呟き、

氏嶋うじしま……」

 その言葉を聞いた瞬間、耳を塞ぎたくなった。私はすみ兄のシャツの裾をギュッと握り、唇を噛んだ。

「そっか。八生サンのシェアハウスってこの辺なんだっけ? 青春出来てる?」

 心底バカにしたような目。心を刺す冷たい声。全てあの時と変わらない。

「……氏嶋君には関係ないでしょう」

「そうだね、」

 鼻で笑い、彼は何を考えているのかわからない目で私を見つめた。

「心優!」

 気不味い雰囲気の中に、快斗の声が響いてきた。

「心優、朝メシまだ食ってないだろ。歩が心優の分作ったのにって不貞腐れて……ん? 知り合い?」

「いや、別にそういうワケでは……」

「彼氏? ヨカッタデスネ、

 カッと頭に血が昇るのがわかった。居ても立っても居られなくなり、私はその場から駆け出した。

 頭の中では、中学の頃の出来事がグルグルとしつこいくらいに回り続けている。

 誰か、助けて-


 ***


 心優が突然駆け出したので、追いかけようとすると、純友先輩に腕を掴まれ、止められてしまった。彼は静かに首を振り、1人にさせるべきだ、と諭してくれた。

「じゃ、俺はここで」

 冷たい声をした同い年くらいの男子高生はそう言ってその場を立ち去った。


「先輩、あの人、誰ですか」

 彼の姿が完全に見えなくなってから、聞いてみた。すると先輩は少し戸惑ったような表情を見せ、少し声を潜めて言った。

「心優が、だよ」

 修学旅行の夜、佑が話していた、『心優のトラウマ』が先輩の言葉と繋がった。そういうことか、と少し納得すると同時に、自分は心優の『初恋の人』には成れない事に、悲しくなった。

 まだ、彼女は俺をどう思っているのかも知らないのに。


 ***


 しばらく走ると、街を流れる大きな川に辿り着いた。

 土手に座り、スマホを開く。

「……もしもし」

『朝メシ出来てるんだけど? 快斗が迎えに行ったはずなんだけど、会ってない?』

「ううん。会ったよ。でも今は一緒じゃない。今から帰るから、ご飯取っておいて」

『……っ、うん、わかった』

 電話越しでも、歩が何か言いかけたのがわかった。何があったのかを聞いて来ない彼の優しさは、中学のに、痛いほど心に沁みた。今も、少し沁みる。

 私はそっと電話を切り、立ち上がった。

『2丁目公園に戻って来い』

 同時に、快斗からLINEが来た。いつもと違って、言葉遣いが荒い。

『わかった』

 絵文字もスタンプも使わず、私はそれだけ返して、元来た道を歩いた。



「心優、」

 公園には、もうすみ兄の姿は無く、犬の散歩をしている人と、快斗だけが見えた。

「……ごめん、ちょっと、混乱しちゃって、」

「……無理して笑うなよ」

 彼は先日と同じ、真っ直ぐした目で私をそっと、腕を掴んでベンチに座らせた。

「……話なら、聞くから。俺さ、この前あんな事言ったけど、心優が望むならただの友達だって全然構わないから。……ただ、俺を頼って欲しいんだ。頼りないかもしれないけど、頼って欲しい」

「……うん、ありがとう」

 私の言葉に頷くと、彼は不意に立ち上がった。

「よし、早く帰って朝メシ食おうぜ、」

「そうだね、お腹減った」

「俺も腹ペコだよ、」

 彼はそっと微笑むと、私の右手を握り、手を引いて歩き出した。

 手!手が!手が〜〜‼︎

「……、」

「え? 何?」

 彼が発したその言葉は、小さくてきちんと聞き取れなかったが、私の耳に届いたのは、多分、この言葉だ。


 -過去の事も忘れるくらいに-


 その続きはなんだろう。

 手を引かれたまま、私は「おたく」に着くまでずっとそれを考えていた。


 ***


 心優の「好きだった人」の存在を知り、はっきりと頭に浮かび上がってきた思いがあった。


 -過去の事も忘れるくらいに-





 -幸せにしてやりたい-

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