第6話

 その日学校に行くと、桜ちゃんの心なしかいつもより嬉しそうな笑顔が私を待っていました。

「おはよう、杏」

「おはようございます。…桜ちゃん、何か良いことありましたか?」

 少しだけ気になって尋ねると、桜ちゃんは笑みを深めつつ頷きました。

「あのね、杏…。来週の日曜日の夜は、空いているかしら?」

「日曜日の夜、ですか?夜ならお店も閉まってますし、大丈夫だと思いますよ。…何かご用ですか?」

 私の答えと質問に、桜ちゃんは一層目を輝かせます。

「その日、花火大会があるの。この辺りでは今年最後みたいだから、杏と行けたらって思ったのだけれど……」

 どうかしら?と首を傾げる桜ちゃん。そんな何でもない動作でさえ、彼女が行うと一種の芸術のようにさえ思われます。

「えぇ、是非!私なんかで良いのでしたら、是非ご一緒させて下さい!」

 私の返答に、桜ちゃんは心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべました。

 …嗚呼、一体この世界の何人が彼女のこの笑顔を見たことがあるでしょうか。いつも、ただ他人のお話を聞きながら麗しい微笑を湛えている彼女の、童子の様なこの愛らしい笑顔を。

 私は彼女の笑顔に見惚れながら、ふとその笑顔にさせたのは自分だということに気づいて身震いしました。

 私は彼女を笑顔にすることが出来ます。心からの笑顔を見ることが出来ます。他のだれでもないこの私に、桜ちゃんが笑顔を向けてくれるのです。

 何と幸せなことなのでしょう。少し前の私では思いもしなかったことです。

「杏は、浴衣を持っているかしら?折角ですもの。どうせなら二人で浴衣を着て行きたいの」

「ありますよ。浴衣、着て行きましょう」

「うふふ、よかったわ。あぁ、楽しみ。早く日曜日になってくれないかしら?」


 日曜日が楽しみだという思いについては、私は桜ちゃんにも勝る自信がありました。

 私は毎秒毎時間のように花火大会のことに思いを馳せました。桜ちゃんは何色の浴衣でしょうか。黒に白、ピンクに水色青に黄色…浴衣の色も柄も様々です。可愛らしいものからシックなものまで。あぁ、紺に黄色の帯なんて素敵です。赤の帯も可愛らしい。柄はやはり桜でしょうか。あぁだけど彼女のことですから、どんな色柄の浴衣でも美しく着こなしてしまうのでしょう。

 早く、早くと恋い焦がれるように日曜日を待つうちに一日一日と日は過ぎ去り、あっけなくその日はやって来ました。


 白地に椿の柄の浴衣に、淡い黄色の帯を締めて。髪を結い上げてから、姿見の前に立ちます。

「母さん母さん、おかしなところはない?」

 自分で何度も何度も確認しながら、後ろにいる母に問いかけます。

「大丈夫よ杏。でも早く行かないと、お友達を待たせてしまうわよ?」

 確かにそうだと、最後に鏡をもう一度見てから「行ってきます」と待ち合わせの神社に向かいました。


 待ち合わせの場所に、桜ちゃんはまだ来ていませんでした。

 彼女を待たせることがなかったことに安堵しながら、巾着から手鏡を取り出して髪や浴衣が乱れていないかを確認します。

 落ち着くことが、出来ないのです。ここに来て、彼女は本当に来てくれるだろうか。あの誘いは、約束は、果たして自分の夢か妄想だったのではないかしら。などと不躾な思いが首をもたげるのです。


 時計を見ると、約束の時間まであと10分程ありました。私は少しだけほっとして、何とは無しに色々なことを考え始めました。

 桜ちゃんと初めて話した時のこと。桜ちゃんを初めて見た時のこと。それらは色鮮やかに思い出せます。あぁだけど、もっと前……中学校、小学校、幼稚園。この頃私は、何をしていたのでしょう。覚えていない訳ではないのです。仲の良い友人だっていましたし、楽しくなかった訳でもありません。細部までは覚えてないにしろ、運動会、文化祭など行事に注目すれば当時の記憶は容易に思い出せます。しかし、それらの思い出は全て色褪せてしまっていました。まるで初めから白黒であったかのように、平然とのっぺらぼうのようにそこに立っているのです。

 私の中で色づいているのは、桜ちゃんが存在する記憶だけ。彼女の周りだけ、私の世界は鮮やかに艶やかに彩られているのです。


 カラン、コロンと下駄特有の足音が聞こえ、私は顔を上げます。

「ごめんなさい。待たせてしまったかしら…?」

 嗚呼、彼女を言い表わせる言葉を、私は持ち合わせてはいません。

 紺の浴衣に山吹の帯を纏ったその姿は麗しく。髪を一つに束ねているせいで覗くうなじは雪の様に白く。浴衣の裾からはみ出た華奢な足首は今にも折れそうで。愛らしい額には、微かながら珠のような汗が滲んでいます。

 私は彼女から目を離すことも出来ないままに、ただ首を横に振りました。

「いえ、私も。つい今来たばかりです…」

「そう?それならいいのだけれど。下駄ってあまり履き慣れないから、とても歩き難くって。すこぅし歩いただけなのに、もう痛くなってしまったのよ」

 そう言って、桜ちゃんは可笑しそうにころころと笑います。

「大丈夫ですか?まだ花火が始まるまで時間もあります。少し、休みますか?」

 私が心配すると、彼女は更に可笑しそうに、嬉しそうに笑って首を横に振るのです。

「いいえ、いいの。この、なんだか不思議な歩き心地はいつもは味わえないもの。もう少しだけ楽しみたいの」

 桜ちゃんがそう言うのなら私は何もいえません。それならばと私達はゆっくり、出店等の立ち並んでいる場所まで歩いて行きました。


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