第2話
その日も私はいつものように、一人でお弁当を前にしていました。クラスの中では当たり前のようにいくつかのグループが形成されていて、お昼休みは大抵そのグループ
桜ちゃんの所属しているグループはどのグループとも友好的で、中心にはいつでも桜ちゃんがいました。けれども決して桜ちゃんがグループを作ったというわけではなく、ただ桜ちゃんの周りに人が集まった結果グループが出来上がったというカタチでした。そう言う意味では、桜ちゃんがグループを作ったと言えるのかもしれません。ただ私が言いたいのは、桜ちゃん自身にはグループを作ろうという意思はなく、桜ちゃんの人柄によって自然とグループが形成されたのだということです。彼女という人がそれ程素晴らしい人間なのだということです。
そんな彼女と私なんかが関わりを持って良い筈もありません。同じクラスの一員として、学校生活を送る上で必要最低限以上の交流を持ってはいけないと、私は常々思っていました。桜ちゃんが私に興味を持つようなことはまず有り得ないし、私さえ身の程を弁えて行動をしていればいい。遠くから見つめているくらいなら、きっと桜ちゃんも許してくれるだろうから。
そう思っていたんです。
忘れもしません。いえ、忘れ得る筈もありません。二学期が始まって一、二週間程経った頃です。残暑の厳しい日でした。その日も私は一人でお弁当を食べ終え、母が一緒に入れてくれていた水羊羹を食べようとしていました。
「それ、なぁに?」
ふと、頭上から美しくて可愛らしい声が降りかかりました。鳥の囀りのように美しく、鈴の音のように軽やかな。私の耳に焼き付けられたその声は、とても聞き覚えのあるモノでした。
それは決して私に対して向けられることはない筈の声。
恐る恐る顔を上げると、目の前には彼女が———桜ちゃんが、立っていました。
何かの間違いだろうか。私の耳が目が、ついにおかしくなったのか。いやおかしくなったのは
「…原田さん?」
桜ちゃんが少し困ったように私の名を呼びます。そこで私はやっと、目の前の彼女が本物なのだと気づきました。
「は、はい!」
私のその慌てたような様子が可笑しかったのか、桜ちゃんは口元に手をやって上品に笑いました。たったそれだけの仕草でさえ、私の目は吸いつけられるのです。
「ねぇ原田さん。貴女、いつも食後に変わった物を食べているわよね。私、ずうっと気になっていたのだけれど、それは何かしら?」
桜ちゃんが私に、話しかけている。業務連絡でも何でもなくて、ただ私に。
私はこれまで見聞きして感じてきたことよりも深く、深く、何よりも深く感動し、小さく身震いしました。
「こ、これは水羊羹と言って、その…お店の余り物を母がいつも……」
私がしどろもどろに紡ぐ言葉に、桜ちゃんが小さく首を傾げます。
「原田さんのお家は、お店をしているの?」
「は、はい…!えっと、和菓子屋をやっていて……」
「まぁ、和菓子屋さん?素敵!私、和菓子ってあまり食べたことがなくって。お饅頭くらいかしら、食べたことがあるのは」
今時、和菓子を好んで食べる人はやはり少ないのでしょうか。殊更に学生となっては、和菓子よりもケーキやクッキーといった煌びやかな洋菓子の方に目がいくのでしょう。
「えっと、私は、その…和菓子も、いいかなと……えと、だから……」
「…原田さん。それ、一つ頂いても良いかしら?」
桜ちゃんが私を見ています。私と、私の父が作った水羊羹を見ています。桜ちゃんの視線が、こちらに向いているのです。これは夢でしょうか。現実なのでしょうか。桜ちゃんが私に興味を持つ、桜ちゃんと私が会話をする。夢でなければそれは奇跡以外の何物でもないでしょう。
「こ、こんなもので良ければ…」
私が手渡した水羊羹は、桜ちゃんの綺麗な口元に運ばれて行きます。彼女は少しの間それを味わって、そして口を開きました。
「…美味しい。美味しいわ、これ」
「ほ、本当ですか?お口に合ったならよかった、です……」
桜ちゃんが私を見ています。私は桜ちゃんの目を見ることが出来ません。こんな私が桜ちゃんと目を合わせることがそれだけでもう罪であるような気さえするのです。それなのに、桜ちゃんは再び口を開くのです。こんな私に向かって、言葉を紡いでいくのです。
「ねぇ、原田さん。私とお友達になってくれないかしら?」
彼女の言葉を理解するのに、少々時間を要しました。もちろんその言葉が前後の繋がりを全く無視した唐突なものであったから、という理由もあります。だけどそれよりも、その言葉は私には相応しくなかったのです。
「お友達、ですか……?…私と……??」
おどおどと問い返す私に、桜ちゃんは優しく頷きます。
「ええ。…もちろん貴女が良ければ、だけど」
断る理由などありません。断る必要もありません。断る権利など、持ち合わせていません。
「そ、それは私の台詞です!…私なんかが友達で、良いのですか??」
すると桜ちゃんは笑いました。可笑しそうに、楽しそうに、笑いました。
「もちろんよ。だって私が貴女とお友達になりたいって思ったんだもの。…それじゃあ、なってくれるの?」
私はもう胸が詰まって声も出せず、ただ大きく頷きました。
「原田さんの名前って……」
「杏です。
「そう…素敵ね。杏って呼ばせて頂戴?」
桜ちゃんの口から私の名が零れます。良い思い出も無ければ悪い思い出も無い。思い入れも無ければ有り難みも無い。そんな私の名を、桜ちゃんが呼んでくれる。嗚呼、なんて。なんて素敵なのでしょう。彼女の口から彼女の声で響く私の名はまるで私のものではないように感じました。
「はい…!…あの、…桜ちゃんと呼んでも、良いでしょうか…」
「ええ、もちろん!…ふふ、嬉しい」
桜ちゃんが笑っています。その笑顔につられるようにして、私も小さく笑いました。
「嬉しい、ですか?」
「ええ!私ね、名前で呼び合うお友達に憧れていたの。だってなんだか、少しだけ…特別なお友達のような気がしない?」
特別。特別な、お友達。私が、桜ちゃんの。
「…はい。私も、そう思います」
私が頷いたのとほぼ同時に、教室のドアが開いて女の子達が入って来ました。いつも桜ちゃんの周りにいる子達です。恐らく皆でお手洗いにでも行っていたのでしょう。彼女達は数人でお手洗いに行くと、何故かしばらく戻って来ません。今日は桜ちゃんだけが教室に残っていたのでしょう。彼女達は桜ちゃんと話していた私を見ると不快そうな顔をして、それから桜ちゃんに駆け寄りました。
「二宮さん!ごめんね、待たせちゃって!」
「ねぇ二宮さん、ちょっと聞いて欲しいんだけど……」
それぞれが桜ちゃんに話しかけながら、それでも明確な意思を共有して自然と私と桜ちゃんの間に壁を作り上げていきます。
そのことに気づいた桜ちゃんが、困ったような申し訳なさそうな笑顔で「また後で」という風に私に手を振りました。私はそれだけでも舞い上がるほど嬉しくて、もう桜ちゃんの周りの女の子達へ抱いた不快感など、忘れてしまうのでした。
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