第3話

 見慣れぬ天井が視界を覆った。枕にしていたはずのクッションは床に落ち、誰かに拾い上げられるのを待っているかのように見えた。ベッドに彼女の姿はなかった。安物の腕時計の針はすでに午後一時を指しており、ベタついた身体を洗い流すため、素早くシャワーを浴びた。さっぱりしてバスルームを出ると、いささか小腹が空いてきた。俺は、なにか食べ物はなかったかと周囲を物色していると、黒いガラステーブルの上に置かれた一枚の便箋が目についた。二つ折りにされたそのカラフルな紙は、彼女が残していったものだと直感した。備え付けの冷蔵庫にもなにもなく、空腹は外で満たすことにした。身支度を終えると、手紙を手に取りソファに腰掛けた。紙の間にはしっかりとホテル代が挟み込まれていた。そして、青色のボールペンで書かれた文章をゆっくりと読み始めた。


「ステキな少年くんへ。昨日はありがとう。あんまりホテルでの記憶はないんだけど、あなたのことすっかり気に入っちゃったみたい。あたい、夜は大抵あのダンスホールにいるから、もし気が向いたらまた来てちょうだい。待ってるわ。ちょっと野暮用があるから先に出るけど、起きたら少しでも学校には行くこと! あなたは他の人と違って、不良にも優等生にもなれる奇特な人なのよ。それじゃ、また近いうちに会いましょうね」

 俺は頭のなかで、彼女の不器用なダンス姿を思い出していた。彼女は連日あのダンスホールへ通い、いったいなにを探しているのだろうか。それは、見つかるようなものなのだろうか。次に思い浮かんだ彼女の姿は、さみしい影を落としながら、小さな歩幅で歩いている後ろ姿だった。昨日彼女を抱いていたら、なにかが変わったのだろうか。もっと清らかな気持ちで、今日という日を迎えることができただろうか。

 表現しがたい気持ちが思考を支配する中、俺は一応学校へ向かうことにした。授業はとうに始まっているが、無断欠席よりマシだろう。部屋を後にする直前、俺は彼女の残り香を纏ったベッドをしばらく見つめていた。


 あの日以来、例のダンスホールには通わなくなっていた。なんでも、のぼるいわく、十代の人間はあまり歓迎されず、おもに社交の場として認知されたい運営者の思惑が、サービス面などにあらわれていたらしい。俺も特別イカした場所だとは思わなかったし、彼女との出会いがなければ記憶からも消え去ってしまっていただろう。

「また新しい遊び場を見つけないとな!」

 めげる様子が微塵もないのぼるは、次の店の検討に頭を切り替え始めているようだった。俺はもちろん彼女のことが気になっていたが、積極的に会いに行くつもりもなかった。衝動的な気持ちに扇動されることはあったが、あえて自制することで自分を成長させようとしていた。俺は以前より、早く大人になりたいと思うようになっていた。少なくとも、思春期というやっかいな時期を早く乗り越えたかった。彼女と会ってもっと話がしたいけど、欲望に負けるのもイヤだった。なにより、あのダンスホールに行きさえすれば、いつでも彼女に会える。この安心感が、あの場所に足を運ぶのをことごとく後回しにしていた。


 二週間後の朝、俺は珍しく早起きして、自宅のリビングで朝食をとっていた。誰も見なくてもついているテレビからは、コメンテーターの声やアナウンサーのリポートが聞こえる。どうやら朝の情報番組のようだった。オレンジジュースを注ぎ、斜め前にあるブラウン管のモニターに視線を向けると、あのダンスホールが映し出されていた。あの日限りとはいえ、あの特徴的な円形の建物を見間違うはずはなかった。右上に表示されているテロップには『◯◯町少女殺傷事件!』との文字が読めた。俺は妙に冷静だった。しかし、心臓の鼓動は速まっていた。それからは一瞬も目を離さず、集中して短いニュースを最後まで聞いた。どうやら、十七歳の少女が首を切られて殺されたようだった。様々な感情が押し寄せてくる前に、食べかけのご飯を懸命に頬張った。まだ登校時間に余裕はあったが、じっとしていられず学校へ向かった。


 こういう時の杞憂は当たってしまうのが世の理だ。その日、事情通の友人から詳細を聞くと、あの日に出会った彼女が被害者であることがわかった。あのダンスホールで踊り明かした帰り道、女友だちと二人で歩いていた彼女は、複数の若い男たちにドライブに誘われた。そしてドライブやゲーセンでひと通り楽しんだ後、千葉方面へ向かった。その道中、友だちは眠ってしまった。すると、男たちが強引に彼女のバッグを奪おうとしたので、彼女は必死に抵抗した。強盗だけが目的であれば、潔くバッグを渡して逃げていれば助かったかもしれない。しかし、彼女の激しい抵抗は果物ナイフで首を切られるまで続いた。死因は失血死だった。さらには、両足のアキレス腱まで切られていたことが後になってわかった。睡眠薬で眠らされていたもう一人の友だちは、金目の物を盗られただけで命を奪われることはなかった。


 俺は自分でも驚くほど冷静だった。怒りや憎しみといった類の感情はなかった。もちろんこうなることを予期してわけでも、覚悟していたわけでもない。ただ、ある種の危うさのようなものは感じていた。もっとも、それで俺にどうにかすることが出来ただろうか。あの時、彼女を受け入れていたら、彼女は死なずにすんだのか。あの時、彼女と二人であのダンスホールを出なければ、こんなことにはならなかっただろうか。せめてもう一度、会いにいけばよかったのだろうか。俺は冷静に思考しているつもりだったが、考えていることは身も蓋もないことばかりだった。現実に彼女は死んでしまった。もう踊れなくなってしまった。会話を交わすことも、あの笑顔を振りまくことも叶わない。人間がひとり死んだ。この世界ではあまりにもありふれたその出来事だ。十六歳の人間にとって身近な人の死というものは、ほとんどフィクションの延長としか思えないことがある。シャボン玉がパチンと弾けるように命が終わる。昨日いた人が永遠に存在しない。俺の陳腐な頭では、死という観念をなにも処理できなかった。詳しい事件の内容を聞き終えたのは昼前だったが、その日はもう授業には出なかった。

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