第5話



 名前を呼ばれたような気がして目を開けました。そこにはいつものように、木造の天井があります。数回、ゆっくりと瞬きを繰り返しました。

 休日の朝は、普段よりも緩やかに時が流れて行くように感ぜられます。それは恐らく平日の朝よりも心に余裕があるからなのでしょう。バタバタと、階下で両親が動いている音がします。お店は土曜日も日曜日も開いています。平日よりも休日の方が比較的お客様も多いので、基本的に土曜日か日曜日のどちらかは私もお手伝いをしなければなりません。それが両親との約束です。

 お手伝いと言っても、お客様のお話の相手をしたり、お願いされた場所まで商品を運んだり、そうでなければ陳列作業等をするくらいですが。それでもきちんとお小遣い程度のお給料をくれるのは、うちの両親の教育方針のようなものでしょうか。

 先程私の名を呼んだのは母のようでした。仕事をしながら、片手間に私に起床を促したのでしょう。時計を見ると9時を回った頃でした。私にしては遅い起床だなと、我ながらそんなことを思いながら布団からのろのろと這い出します。開店は10時なので、それまでに身仕度と陳列作業を済ませなければいけません。少し急ぐ必要がありそうでした。



 適当に身仕度を済ませお店に降りると、早速お仕事を仰せつかりました。

 常連さんの、園田のおばあちゃんの家まで和菓子を運ぶお仕事です。毎月、お寺のお坊さんが来る前の日に和菓子を買ってくれます。私が幼い時分には歩いて来てくれていたのですが、ここ数年は足腰が痛いらしく、おばあちゃんのお家まで私が持って行くのが常になっていました。

「陳列は粗方やっておくから、行って来て頂戴」

 母から商品を受け取りながら、私は浮足立っていました。園田のおばあちゃんは昔から私のことを大層可愛がってくれていて、まだ歩いて来てくれていた時はいつも「杏ちゃん、また少し大きくなったねぇ」と頭を撫でてくれました。たったの一ヵ月で目に見えるような成長などほとんどある訳もないのですが、私はおばあちゃんの優しい笑顔としわくちゃの手が大好きで、いつも「うん!」と元気に返事をしたものです。

 私が配達をするようになってからもそれは大きくは変わらず、おばあちゃんはその私の大好きな手で快く私を招き入れてくれます。そしてほんの少しの世間話をして、——それは大抵、私の学校のことだったりしますが——その度におばあちゃんは顔をしわくちゃにしながら優しい笑顔を浮かべるのです。

 父方の祖母は私が生まれて間もなく他界し、母方の祖母も県外に住んでいるため、「おばあちゃん」と滅多に会うことが出来ない私にとって、園田のおばあちゃんは本当の祖母のような存在でした。私にとって、月に一度必ずあるおばあちゃんへの配達は学校外での一番の楽しみだったのです。


 開店10分前。「行ってきます」と言い残して、私は足取りも軽く家もといお店を出ました。

 お店から園田のおばあちゃんの家までは15分程で着きます。決して遠くはないけれどそれなりにあるこの距離を、おばあちゃんはいつも通っていたのだと思うと、もっと早く配達を許される年齢になっておばあちゃんに楽をさせてあげたかった。などと出来もしないことを考えてしまいます。

 ふと、お花屋さんに置いてある色鮮やかな花に目を引かれました。私は花の種類には疎いのですが、桜ちゃんはどうやらお花が好きなようで、温室に咲いている花の名を呟いては嬉しそうに愛でています。その姿は本当に何よりも可憐で美しく、私はとても愛おしいと思うのです。私のいる場所とは違う世界。桜ちゃんと私の間には透明な、けれど明確な壁が存在しているのです。私はその壁の存在を誰よりもはっきりと認識しながら、どうにかして桜ちゃんのことを出来得る限り長く愛でていたいと躍起になっているのです。

 桜ちゃんに何かお花を買って渡せば、彼女は喜んでくれるでしょうか。優しい桜ちゃんのことですから、「ありがとう」と微笑んでくれるに相違ありません。けれど、何の日でもない平日にクラスメートから突然花を渡されても、困惑してしまうのが人と言うものの様な気もします。桜ちゃんがそのことを噯気にも出さなかったとしても、彼女の心持ちは桜ちゃん自身にしかわかり得ません。それならば、お花を渡すという行為はきっと得策ではない。私はそう判断を下しました。


 園田のおばあちゃんの家は、小さいながらもどこか暖かみのある優しい雰囲気のお家で、住んでいる人物にぴったりな家です。その家は私の老後の憧れのような、そんな家でした。

 呼び鈴を鳴らすと、家の奥からおばあちゃんの返事が聞こえます。大人しく待っていると、鍵が開いて扉の隙間からおばあちゃんが顔を覗かせました。

「あらあら杏ちゃん!来てくれたのね、いつもありがとう」

「こんにちは園田のおばあちゃん。御注文の品をお持ちしましたよ」

 私の言葉に頷きながら、おばあちゃんは優しい笑顔で私を招き入れてくれました。


 私はいつもの様におばあちゃんとお話をして帰路を辿りました。いつもと違うことがあったとすれば、おばあちゃんが頂き物だとかで福岡の銘菓をお裾分けしてくれたことと、どことなくいつもより私を引き留めたがったこと。そしてもう一つ。

 それは、帰り道に森田さんと会ってしまったことでした。


 例のお花屋さんの前に立ち止まって、何を考えるでもなくただ店先のお花を眺めていると、ふとねばねばと纏わり付くような悪意を感じました。それとほぼ同時に、底意地の悪い声が私の耳に入りました。

「あら、変な格好の人が居ると思ったら原田さんじゃない。何をしているの?」

 お店のお手伝いをする時に着る、謂わば制服のようなこの服を貶されたことに少し傷付きながら、私は至極素直に彼女——森田さんの問いに答えることにしました。

「………お花を、見ていたんです。」

「へェ。けれどあなたにはお花なんて似合わ無いわよ。二宮さんだったらどんなお花でも似合うんでしょうけれど。あなたは精々引き立て役にしかなれやしないわ」

 私への悪意に満ち満ちたその言葉を聞いて、私は何故か彼女に好意に似た感情を抱きました。

 それは恐らく、彼女がではないと感じたからでしょう。そして何より、彼女の言葉には悪意の裏に桜ちゃんへの敬愛の様なモノが見え隠れしていたのです。

 例えその想いが誰かを傷つけることに繋がっていたとしても、桜ちゃんへの愛は総じて尊いモノです。私は彼女へ対しての好意は全て彼女の人徳による産物として尊ぶべきものであるという考えを持ち合わせている故に、桜ちゃんを敬愛する彼女を憎むことなど出来ようもなかったのです。

「……そうですね。桜ちゃんになら、きっとどのお花もお似合いになるんでしょうね。」

「当たり前よ。二宮さんの前ではどんな花だってきっと劣って見えるんだわ。」

 その言葉で私は、私と彼女とは分かり合えないのだと悟りました。近くて、遠い。私と森田さんとは、根本的なところから徹底的に異なっていたのです。私はどうしようもなく悲しい気持ちになりました。そして、この場を早く立ち去るべきだ。立ち去りたい。そんな衝動に駆られました。

「…ごめんなさい森田さん。お店のお手伝いがあるのでそろそろ失礼します」

「お店?あぁ、それでそんな可笑しな格好をしているのね。ふゥん。別に構いやしないわ、さっさと行きなさいよ。私だってあなたなんかと話してるとこ、誰かに見られでもしたら嫌だもの」

 最後の最後に悪意を浴びせられ、気が滅入りそうになりながら私は歩を進めました。

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