22 諦めという決断
朝起きると、妙な怠さがあった。寝苦しかったとかそういう部類ではない、体全体をまとう重みだった。億劫に思いながら体を起こして、……右脚を凝視した。小麦色の毛がびっしりと生えている。触れてみると、関節の位置が変わっていた。足先は動物みたいに爪が伸び、肉球が存在する。両手の時とは変化の仕方が、恐ろしいほどに違っていた。狐の毛並みに覆われ、爪が鋭くなっても、うまく動かすことができなくても、それはあくまで人の手の延長のようなところがあった。でも、右脚は無理矢理人の大きさにまで引き伸ばしたような、不気味な狐の脚だった。
「オサキ、あと何日で私は狐になるの……?」
「たかだか数日さ。……昨日告げた通りだ」
ベッドの隅で、オサキが欠伸をしながら答える。その赤い眼は果たしてこの重要性を理解してるんだろうか。今ひとつ、真意は読み取れない。
ただ、胸中がざわつくだけ。恐る恐る動かした右脚はコントロールが全くきかないというわけじゃない。ただ、違和感が異常なほどにつきまとう。二段ベッドを降りることすら、怖々としなきゃいけなかった。
カーペットに足裏をつけてほっと息を吐いた私の前へ、オサキは二段ベッドから軽々と飛び降りる。
「明日には左脚が変質するだろうさ。さすれば、日中には胴体を小麦色の毛が覆い、気がつけば狐となっておろう。そして、尾が生えれば、お終いさ」
「数日って、……ほとんど明日じゃん」
「決断は本日、そう告げたはずさ」
赤い眼が、私を見ていた。ごくりと息を呑む。
「どうしろって、言うわけ?」
オサキは首を振る。
「言うなれば、覚悟を持てという一点のみさ。決断と言えど、選択権はほぼないのだから」
その通りだと思った。今、この不揃いな両脚で立っていることすら、本当は辛い。バランスを崩して転倒しちゃうんじゃないかと、二段ベッドの柱をさっきから手放せない。
「それに……」
そう、それに、私は今日この部屋から出られない。右脚がここまで狐となってしまえば外に出ることなんてままならない。父にも母にも会うわけにはいかない。隠す方法が全くもって思いつかない。その事実に力が抜けて、半笑いで尻餅を突いた。
「八咫烏を探すことすら、できないじゃん」
ああだから、オサキは選択権がないなんて言ったんだ。
もうもはや、諦める道しか残っていないんじゃないか。このままここで、狐となってしまうのを待つだけ。
この小麦色にまとわれて、私は——私という人間は終わるんだ。
「なーんだ」
あっけない。こんなにもあっけなく、日々は終わるんだ。見下ろした狐の手が、滲んだ。ぽとりぽとりと涙が落ちる。それと同時に、私の心も深淵へと落ちていく心地がする。人じゃなくなるなんて、ちゃんと考えていなかった。それは嫌だと言えば、なんだかんだ乗り越えてしまえるんだと勘違いしてた。こんなザマ、想像すらしてなかった。
「瑠依ー? まだ寝てるのー?」
お母さんの問いかけが扉の向こうから聞こえてくる。そのせいで、ここがギリギリ日常の端っこだということを思い知らされて、余計苦しくなる。
抗う術なんて、もうなかった。だからオサキは諒との別れた後、悔いはないかなんて聞いたんだ。
それなら、もっと早くはっきり言ってほしかった。
そう思うと同時に、だとしても何も変わらなかっただろうともうっすら理解していた。
どうしたって、私は私の本心を偽ることはできなかっただろう。自分が強がってばっかな不器用だってことくらい、知っている。
「オサキ、ごめん」
流れ出る涙は止まる気配がない。ぎゅっと体を縮こめて、顔を伏せる。頬に否応なく触れる狐の手に自嘲せざるを得ない。これが、普通になっていくんだ。私は、異形と成り代わるのだ。
「ごめん、ね」
「何故、謝る?」
「だって……」
だって、私は狐になるのをこんなにも嫌だと思ってる。じゃあいっそ狐になってやるだなんて、バカみたいに啖呵を切ったのは一度や二度じゃなかったのに。
「それなのにさ、嫌だなんて。今更すぎるじゃん。……それに、オサキだって狐なのに」
オサキのことは嫌いじゃない。大切に思ってるのに、感謝だってしてるのに、それでもやっぱり狐になることが気持ち悪くて、恐くて、堪らない。
「汝は人間。吾はオサキ。それだけのことさ」
悲しむそぶりさえ見せず、オサキは淡々と言ってのける。
「それでいいの? いいはずが、ないでしょ?」
「諦めなど、当の昔についている。いずれ、九尾の女狐に喰われるのが吾の運命。変わることはないさ」
平然としていた。けれど、その赤い眼に悲しみの色が混じっているように思えるのは私の勝手な妄想だろうか。
「私は……オサキと離れたくなんかないよ……」
楽しかった。ここ数日が。オサキに憑かれて、いくつもの妖怪に絡まれて最悪だったりもした。それでも、オサキがいたからこそ、尭や靖と話せた。
諸々に向き合うことがほんの少しでもできた。
だって、オサキだけは、見当外れなことを言わなかったんだ。言うのは根拠のないようなことだけ。私に力があるとか、バカバカしいことだけ。でも、そう言ってくれるってことだけで、嬉しかった。
オサキに私は、どこかで救われてた。あの赤い眼に、何度背筋を伸ばされたことだろう。それなのに、どうしても異形と化していく自分が末恐ろしくて仕方がないのだ。
「ごめん……」
「その言葉のみで、充分さ」
三百三十三年生きたという狐は、赤い眼を細め、にっこりと笑ってみせた。
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