第4話



 蝉の声がいつの間にやら聞こえなくなり、気づけばあんなに近くにあった空ももういくら手を伸ばしても届かない程に高くなりました。

「秋ですね」

 私がそう呟くと、桜ちゃんが空を見上げながら答えます。

「そうね。空ももうずっと高くなったわね」

 桜ちゃんが私と同じようなことを考えていたことがとても嬉しくて、私は笑いました。

 この温室にはほぼ一年中、絶えることなく薔薇が咲いています。もちろん、コスモスやゼラニウム、ダリアといった季節の花も沢山咲いてはいるのですが、やはり薔薇の美しさが目を引くのです。

「この薔薇は秋薔薇なのかしらね。鮮やかだし、香りも長いわ」

 桜ちゃんが、立ち上がって薔薇の花に顔を近づけます。私は花のことにあまり詳しくはないので、ただ桜ちゃんに見惚れながら

「そうなんですか?」

 と相槌を打つしかありません。

 桜ちゃんの美しさは、薔薇とは全く異なる美しさです。薔薇は色も形も、香りでさえも鮮やかな花ですが、桜ちゃんは名前の通り桜の花の様に優しくて儚くて、何とも言えないそんな美しさと品格を持っているのです。けれどもその美しさは決して薔薇と並んでも負けることはない。寧ろ薔薇のほうが劣るような、そうでいて互いに美しさを引き立て合っているような、私が今目にしているのはそんな不思議な光景でした。

 ふと薔薇の香りに混じって紅茶の香りが舞い上がりました。誰かが温室の扉を開け、風が吹き込んだのでしょう。

「そろそろ時間ね。杏、教室に戻りましょう」

「はい」

 私はカフェテーブルの上に広げていたティーセットを片付けます。このティーカップ等は全て学校の物で、生徒達が休み時間などに自由に使うことが出来、桜ちゃんは好んで利用しているようです。「前は良く一人で利用していたのだけれど」と言いながら、桜ちゃんは数日前に初めて私をここに連れて来てくれました。その日桜ちゃんは「私の初めての特別なお友達だから」と特別だと言う茶葉で紅茶を淹れてくれました。私はあまり紅茶を飲まないので、良し悪しはよく分かりませんでしたが、私はただ桜ちゃんが私を特別と言い、私の為に紅茶を淹れてくれたということが何よりも嬉しかったのです。

「杏、今日の紅茶は口に合ったかしら?」

「はい、とても飲みやすくて美味しかったです。ご馳走様でした」

 桜ちゃんは毎日のように違う茶葉を持って来て紅茶を淹れてくれます。紅茶や茶葉の種類は分からなくても、味や香りが違うことは私にも分かります。そしてどの紅茶も、とても美味しいのです。それは茶葉が良いからなのか、それとも桜ちゃんが淹れてくれるからなのか。きっと両方なのでしょう。

「そう言えば、杏のお家は和菓子屋さんだったわよね」

 廊下を歩きながら、桜ちゃんがふと顔をこちらに向けます。

「は、はい。そうです」

 私が頷くと、彼女は続けて聞くのです。

「どこにあるの?」

「えぇと、八幡神社の近くにあるんですけど……」

「そうだったの?じゃあ、今度行ってみようかしら」

 そんなことを話しているうちに教室に到着しました。桜ちゃんはいつものように森田さん達に取り囲まれてしまい、私と桜ちゃんはそこで一旦別れることになるのです。私はこの瞬間がとても寂しく、時として森田さん達への憤りを覚えることさえあるのですが、桜ちゃんが別れるその直前に私の手を取り「じゃあ、また」と言ってくれることだけがただただ嬉しいのでした。


 桜ちゃんが私を「大切な友人」と公言してくれた日から、森田さん達が私に話しかけてくることはありません。ですが、やはり視線のようなものは前と変わらず、いえ、むしろ一層強く感じるようになりました。それは恐らく彼女達が私のことを明確に敵対視し始めた、ということなのでしょう。彼女達は私と桜ちゃんがお昼休みを一緒に過ごすことにはどうやら目を瞑っているようでした。それはきっと桜ちゃんがはっきりと「そうしたい」と伝えたからで、私のことを受け入れたんだとか、そういうことでは決してないというのは、私にもわかっていました。

 今もただ、森田さんや他の女の子達の刺さるような視線を感じます。桜ちゃんといれば気づくことすらないそれは、私一人では耐え難いのです。彼女達の視線が、私には針のように感じられるのです。私に向けて放たれる、無数の針。そしてその全てが毒を塗られているかのようにじくじくと、いつまでも痛むのです。

 だから私は毒針から逃れるように、そっと口の中で桜ちゃんの名を呟きます。何よりも尊く、愛しい、桜ちゃんの名を。

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