28 真夜中の疾走

 始まりと同じように、八咫烏は濡れ羽色の翼をばさりと広げ、音もなくそっと畳んで、その昔話を終わらせた。

「つまりは、……オサキは喰われにいったってこと?」

「そうなりますネ」

 八咫烏は濡れ羽色の翼を繕いながら銀色の眼を細めた。

「どうして……」

「愚問ですネ。最初からわかっていたことではありませんカ。あのオサキは、貴方に憑いた時点で喰われることは決まっていたのですからネ」

「最初、から?」

「普通、オサキが人間を助けることなどあり得ないのですネ。ましてや命の引き替えになど、カカッ、本当に俗世に近い妖怪は面白いものですネ」

 八咫烏は銀色の眼を光らせる。

「だからワタクシメも、こうして遊びにきたくなるんですネ」

 カカッ、と羽根の付け根の辺りを揺らして笑う。

「何が、どういうことなの? 私に憑いたから、九尾の女狐に喰われることになったって?」

「その通りですネ。きちんと理解しているではないですカ。何を不思議がっているのですカネ?」

「だから……、なんで私が人間に戻ってるかって……」

 銀色の眼がぱちぱちと瞬かれた。

「カカカカッ! 人間はおかしなところに疑問を持つのですネ? そんなこと、憑き物落としをしたから以外にないではありませんカ」

 憑き物落とし。松葉や唐辛子を燻したり、オサキツキの肉体を痛めつけたりするという方法。それを、あの白狐のもとで行ったっていうのか。私の体を乗っ取った上で。——私の苦痛を引き受けた上で。

「何でよ……」

 何で、そこまでするんだ。そんな、自分の命が懸かってるのに、私なんかを助ける必要なんてなかったはずだ。わざわざ痛く苦しい思いをして、私なんかを人間に戻す必要はなかったはずだ。

 あの狐はバカだ。バカすぎる。

「オサキは……オサキは今どこにいるの!?」

 喰ってかかるように、八咫烏に詰め寄った。向こうは気圧された様子もなく、カカッと笑う。

「走っておいでなさいネ! 足掻くには十二分の時間があるではないですカ。……せいぜいよい夢を、見るのですネ」

 追い立てるよう、八咫烏は濡れ羽色の翼を大きく羽ばたかせた。

 背中を向け、すぐさま走り出す。ここで立ち止まっていても、八咫烏はきっと何も教えてくれない。だったら、この足で行けるところまで行くしかない。八咫烏が走れというのなら、それだけの猶予はあるのだ。諦めちゃ、ダメだ。

 ぎゅっと唇を噛み締めた。

 まだだ。まだ、いける。

 暗闇に呑まれぬよう気を張って、私はいっそう強く地面を蹴った。

 稲荷神社。歩道橋。学校。自動販売機。マンション。公園。駅。オサキと行ったであろう場所はどこでも探した。けど、どこを探しても見つからなかった。

 息は完全に上がって、体力はほとんど底を尽きた。けど、まだやれる。そう、自分を奮い立たせた。なんでここまで必死なってるのか、酸欠の頭ではこの思考回路の意味するところを考えることさえまともにできない。それでもいい。もうなんでもいいから、私はオサキを問いたださなければいけないんだ。

 どうしてって、言わなきゃ。

 そうじゃなきゃ、終われないんだ。

 私は走った。どこへでも。どこまでも。

 普段はバスじゃないと絶対行かないような遠い場所までも走った。絶対に出会えると信じて。無我夢中で走り続けた。

 空はもう、次第に明るくなってきている。

 気づけば、尭と行ったプラネタリウムの傍まで来ていた。それならいっそと、向かってみる。歩くよりも遅いような走りで、ひたすらまっすぐに。

 辿り着けば、プラネタリウム付きの天文台が入道雲を背負って、私を出迎えてくれる。当然のように、オサキの姿はなかったけれど。

 それを確認して、どっと疲労が肩にのしかかってきた。

 ここにもいないのならば、もはや私の手の届かないところに行ってしまったんじゃないだろうか。そう思って、苦しくなる。嫌だと思う。

「オサキ……」

 呟きながら、地面へ膝を突いた。もう、立っていることもつらい。足は完全に棒だ。あと一歩だって、動けやしないだろう。それを実感して、全てが手遅れだと理解して、視界がどんどん歪んでいく。

「あ、ああああああ」

 人目も憚らず、喘ぎ泣く。眼を覆う手が狐でないことにももはや泣けてくる。

 どこで、私は間違ったんだろう。どうすれば、私はオサキと別れずに済んだんだろう。どうして、どうして……。

「オサキ、まだ、生きてて……」

 そうだ。会えないならば、生きててほしい。

「九尾の女狐なんかに、喰われないで……」

 どんな形でも、生きててほしいんだ。

「遠くへ……遠くへ逃げて」

 それでもう、二度と会えなくなったとしても、喰われてしまうより、断然マシだ。

「生きてよ、オサキ」

 私の願いは、それだけだ。それだけでいいから叶えてよ。

 返事は、あるはずもない。ただ白々と夜が明けていく。青い入道雲に赤く線がほとばしっていく。美しい情景だった。

 美しすぎて、涙がもっともっと溢れ出てくる。

「オサキ!」

 わけもわからず、朝日に向かって叫び散らした。そんなことして、何になるわけでもないのに。でも、そうでもしないとやってられなかったんだ。

 もう、前も見えない。

 ただ一人でしゃくり上げることしかできない。

 慰めの言葉なんて振ってこない。

 力があるなんて励ましてはくれない。

 叱咤して立ち上がらせてはくれない。

 隣で楽しそうに笑ってはくれない。

「オサキの、バカーーーーーーーー!!!」

 届け、と思っていた。

 どこか遠くで生きているオサキに届け、と。

 けれど、返答は思いの外、近くから聞こえたんだ。

「左様さ」

 聞き慣れた声、聞き慣れた返事。

 慌てて、涙を拭って、鮮明になった視界に飛び込んできたのは、一本の尾を持つよく見知ったオサキだった。



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