第7話 レム

 エーリヒの急報を受けたとき、ネルは修道女のパン作りを手伝っていた。パン生地を伸ばす手が止まり、丸い木の棒が土間に落ちた。小麦粉だらけの手を、おれの顔の前ではたく。げほっ、とむせた。ネルが真っ青な顔で調理場を出ていった。おれの顔は真っ白だ。

 エーリヒは汗をびっしょりかき、激しい腹痛にベッドで身もだえていた。へそと右腰のあいだが痛むらしく、両手でしきりに押さえている。顔は赤く、発熱しているようだ。

 ネルが、痛がっている部分を蒸した布で温めたが、効果はなかった。痛みはますますひどくなるようで、エーリヒが体をのけぞらせた。

 薬草師のガザロも、ベッドのかたわらで手をこまねいていた。

「とにかくいつもの薬を用意してくれ」

 ガザロが指示し、ネルが慌てて病室を出ていった。

 隣接する塔の1階が、薬や医療器具の置かれている倉庫になっていた。赤茶色のレンガ壁に、小さい窓がひとつだけ切られている。壁ぎわに、薬剤をしまった長持ちがいくつも並べられていた。

 ネルが、長持ちから乾燥した根っこを取り出した。すりばちのなかで細かくつぶしはじめる。これを煎じて飲ませるんだ。

 ネルの手が止まり、ポケットから裁縫袋を取り出した。

 またやるつもりなんだ、とおれはすぐに察した。思ったとおり、ネルは針を取り出すと、自分の人差し指を刺した。指先にぷっくり血の玉が浮かぶ。それを一滴、薬のなかに垂らし、すりこぎで混ぜ合わせる。

「そこでなにをやっとる」

 ガザロの声に、ネルの手が止まった。

 声のしたほうでは、戸口にガザロが立っていた。顔は倉庫の外に向けられている。ネルではなく、別の人間を注意をしたようだ。

 ガザロが倉庫に入って来た。

「修道女のひとりが、なかをのぞいていた」

 ガザロはいつも通り不機嫌そうだ。ネルのつぶした生薬を見てうなずいた。お湯の用意をするように指示し、ネルがさっそくとりかかる。

 のぞいていたのはエリスでは? とおれは気になった。

 エーリヒの痛みは、煎じ薬を飲ませると、ほどなくおさまった。生薬は即効性があるらしいが、これは薬の力ではなく、マナによるものだ。

 エーリヒの表情は和らぎ、しばらくして寝息をたてはじめた。

 ガザロは楽観していなかった。なんでもエーリヒの腹のなかはひどい炎症を起こしていて、その原因を取り除かないかぎり、治らないと診ていた。ところが原因不明なんだから、手の施しようがなかった。

 ネルが世話するようになってから、マナをふくむ煎薬を飲ませてきたが、根本的な治療にはならず、痛み止めの役にしかならなかったようだ。血を飲ませるだけじゃ、だめなのかもしれない。

 ネルは施療院を出ると、中庭にある礼拝堂に入った。祭壇の前にひざまずき、十字架を見上げ熱心に祈りはじめた。こんな信心深いネルを見るのは初めてだ。夕食もとらず、祈りつづけていた。

 宵闇が迫るころ、修道女が礼拝堂に駆け込んできた。

 エーリヒの容態が再び急変したのだ。ネルは血相を変え、礼拝堂を飛び出した。ネルの祈りは通じなかった。

 病室は緊張した空気に包まれていた。

 エーリヒが下腹部を両手で押さえ、背中をまるめて体を震わせている。その顔は土気色で、額から、あごから汗がふきでていた。

 ガザロが、ネルに煎じ薬を準備するよう命じた。

 ネルはいまではガザロの右腕のような存在になっていた。ネルが薬草を煎じると、かならず効果が上がる。患者の評判もよかったからだ。

 ネルがすぐさま病室を出ていき、特製の薬を作った。こんどはそれも利かなかった。腹部の痛みはさらに増したようだ。エーリヒがベッドで転げまわるのを、集まった修道女が、なすすべもなく見ている。

 こんどばかりは、ネルの力でもだめらしい。

 ついにエーリヒは動きを止めた。激痛のあまり、気をうしなったんだ。エーリヒにとっては幸いだったかもしれない。

 修道女が十字を切っている。ガザロの不機嫌きわまりない顔が、手のほどこしようがない事態を物語っていた。

 窓から差し込む月明かりが、ベッドを白々と照らす。寝わらがあたりに飛び散っている。白く浮かび上がったエーリヒは、死人のようだ。

「みなさんは少し休んでください」

 ネルがそう言うと、ガザロと修道女の視線が集まった。

「今晩は、わたしがつきっきりでいます。徹夜でお祈りをしてあげたいんです」

「そうするといい。ネルがついていれば、わしも安心して眠れる」

 ガザロが聞き入れ、修道女と病室を出て行った。そのなかの1人が戸口で足を止める。エリスがちらりと視線を流し、立ち去った。

 ネルとエーリヒとおれだけが残された。

 ネルは張りつめた様子で、エーリヒの顔を見守っている。月が雲におおわれたらしく、病室はゆっくり陰りだした。ネルの体内でマナが駆けめぐり、増幅されるのを感じた。おれの胸は高鳴った。

 ネルは壁ぎわから踏み台を持ってくると、それに上がり、天井の釘に白い布を張ってベッドの片側をおおった。反対側は、カーテンで仕切られた女性患者の病室になっている。これでエーリヒのベッドは孤立したわけだ。

 エーリヒの服をめくり、上半身をさらけだした。ネルの手のひらが腹部を這う。患部を探しているのだろう。その手は一寸刻みに下がっていく。

 へそと右腰のあいだあたりで止まった。まさにエーリヒが押さえていた部位だ。その位置が位置だけに、誰かが見たらおかしな誤解を……。

「ネルさん。なんてことを」

 するどい声が、窓から飛び込んできた。

 ネルは聞いていないようだ。患部に両手がそえられる。

 廊下を走る音が聞こえてきた。そのときネルの指先が、エーリヒの下腹部に突きささった。おれはぎょっとした。

 エリスが病室に駆け込んできた。

 修道院の宿舎に帰るふりをして、窓からのぞいていたに違いない。

 仕切りカーテンをまわったエリスが、ベッドのそばに来る。ネルの手をつかんで、エーリヒの体から引き離した。

 びちゃり、となにかが床に落ちて嫌な音がした。

「ネルさん、あなたいったい……」

 月明かりが戻ってきた。ひっ、とエリスが口をおおう。

 白く照らされた床に、それは転がっていた。

 長さは3インチ(7センチ半)ほど。ぬめりと赤黒く、白い膜に包まれている。生まれたてのウサギを見たことがあるが、それに似ていた。

 エリスの見開かれた目には、恐怖があった。

 エリスは手を口にあてたまま、悲鳴ともうめきともつかぬ声をあげ、逃げるように病室を出ていった。ガザロのところに駆け込まれたら面倒だな、と心配になったが、足音は施療院から遠ざかっていった。

 ネルはしゃがんで、エーリヒの体から取り出したものを、裁縫袋のなかに入れていた。よくあんなものを触れるな、と身震いした。これが腹痛の原因だったとしたら、それもうなずける。まさに元凶という姿形をしていた。

 エーリヒの顔はなんだか安らいで見えた。むきだしの下腹部はなめらかで、ネルが右手を突っ込んだあとは少しもなかった。

 翌朝、エーリヒの病状はいっきに改善した。やはりあの得体の知れないものが、腹痛の原因だったのだろう。

 朝食のとき、ネルとエーリヒは病室で楽しそうに語らっていた。

「一晩中、あなたのために礼拝堂で祈っていました」

「だからですね。あなたが天使になって舞い降りる夢を見ましたよ」

 そんな話をして微笑みあった。

 エリスとの仲は、ますます険悪になった。何事もなかったようにふるまっているが、2人がすれ違うとき、空気が凍りつくのを感じるほどだ。あの夜の出来事を、エリスが一言も口にしないのが、逆に不気味だった。

 昼過ぎの鐘が響いた。

 イシスに魔法を教える約束があった。ネルは仕事を終えると、船屋敷に出かけた。日没の鐘が鳴る門限までは、あと3時間近くあった。

 船屋敷のなかは3層にわかれていて、1層と2層には、通路をあいだに挟んで多くの船室があった。一番下の3層は倉庫だった。

 船室のひとつで、魔法のレッスンが始まった。

 おれは床に座り、羊皮紙に教会の絵を描いていた。ペンは、船べりに止まっていたカラスの羽を引っこ抜いて作り、インクはイシスのおやじのを拝借した。

「――魔法の起源はマナンに始まるの」

 ネルの言葉に、イシスの表情が一変した。瞳には恐怖が浮かんでいる。

 おれは手を止め、耳をそばだてた。

「それって、かつて人類を支配していた恐ろしい種族なんだろ」

「イシスも恐れてる?」

「街のみんながそうだよ。島じゅうで恐れられている。その名前さえ口に出したがらないほどなんだ。いまではバロメル島と呼ばれているけど、かつては……」

 イシスが口をつぐんだ。

 マナン島が本当の名前なんだ。

「マナンはもう滅んでしまったから、怖がらないで。かれらの血液には魔法の源であるマナがふくまれていて、それが体内で爆発して滅亡したの」

「それじゃあ、魔法も失われたの?」

「いいえ。そのとき飛び散った血液は、いまも地中に残っている。ドルイドは、それを呪文の力で集め、魔法を使いはじめた」

 ネルの講義は続く。

 ドルイドの魔法はそうかもしれないが、ネルは、みずからの血液で魔法を使える。おれはネルの正体を知った。マナンのまつえいだ。

 育ての親のザンから、ネルはマナンの話を聞いたのだろう。ザンは、ネルがマナンの生き残りだと知っていて、かばってくれていたんだ。

「――だから、ドルイドの血が流れるイシスにも魔法は学べるのよ」

 ネルがうけあった。

「ぼくにも才能はあるんだね。わかった。がんばるよ」

 ネルが、おれの知らない言葉を呪文のようにそらんじはじめた。ネルとザンがその言葉を交わすのを聞いた覚えがある。エルフ語でもなく、マナンがいたころの、ずっと古い言語なのかもしれない。

 それから毎日、ネルは仕事が終わると船屋敷に通うようになった。

 イシスは本当に魔法の才能があるようで、ほどなくおれの頭に1輪の花を咲かせた。なんの役にも立たないけどな。むしってもむしっても生えてくるので、かえって迷惑だ。魔法というより、たちの悪い呪いだ。

 エーリヒはいまでは退院し、森で写生をはじめた。その行きがけによく施療院に立ち寄る。ネルは薬草を採取する、と勤務中よく森に出かける。そんなとき、おれはいつも置いてきぼりだ。

 エーリヒの絵は完成せず、ネルが薬草を摘んで帰った日はない。

 その日の午前中にも、エーリヒは施療院に顔を出した。看病のお礼を来たらしいが、よく礼にくる男だ。画材を持っていて、これから写生だろう。

 いったん自室に上がったネルは、おれをベッドに放り、また下りていった。

「薬草が足りなくなったから摘んできます」

 ネルの弾んだ声が聞こえてくる。

 おれは、ネルが薬草を採取するのに使うバスケットに隠れた。見つかる心配はない。どうせ摘みやしないんだ。このところ修道院の誓いをないがしろにするのが目につく。ネルの行ないを確かめてやる。

 ネルは、おれがひそんでいるとも知らず、バスケットを持って出かけた。鼻歌を歌い、ぶんぶん振りまわすので、おれは目がまわった。

 ぐらりと揺れ、どこかに座ったらしい。水音が聞こえきた。船着場からボートに乗ったのだろう。対岸の森に渡るつもりなんだ。

 ほどなくボートから降りたようだ。草を踏む音がする。草いきれがし、光が編み目から射しこむ。森に入ったらしい。ネルの足が速まった。

 ふわり、と体が浮く感じがした。すぐに衝撃がきて、おれはもんどりうつ。うなじをひどくぶつけた。いったい何事だ? バスケットはふたが開き、ひっくり返っている。おれは外に這いだした。

 ネルの足で6歩ほど先で、ネルとエーリヒがくっついていた。

 バスケットを放りだしやがったんだ。

 まだくっついている。ここからだと、ネルの背中とエーリヒの腕、それからエーリヒの傾いた顔が見える。ふたりの行為の意味はさっぱりだが、これは貞潔の誓いに反してはいないか? 

 ネルとエーリヒは草っぱらに座った。エーリヒがしきりにしゃべり。ネルはうなずいてばかりいる。無駄なおしゃべりを慎むのはいい心がけだ。

 エーリヒが、なにか小さく光るものを差し出した。ネルがそれを受け取る。これは私有財産にあたらないか?

 ネルが嬉しそうに話しだした。沈黙の誓いは長つづきしなかった。しゃべる、しゃべる。笑ったり、体を触れあったり、なんてはしゃぎようだ。

 バスケットは転がったまま、薬草を摘む気配すらない。思ったとおりだ。

 正午の鐘が鳴りはじめた。ネルは慌てて立ち上がった。おれはまたバスケットのなかに隠れた。置いていきやしないだろうな。そうされたら、森から施療院まで歩かなければならない。たいへんなサバイバルだ。

 その心配はなかった。ネルは、おれしか入っていないバスケットを拾い、エーリヒと楽しそうに話しながら歩きはじめた。2人は船着き場で別れた。別々に町に入るつもりなのだろう。

 施療院に戻ったネルは、バスケットをベッドに投げ出し、階下に降りていった。薬草を採取していないのをどう説明するつもりだろう? そもそも薬草が足りないというのは、嘘に違いない。

 おれは外に這いだし、寝わらに倒れた。目がまわってしかたない。

 昼食を終えたネルが、寝室に上がってきた。ふだんならこのあと、病室の見まわりをする。患者の様子を診て、ガザロに報告するのが日課になっていた。

 ネルがベッドにどすんと座り、おれは跳ね上がった。

「なんだか気分が悪そう」

 ネルが、気のない声でたずねた。

「むちうちをやった。脳しんとうを起こしているかもしれない」

「どこからか落ちたんでしょ。診てあげようか」

「いいよ。ほっといてくれ」

 ネルは、さっそく自分のことに戻った。

 ふところから小さくて光るものを取り出し、手のひらに包み込んで、ぼうっと眺めている。エーリヒからもらったものだ。これは私物じゃないのか? 院長に渡したほうがいいと思うけどな。

 ネルを呼ぶ声がして、院長が寝室に入って来た。

 ネルは私物を背後にまわした。どうやらメダルのようだ。手探りで寝わらのなかに押し込む。渡すつもりはないらしい。

「ネルさん。患者さんが待っていますよ」

 院長がさいそくする。清貧の誓いを破ろうとするのに気づいた様子はない。

「なんだか気分がすぐれなくて。少し休んだら行きます」

 気持ちが悪いのはおれのほうだ。ネルは仮病をつかい、従順の誓いに反した。

「しかたありませんね。よくなったら、降りてきてくださいよ」

 院長が出て行くと、ネルの気分はよくなった。またメダルを取り出し、ぼうっとした顔つきで眺めはじめる。

 よこしまな感情を抱いているようだ。

 ついにネルは、清貧、貞潔、従順、すべての誓いを破った。

 天罰が下らないといいけどな。

 エーリヒが退院したあと、ネルは、一人暮らしのハンナというおばあさんの世話をしていた。石段で転んで骨折したため、入院したんだ。

 おしゃべりが好きで、ネルとは仲がよかった。ひどい冷え性に悩まされ、春先だというのに、足先が凍るようだといつもこぼしていた。

「今晩も、いつものあれをお願いしますよ」

 ネルがふとんをかけていると、ハンナが声をひそめて頼んだ。

 あれ、というのはホットワインだ。食事のとき以外、アルコールは禁止されているが、ネルは、こっそり作ってあげていた。

 おれは、ネルがワインにマナをふくませているのを知っている。

 翌朝、ハンナは永遠の眠りについた。心臓発作だった。


                 * * *


 エーリヒの症状から、彼がわずらっていたのは虫垂炎ちゅうすいえんだったと思われる。これは盲腸の先にある虫垂に細菌が感染し、炎症をおこす病気だ。外科手術で患部をとりのぞけば完治するが、その手段のなかったエーリヒの時代では、命にかかわる病気だったに違いない。

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