赤くし、足もとがおぼつかない。仕切りカーテンに向かって、「酒だ」と、どなりつけた。
侍女が、つぼとカップを載せた盆を持って現われた。
バロメルがカップをとり、侍女がそそいだワインを、一息に飲みほす。乱暴にカップを盆に戻し、侍女に下がるよう命じた。
バロメルが目によどんだ色を浮かべ、ベッドに近づいてきた。
「ワインは嫌いなようだな。ちっとも飲んでいなかった。悪酔いしたのでもなさそうだ。わが城のワインの味には定評があるんだがな」
胡椒を入れてたじゃないか。おれはつっこみたくなった。
「蔵出ししたワインはまずわしが吟味し、これと思ったものしか提供しない。あんたの味も、カロンに与えるまえに、わしが試してやろう」
そう言って、バロメルが襲いかかってきた。
ネルは、ベッドに力づくで押し倒された。脂肪のかたまりが、腰帯ごしに、おれの顔に押しつけられる。おれは這い出ようと、もがいた。ようやく顔を出すと、上からおおいかぶさるバロメルの胸板が迫り、その向こうでネルが顔をそむけていた。バロメルの息は荒く、呼吸のたびに酒の臭いが漂う。
ごつい指がネルの襟もとにかかった。おれはネルの上半身を這い、服をはぎとろうとする指に、思い切りかみついた。
バロメルがうなりをあげ、その指が襟から離れた。おれの真上に、バロメルの太いのどが見える。おれは渾身の力で飛び、のどに強烈な頭突きをかましてやった。
バロメルがベッドから跳ね、おれは頭から床に落下した。首を強く打ち、
バロメルの怒りの形相が近づいてくる。
「おまえさんの騎士があらわれたようだな」
バロメルが、おれの首に手をかけた。
「身のほどを教えてやろう」
べりっ、と膠のはがれる音がした。おれの頭と胴体は、またもや別れ別れだ。
「やめて。レムを返して」
ネルが叫び、ベッドから飛び起きて、バロメルにつかみかかった。
おれは高くさしあげられた。伸び上がったネルを、バロメルが突き飛ばす。ネルは尻もちをつき、床をすべった。
バロメルが短剣を抜いた。
投げつけられた切っ先が、ネルの足もとに突き刺さる。
「あんたの力はこんなもんじゃないだろ。それとも、わしはあんたを買いかぶりすぎたか? でく人形が何体集まろうと、アーサーには勝てんぞ」
違う。ネルの力はもっとすごいんだ。ここはマナが不足している。マナの発生源である広大な森と共鳴する必要があるんだ。
ネルはうつむいたまま、なにも答えなかった。
「よかろう。わしはマナンの血筋が欲しい。わしらの血と交じり合うことで、バロメル家は永遠に繁栄するだろう。その前に、その血をわしが賞味しよう。カップに数滴でかまわん、味見をさせろ」
バロメルが、床に刺さった短剣に目をやる。おれを握ったままテーブルに近づき、酒つぼから、カップに赤ワインをついで、うしろに退いた。
ネルが体を起こし、床に刺さった短剣の柄を握った。それを抜き取り、立ち上がってテーブルに近づく。ネルがバロメルに視線を流した瞬間、おれは、はっとした。その瞳に強い光が宿っていた。
ネルが、カップの上に人差し指を伸ばし、短剣の刃を押しつける。指先に血がふくれ、赤い糸を引いて、カップに落ちる。
1滴、2滴、3滴、4滴……。
したたる血を、ネルは表情を変えずに見つめつづけている。
そうか。施療院で、ハンナの体を温めようと、マナをふくんだ血を与えすぎ、彼女を死にいたらしめた。その経緯が、おれの頭によみがえった。
「ずいぶん気前がいいんだな」
まだ酔いの残るバロメルは、上機嫌らしい。
ネルが短剣をベッドに投げ、指先をなめて、引き下がった。
バロメルがカップを取り上げる。顔の近くまでさしあげ、ワインの香をかぐようにカップをまわしてみせる。
「わが体内にマナの力が宿る。バロメル王国に乾杯」
一息に飲ほした。
ふうと息を吐き、満足げな表情をネルに向ける。
つぎの瞬間、顔つきが一変した。カップが床に落ちてはねる。おれも落下した。
バロメルは、心臓のあたりに両手をあてて体を抱え込み、膝からくずれた。顔は赤黒く、目は飛び出し、脂汗でびっしょりだった。
そのときドアが開いた。カロンの呑気な顔がのぞく。
「父上……」
カロンは言葉をとぎらせた。目を目開き、口をあんぐり開ける。バロメルの大きな体が床に倒れた。カロンが悲鳴をあげ、寝室を飛び出した。
ほどなく兵士をともなったゲルダーが、駆け込んできた。
ネルがベッドにすました顔で座っている。仕切りカーテンから、侍女の青白い顔がのぞく。おれは、バロメルのそばに転がっていた。
ゲルダーが近づき、床の上のカップを取り上げた。
死相をうかべるバロメルと、顔をそむけるネルに、交互に視線を走らせる。
「あの女を捕らえろ」
ゲルダーが兵士に命じた。
「国王を毒殺したかどで、告発されるであろう。裁判はおってとりおこなう」
そう宣言し、マントをひるがえした。
ゲルダーがかいま見せた浅黒い顔には、酷薄な薄笑いが浮かんでいた。
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