第2話

 のぼるたち三人は少し疲れた顔を浮かべ、カウンター席に腰掛けていた。俺はちょっと出て行くことを伝えるために、三人のもとへ歩み寄っていった。すると、のぼるが先にこちらに気付いた。

「おう! どんな調子だ? ちょうどいま話してたんだけどさ、正直どいつもこいつも気取り過ぎてて落ち着かねえんだよなあ。もう出ようかって相談してたんだよ。お前も行くだろ? いつものとこ」

 “いつものとこ”とは、俺たちが週に二、三回は顔を出す歓楽街のディスコのことだった。値段も良心的で、なにより俺たちみたいな世間知らずのガキにも対等に接してくれる。店内は鳴り止まない音楽と若い男女の叫び声や笑い声のせいで、狂ったように騒がしかったが、無為無聊な現実から目をそらすのには有効だった。こうやって集まると、最後にたどり着くのは大抵そのディスコだった。

 俺は、はっと我に返った。いまは事情が違う。

「いや、俺はやめとくよ。ていうのも、さっき知り合った女の子と意気投合しちゃってさ。これから場所変えて二人で遊んでくることになった。ごめんな! 明日昼飯おごってやるからそれで勘弁してくれ!」

 意気投合……、自分で言って恥ずかしくなったが、これから仲良くなれば同じことだと納得させた。

「あんまり無茶すんなよ。学校ももうそんなに休めないから、酒臭いとマズイぞ」

 みつるは、俺たちといるときは牽制役に徹していて、こういう時はちゃんとまともなことを言うように自制しているようだった。

「はあ~。お前、顔だけはいいからなあ。お相手はあの赤いドレスの派手な娘だろ? あんまり変なヤツだったらすぐ帰ってこいよな」

 たけるは、以前ナンパした相手がひどくヒステリックな女で、危うくカッターナイフで切り刻まれそうになった経験があった。その話がどこまで本当のことかはわからないが、多少なりとも俺の心配をしてくれたのだろう。

「ついこの間、新宿に三百坪以上のでっけえディスコが出来たらしいぜ! まあ人は多いと思うけど行ってみようぜ」

 三人はもう次の遊び場のことで夢中だった。三人が一斉に腰を上げると同時に、俺は真向かいでまた違う男と談笑している彼女を見つけた。少しだけ複雑な感情が沸き起こったが、すぐに落ち着けることができた。俺は友人たちに素早く別れを告げると、彼女の方に向かって歩いた。


 そうとう酔っていた様子に見えた彼女は、意外にもしっかりと地面を踏みしめて歩いていた。華奢な身体のわりに筋肉質なふくらはぎを見ると、スポーツでもやっているのかなとの疑問が頭をよぎった。

「ちょっと歩くけど平気よね。だいぶ飲んでたみたいだけど、強いんでしょう?あたいと同じ」

 小柄な娘は酒に弱いという先入観があったが、彼女が泥酔して道端に座り込んでる姿など想像できなかった。ふと、俺はダンスホールでの二人のやりとりを想起していた。彼女は、いったいいつどのタイミングで俺を見ていたのだろうか? そう考えていると、頭の中を覗かれたように彼女が答えた。

「あたし、ナイトパレスの常連なのよ」

 あのダンスホールが『ナイトパレス』という名前だということは後日知った。

「あそこって、正面の大きな扉しか出入り口がないじゃない? 開閉音や外気が入ってくるとわかるの。通い続けるてるうちに、人の出入りや視線のクセには慣れちゃった。特に、新参者なんてすぐにわかっちゃうわ。どうでもいいところばかりに目を向けて、やたらはしゃいでるんだもの。今日はお友達と四人で来てたでしょう? あの子たち、お世辞にも行儀が良いとは言えなかったけれど」

 彼女は様々な種類の笑顔を使い分けながら話していた。笑顔のみの表現力なら、映画で主演をつとめるような女優にも引けをとらないんじゃないかと思った。彼女のするどい観察能力に感心する一方で、なぜたくさんの男の中で俺を誘ったのかが未だに謎だった。すると、またもや思考を読み取られたかのような答えが返ってきた。

「あはは、あんたって考えてることが顔に出るタイプね! あたい、あんなに熱烈な視線を向けられたのは初めてだったわ。さり気なく近づいて相手の顔を一瞥してみたけど、なかなか男前だったんでラッキーと思っちゃった。めぼしい彼女もいないようだったし、誘ってよかったでしょ? それとも、もっと可愛い子のほうがよかったかしら?」

 彼女は、俺が女性の容姿を優先する人間ではないとわかりつつ聞いていた。彼女から漂う知性や会話のリズムに、俺はある種の恍惚感を覚えていた。この時、俺がいくつかの意味で彼女に惹かれていたのは確かだし、二人っきりで話せるなんて夢のようだった。今夜は、唐突に訪れる幸福な夜のように思えた。俺は早いとこ、強めのアルコールを体内に取り入れたくてそわそわしていた。


 俺たちは、まばらに設置された街灯を頼りに歩き続けた。ようやく辿り着いた店は、こじんまりとしたバーだった。薄暗い蛍光灯がタイル張りの黒い床をポツポツと照らす店内には、仕事帰りらしきサラリーマンが三、四人いるだけだった。彼女は率先してカウンター席に座ると、俺の分の酒も素早く頼んでくれた。どうやら、この店の常連であるようだった。

「結構イケるんでしょ?」

 カウンターの奥に所狭しと並べられた洋酒を指差しながら尋ねた。俺は控えめに頷いてみせた。

「あんた、見た目は優等生っぽいけどやることやってんのね。まあ、酒なんてものはあんまり美味しくもないし、大人になってからでもよかったとは思うけどね」

 彼女は小さなバッグから煙草とライターを取り出し、慣れた手つきで火をつけた。そして、当然のようにこちらにも一本差し出してきた。彼女の煙草を受け取ってもよかったのだが、俺は胸ポケットをまさぐり自前の煙草を取り出した。そして、彼女の赤いライターで火をつけてもらった。吸い慣れた煙草は生きていく上で欠かせないものだった。煙が肺を満たすと、いつも冷静になれた。このとき俺は、さっき出会ったばかりの彼女が、付き合いの長い親友であるかのような親近感と安心感を感じていた。

「あんた、本当は賢いくせにどうして夜遊びなんてしてるわけ? 不良ごっこもたいがいにしとかないと後で痛い目見るわよ。あたいは心から楽しくて毎日踊って飲んで遊び回ってるけど、あんたはなんか違うわ」

 彼女の指摘は、自分でもよくわかっていたことだった。そして、それが俺が学校や友だちや親や社会といったものと、うまく折り合いがつかない原因だと思っていた。常に俯瞰的にものを見ては、深入りしようとしない。そのくせに、衝動的に相手を攻撃したり、嫉妬したりすることはある。楽しいことはたくさんあるけれど、俺の心の熱はもっと別のどこかにあるような気がしていた。

「ウチは両親も兄貴も真人間でさ、なんの文句もない家庭なんだ。なのに、どうして俺だけこんなになっちまうかな。分からねえんだよなあ。いまどき不良高校生なんてカッコわりいだけなのに」

 注文したウイスキーの水割りが二人の前に置かれた。この液体を何杯か飲み干せば、世界が変わることを知っていた。もうひとつの現実が姿を表し、俺を癒やしにやってきてくれる。彼女がグラスを掲げたので、俺は慌てて自分のグラスを持ち上げた。わけもない乾杯を済ませると、彼女はおちゃらけたウインクをして見せた。

「そういうこともあるわよ。とくに末っ子は難しいのよ。なんで自分だけが……!って考えちゃうのは若い証拠ね。あたいの場合、家族もクソだけどね。怒鳴り合いを始めたかと思うと、夜には身を寄せあったりしてる。あたしには義務的に接するだけで、そもそもいなくたってなんの問題もないのよ。ろくなもんじゃないわ、勝手に産んでおいて。いいかげん、あの親の娘でいることに疲れちゃったから、家にはあんまり帰りたくないの。ところであなた、学校には通ってるんでしょう?」

 饒舌になりはじめた彼女の傍らで、俺は両親と兄貴のことを考えていた。しかし、彼女の質問に答えるために思考を切り替えた。

「うん。皆勤ってわけにはいかないけど、いちおう通ってるよ。実は何度も停学くらってるんだけどな。バイク事故や喧嘩騒ぎなんかで。そのたびに教師に睨まれるから、もうあんなとこに俺の居場所なんかないんだ。そっちの方はどうなの?」

 何気ない問いかけのつもりだったが、聞いた後に少し後悔した。

「あたい、学校は去年辞めたの。いまは冴えない装飾品店で働いてるわ。ここからすぐのところよ。男モノはあんまり扱ってないけど、気が向いたらいらっしゃいよ」

 俺は学校のことについて尋ねるか迷っていたが、彼女の方から口を開いた。

「学校はね、彼が辞めろって言ったの。あたいの彼、ちょっとイカれてたからね。まあ、あたいもそろそろ家から出たかったし、ちょうど良かったのよ。働いて、自分で生活できるようになればこっちのもんだって思ってた。ちなみに今は、新宿のディスコで知り合った女の子の家に転がり込んでるの。こう見えて、あたいだって本当は不安でいっぱいなのよ。いったい自分はなにがしたいんだろう、このままどこにたどり着くんだろうって」

 店内が様々な煙草の煙に包まれる中、彼女は次の水割りを頼んだ。

「まあ、彼がどうのとかじゃなくて、本当はあたいの性分なのよ。こればっかりはどうしようもないの。ほんとうに、どうしようもないのよ……」

 彼女は珍しく伏し目がちな表情で、まるで自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

「ああもう、なんだかしんみりしちゃったわね。ちょっと! あんたももっと飲みなさいよ! もう一度乾杯するわよ~!」

 俺は、残りが半分以下になったグラスを素早く掲げた。

「よろしい。それでは、イケてる不良少年くんとの偶然な出会いに乾杯!」

 それからの彼女は終始上機嫌だった。彼女は矢継ぎ早に様々な酒を注文し、まるで酔うために、アルコールを胃に流し込んでいるかのようだった。その満足そうな横顔を眺めているだけで、俺は不思議な幸福感に包まれた。

「はあ、しょせんこんなものよ。男と女なんて……」

 グラスを乱暴に置くと、吐き捨てるように言い放った。まばたきの回数が増えはじめ、悲しげな微笑みを浮かべる彼女に、俺はさらに惹かれていった。

「ねえ、今晩空いてるんでしょ? 学校なんて休んじゃえばいいのよ。いきつけのホテルがあるんだけど、ちょっと休憩していかない?」

 俺はしばらく逡巡した後に、小さくうなづいた。昨日はちゃんと最後まで授業に出たし、もし明日サボることになってもいいだろうと考えた。そもそも断るつもりは微塵もなかった。ただ、できるだけ長く一緒にいたかった。

「そうと決まればさっさと移動ね! 幸い、ここからすぐの場所だから歩いていくわよ」


 彼女は流れるように二人分の会計を済ませると、勢い良く外へ飛び出した。この周辺には詳しいようで、俺は導かれるままに彼女のすぐ斜め後ろを歩いた。彼女はときおり、この薄暗い路上がダンスホールであるかのように、クルクルと回っていた。あまりにも重心が不安定だったので、俺は思わず彼女の左手首をしかりと掴んでいた。


 百メートルほど歩くと、ピンクと青で装飾された綺羅びやかな看板が目に入った。ラブホテルという場所に来た経験は何度かあったので、システムはなんとなく理解していた。道中、クルクル踊っていたせいか、彼女はバーを出るときよりも酔っている気がした。無人受付なのをいいことに、彼女は鼻歌まじりに俺の頭を撫で始めた。誰がどうみても、理性がしっかりしていたのは俺の方だったので、しぶしぶチェックインの手続きを済ませた。ルームキーを受け取ると、小さな階段を登り目的の部屋に入った。彼女は、赤いドレスを脱ぎ捨てると同時にベッドへと倒れこんだ。

「あたい、下手くそだけど踊るのは好きなの。思い通りに身体が動いてないのもわかる。だけど、誰に教えられたわけでもなく自由に身体全体を使って動いてると、なんだかとっても清々しい気分になるの。でもね、気分のいい時にしか踊れないの。なにか深刻な問題に悩んでたり、すぐ先に不安があったりするとたちまち身体が動かなくなる。きっと心と身体が仲良くなくちゃダメなのね」

 彼女は大きな枕に顔を埋めて、もごもごとした声でしゃべっていた。もう明らかに酔っ払っていたし、酔うとよくしゃべるようだった。

「いまあたい、まともに喋れてるかしら? そんなに酔ってるつもりはないんだけどなあ。どうせ明日にはほとんど覚えてないから関係ないんだけどね。あっ! あんたのことは忘れないよ。それはいくら酔ってても心配ないわよ!」

 俺は西洋式の木造の椅子に腰掛けて、彼女のしゃべりに耳を傾けていた。

「あたいがグレはじめたのはね、ほんのささいなことなのよ。イカれた彼と過ごすうちに影響されちゃって、酒や非行に走るようになった。変なクスリを飲んだこともあったわ。家にいても両親は喧嘩ばかりだし、一秒だってあそこにはいたくなかったわ。いまは働いてこうやって遊ぶ余裕もできたけど、なんだか満たされないのよね。踊ってるときだけは違うんだけど」

 泥酔状態の彼女にどの程度言葉が届くのか不安ではあったが、それでも俺は言葉を投げかけてみた。

「その点、俺なんかはまだ学校に通っていて、家族とも一緒に暮らしてる。俺も友人もいったい何に対して怒り悲しみ、何を求めて暮らしているのかすら、自分でもわかっちゃいない。考えても考えてもなにも答えは出ない。まだ十六歳で、社会や世間ってものがわかってないからかな。それとも、たんに俺の頭が悪いだけなのかもしれない。でも、ときどき思うんだ。真面目に授業に出て、先生の言葉に耳を傾けて、必死にノートとってる連中のようになれたらって。皮肉じゃなくて本当にそう思うことがある。勉強して賢くならなくちゃ、幸せにもなれやしない」

 普段、友人にはこういう話はほとんどしないが、彼女に対しては普段考えていることをさらけ出すことに躊躇がなかった。

「バカなのよ、あんたもあたいも。若者ってのはバカだから価値があるの。バカだから闇雲に突っ走れるのよ。それが非行か学業か恋愛か趣味かは人それぞれだけど、大人になるとたちまち動けなくなってしまう。そうなる前に、うんと楽しんどかなきゃね! つまんない大人になるのだけは死んでもイヤだわ」

 俺は煙草に火をつけ、彼女の言葉を反芻していた。

「今日は踊り疲れちゃったわ。こっちはあんたたちが来るよっぽど前から踊ってたんだからね。それに、ちょっと喋り過ぎちゃったみたい。バカなりに考えてることしゃべるのって疲れちゃうわ。でもね、やっぱり楽しく生きたいならお金は必要だと思うの。金がすべてじゃないなんて、綺麗には言えないもの」


 俺はベッドの向かいにあるソファに移動して、彼女の話を聞いていた。その時、彼女が突如立ち上がり俺の腕を強引に引いてベッドへ押し倒した。彼女のうつろな瞳と控えめな鼻と口が眼前に接近した。彼女の柔らかな髪先が頬に触れた。今日という一日……いや、これまでの全人生で目にしてきた光景が、彼女の瞳の奥に収められているような気がした。

「あんた、やっぱり可愛い顔してるわ。モテるでしょう。あたしとセックスしてみたい?」

 まっすぐに見つめる彼女の目は、それ自体が独立したなにかの生き物のようだった。彼女の瞳の水晶体には、はっきりと俺の顔が映し出されていた。

「いや、やめとくよ。後々後悔しそうなことはやりたくない。キミはもう眠ったほうがいいと思う。若いからって無茶はしないほうが――」

 言い終えるのを待たずして、彼女は無理やり俺の顔を両手で強く掴み、口づけをした。自然と抵抗はしなかった。そしてそれは、これまで経験した中でも、長く濃厚なキスだった。俺は彼女のなすがままに受け入れるしかなかった。なぜか頭の中では“男と女なんてこんなもの”という彼女のセリフがこだましていた。唇から離れると頬や耳、首筋に次々と口付けしていった。いつの間にか、俺たちは強く互いの手を握り合っていた。次の瞬間、すでに下腹部まで達していた口づけをやめ、彼女は顔を上げた。そして、そのとき無表情だった俺の顔を、いまにも泣き出しそうなせつない目で凝視していた。

「はい、これで終わりよ! あたしもう疲れちゃったわ。続きはまた今度ね。あんただったらいつでも相手してあげるわ。今日は一緒に寝ましょうよ。くれぐれも寝てる間に乱暴したりしないように」

 彼女は俺がそんなことをする人じゃないとわかっていながら、無意味な釘を刺した。


 キングサイズのベッドを二人で共有するのは簡単だった。布団を肩まで被ってからものの数分で、彼女の安らかな寝息が聞こえ始めた。この街には、彼女のような人間がたくさんいるのだろうかと考えていた。少し悲しい気持ちになったけど、誰もがなにかを求めて生きていることだけは確かだと思った。彼女の寝顔を見ていると、明らかに心を許しはじめている自分がいた。幼少期より、いろんなことから距離を取ってきた自分。彼女は不思議と俺の心に接近してくる。重厚な垣根を身軽に超えてくる。これが好きという感覚なのだろうか。愛というものなのだろうか。


 しばらく、俺の目線は彼女の寝顔と天井を往復していたが、結局ソファで寝ることにした。ひとつのベッドで誰かと共に眠ること。自分にはその資格がない気がした。いつか自分が自分にその資格を与えるときまで、安易に他人に寄り添うのはやめておこうと思った。

 ソファは、人ひとりが寝転がるには十分の大きさだった。備え付けのクッションを枕にして目を閉じると、穏やかに意識が落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る