30 狐の嫁入り

 雨が、降り出していた。

 太陽は照っているにも関わらず、雨がさあさあと降り続いていた。傘も何も持たない私は、全身を引きずるように歩いていた。どこへ向かっているのかは、自分でも今ひとつわかっていなかった。ただ、何をどうやったって意味がないことはわかりきっていた。私じゃ、オサキを再び探し出すのは不可能だ。さっきのは、奇跡だった。あれだけ探して、あれだけ叫んで、やっと向こうから現れてくれたんだ。もう二度と、会うことはないだろう。

 実感すればするほど、枯れたはずの涙がまた流れ落ちていきそうだった。だが、それがどうしたというのだろう。涙くらい流しておけばいいのだ。ちょうどよく、雨も降っているのだから。

 もはや、私にはそれくらいしかできないのだから。

 空はしばらく、夜の濃い青色を残していたけれど、マンションの近くに戻ってくる頃には、ほとんどすっかり淡く透き通った朝の色になっていた。ただ、雨だけが降り続いている。

 小鳥遊公園のユズリハの葉も、雨をうけて淡く輝いていた。それを見て、ぼんやり獏のことを思い出した。獏は、知っているだろうか。オサキがもういなくなってしまったことを。もしも知らないのであれば、私が伝えるべきだ。漠然とそう思った。オサキと獏は古い付き合いのようだった。きっと、獏も知りたいだろう。まともに機能してない頭でそこまで考えて、ユズリハの木を揺らした。

 何もない空間から、うっすらと獏が姿を現した。珍しく、開口一番の不機嫌な文句はなかった。代わりに一言。

「そうか。三つ叉はついに九尾の女狐の元に行ったのじゃな」

 感慨深そうな台詞だけが、吐き出された。どうやら、わかっていたらしい。多分、八咫烏の語ってくれた昔話を、この獏は直接その眼で見ているのだろう。全てを、わかっていたのだ。

「よくぞ生きていた、人間。わしは貴様が好きでも嫌いでもないが、もはや三つ叉の忘れ形見。何かあれば、助けてやろうではないか」

「……本当に、私を助けてくれるの?」

 半信半疑の思いで尋ねた。

「わしの力が及ぶ限り、じゃがな」

 念押しのように、獏は付け足した。

「なら、オサキを救って。助けてあげて! 今すぐに!」

「ならん。少なくとも、三つ叉は今この時まで確かに生きている。手助けなど無用じゃ。下手に手を出せば、わしも九尾の女狐の餌食になる。それだけは勘弁じゃな」

「え。まだ、生きてるってわかるの……?」

 てっきり、最悪の状況に陥ってることを覚悟していたのだ。それが、まだ生きている。事実なら、少し嬉しかった。ぬか喜びのようなものだけれど。

「この雨。これは三つ叉が降らせている雨じゃ」

「この、雨が……」

 つと、空を見上げる。降り注ぐ光の合間から雨はいまだ降り続けている。

「こんな雨を、狐の嫁入りなどと表す人間もおる。曰く、狐の嫁入りが行われているからじゃそうじゃが、実際は少々異なっていてな……。この雨は、どこかの狐が泣いている証拠なのだ。自らの涙を隠そうとする狐が……。きっと、この度は三つ叉じゃろうて。意地っ張りなところが、あったからの」

 懐かしそうに空を見上げる獏は、本当にオサキのことを惜しんでいるようだった。ああ、なんでそんなオサキがこれから喰われねばならないんだろう。いくら遠い昔の約束とはいえ、悲しすぎる。

「全てを、なかったことにできたらいいのに」

 それは、あまりにも儚い希望だった。

 実現しないことは、重々わかっている。ただ、思わずにはいられなかった。

 全てが、夢だったらよかったのにって。

「ねえ、じゃあ、獏には何ができるの?」

 念のために、聞いておこう。オサキとの唯一の繋がりらしき繋がりを残しておきたい。そういう思いだった。

「わしにあるのは、老年ゆえの知識くらいのものじゃ。まあ、本来は人の夢を喰うものではあるが……そちらはまあ、悪夢でも見た時くらいしか使い道はない。覚えていなくてもいい話じゃよ」

「夢を、喰う?」

「ああ、そうじゃ。悪夢を喰らうのが、獏じゃ」

 たった一つ。そう、たった一つの思いつきが生まれていた。しかし、これが本当に成功するものなのか、はたまた獏にできることなのかすら、私にはまだわからない。けれど、どこかで確信があった。オサキツキであったがゆえの、勘だろうか。

 私が口にすれば、それは現実になるとどこかではっきり、私は知っていた。

「獏」

「何じゃ?」

「全てを、夢にして」

「……なんと言った、人間?」

「全てを夢にしてほしいの。オサキが九尾の女狐と約束した時から……いや、私がオサキに憑かれてからでいい。たった四日程度! それを全部、悪夢として喰ってはくれない?」

 獏は、呆然とした顔をしていた。そんな発想、したことがなかったのだろう。でも、私は知っている。それが可能だということを。

「ねえ、できるでしょ? 全てを、夢として喰らえるでしょう?」

「……できぬことは、ない」

 苦々しく、獏は頷く。

「だが、それは勧めないぞ。この現実というものを悪夢ととらえ喰らうのならば、現実そのものが失われる。普段見ている夢と同列の扱いに落ちる。つまりは、夢の内容は貴様しか知らぬものとなるのだ」

「それでもいい」

 即答していた。

「だって、そうすればオサキは助かる」

 獏は深く長く思案していた。止まない雨音がその時間を優しく埋めてくれる。大丈夫だと、勇気づけてくれる。

「確かに……貴様にしかできぬ方法じゃ。獏は人の夢しか喰えん。背負うならば、全てを三つ叉と共に経験した貴様しかできぬ。しかしそれは、時に枷となろう。時に鞭となろう。生半可では終われぬものを、抱くことになるぞ」

「いいよ。どうせ私は、オサキツキになった身だから」

 深呼吸して、腕を広げた。雨が、さっきからじっとりと体に染みこんでいく。これがオサキの涙だというのなら、受け止めよう。受け止めて、夢にしてしまおう。その苦しみごと、全てまとめて。

「……承知した。貴様の覚悟、夢を喰らうこの時この瞬間のわしだけは、覚えていよう」

 サイのように小さな眼が、まっすぐ私を見た。私も、まっすぐに見返す。オサキの赤い眼のようであることを願って。

 獏は私の準備が整ったのを確認すると、突然空中で、熊の体をうねらせ、虎の足を踏みならし始めた。空間が、いきなり振動を始めた。どこからか、ぴしりぴしりと亀裂の入る音がする。

 振り乱される象の鼻と牛の尻尾が余計振動を大きくしているようだった。平衡感覚が全くわからなくなる。だんだんと、全てが曖昧になっていく。どっちが上で、どっちが下だ? どっちが右でどっちが左だ? 回る回る。回り続ける。どこまでもどこまでも。

 何もかもが、夢のように遠くなっていく。

 私はその夢を掴んでいられなくなって、いつの間にか手を離していた。そして、落ちていく。どこかへ。どこまでも。落ちていく。落ちていく。私は夢から、落ちていく。いや、夢に、落ちていく。遙か彼方の、遠いところへ、たった一人で、落ちていく。

 そして、意識が完全に落ちきる。

 ——その寸前、たった一粒の雨粒が、右手を引っ掻くように叩いて……ともに、落ちていった。



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