29 朝焼けの別れ
倒れるように、抱きしめていた。いつの間に傍に来たんだろう。どうして、尾が一本になってしまってるんだろう。疑問はいくつもあった。言いたい文句もたくさんあった。けど、そんなのは全部吹っ飛んで、ああ、この場にオサキがいるんだってそれだけで、もう最高で、何もいらなかった。
あらん限りの力で抱きしめると、一本の尾が優しく背中を撫でてくれた。その感触だけで鮮明になったはずの視界がもっとずっと歪んでいく。
オサキと繰り返し幼子のように呼ぶのに、声が涙に濡れすぎて、自分の耳で聞き取るのも判然としない。だというのに、オサキは「左様さ」「ああ」「その通りだ」などと律儀に答える。それが嬉しくて嬉しくて、堪らなかった。
時間がゆっくりと過ぎていって、私がようやく落ち着きを取り戻した頃合いに、オサキはそっと数歩距離を取った。私も、敢えて距離は縮めなかった。そんなことしたって、しょうがないと思ったから。
その数歩は多分、狐と人間の差なのだ。引かれた境界線を互いに意識するためのものなのだ。だから、甘んじて受け入れた。
オサキとこうして向き合えた。それだけでこの身が裂けそうなほど嬉しいのだから。
「汝の声を聞いた。……もう二度と会わぬつもりだったさ。しかし、こうも呼ばれては死に物狂いで駆けつけるしかあるまい。時間はない。簡潔に済ませるぞ」
「わかった」
「汝に伝えたいことは、ほとんどない」
面と向かって言われるとなかなか堪える台詞だった。それでも、逃げたくはないから、顔を上げた。
「一つは、左様なら、さ。挨拶をすることができなかったからな。稲荷神社で松葉を燻され、棒で叩かれ、からがら逃げ出すので精一杯だった。白狐に襲われぬよう、あの辻まで行くのが限界だったのさ」
「うん」
「加えて、汝はきっと、何故吾が汝を助けたのか、疑問に思っていることだろう。理由は単純明快さ。吾が汝を人間として生かしたいと思ったからにほかならぬ」
オサキはどうやら、全てを話してくれる気らしかった。八咫烏も語ってはくれなかった思いについてまで。それを聞くのは少しだけ恐かった。けど、オサキは淡々と話し続ける。
「吾が汝を観察するようになったのは、四月の末頃からだった」
私の小テストが既に零と一を刻み始めてた頃だ。
「それが吾の命だった。吾が主から想い人を守るべしという意志を受け取ったのだ。それからことあるごとに、汝を見守っていた。……吾は、汝のことをずっと以前から見ていたのだ。それが、この度全ての理由さ。汝を守るのが、助けるのが、吾の役割だったのさ」
「じゃあ、役割だったから仕方なくだったの?」
「本当に、そう思うか?」
悪戯っぽい苦笑が、ずきんと胸の奧を疼かせた。
「それだけなら、この命を投げうとうなどとはせぬさ。……一度だけだ。よく聞け、人間」
息を止めた。けれど、心臓は早鐘を打っている。
「吾は、汝を愛しているのさ」
思わず、唇を噛み締めた。言うべき言葉が、途端にわからなくなってしまった。ぐるぐるぐるぐると、数多の言葉が頭を周り、最終的に零れ落ちたのは、なんとも情けない問いだった。
「なんで、私を……?」
でも、一番聞きたいことでもあった。
するとオサキは、破顔一笑した。
「愚問さ。一生懸命な汝を四六時中見ていて、惚れないなどということはあり得ない」
そこには一寸の迷いすらなくて、否定することも誤魔化すこともできなかった。ただ、オサキが言うならばそうだったんだろうと、恥ずかしくも思うだけだ。
「私、は……」
「言わずともよいさ。汝の気持ちが吾に向いていないことくらい承知の上。それに当然、忘れてはおらぬ。汝は人間、吾はオサキ」
狐は、はっきりと首を横に振る。数歩の距離を縮ませないように。
「このまま、別れるのがよいことさ」
「待って……」
声を絞り出す。
「汝が幸福に生きることを、吾は祈っているさ」
「待ってって……」
必死に繋ぎ止めようとする。
「左様なら、さ、人間」
「待ってってば! お願いだから!」
けれど、体が言うことを聞かない。
「何も、泣くことはない。汝の傍には、優しき人間が多くいる」
「伝えたいことが、まだ、たくさん残ってる!」
視界が歪んで、オサキの姿さえ曖昧になっていく。
「笑え、人間。……笑ってくれ」
「九尾の女狐に喰われる気なの!?」
私の言葉をオサキは全部無視をして、懇願する。
「汝の笑顔が見たいのだ。澄んだ黒い眼を見たいのだ」
「そんなの、嫌だ……嫌だよ!」
笑えなんて、場違いな願いを口にする。
「汝の黒い眼を、心底想っていた」
「こんなのって、ないよっ!」
この場で、肝心な言葉だけは叫べない私を置いて。
「汝を誠に、愛していたのさ」
「私がほしかったのは、こんな結末じゃない!」
一人勝手に、進んでいく。
「誠に、誠に」
「私はただ、……」
そんなの許さない。
「誠に、さ」
「一緒にいたかったのに!」
涙を拭いて、想いを振り絞ってやる。
「大好きなオサキと! ずっと!」
ようやく、オサキの赤い眼が大きく見開かれた。
「私は、オサキのことが堪らなく大好きだったんだよ!」
大声で、叫んでいた。
オサキは、ゆっくりと本当にゆっくりと赤い眼を細め、言った。
「吾も、大好きさ。瑠依」
名前と共に、額に軽く触れるものがあった。それが何だか、はっきりと確信する前に、オサキは身を翻していた。慌てて立ち上がろうとして、その場に崩れ落ちる。
「オサキ!」
言うことを聞かない体が憎かった。
「オサキ、待って! 待ってってば! 死なないで! 死なないでよ!!」
いや、それよりもオサキの名さえ私は知らないのだと、はたと気づいて、酷く胸が痛かった。ちゃんと名前を呼び返すことさえ、私にはできなかったのだ。
ああ、溢れ出る涙は、まったくもって止まりそうもない。
それなのになぜか、夜明けの光は私を明るく照らしていて、ただただ、惨めだった。
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