20 願わなかった再会

 下駄箱で靴を履き替えながら思う。

 何のために、私は今日ここに来たんだろう? 嫌なことばかり起きる。オサキの言う通り、事態が後退しただけだ。尭との溝は埋まったようで広がっていた。諒との友情はずたずたのボロボロだ。同じ形には、どうしたって戻れない。

「まっすぐ、か」

 それはいいことなんだろうか? そもそも、私ってほんとにまっすぐだろうか? 尭やオサキの赤い眼のほうがよっぽどまっすぐに私を射貫く。苦しいくらい。

 自然、私は早足になっていた。きゃあきゃあと騒ぐ同級生の声から少しでも離れたくて、校門を出るとすぐ住宅街に足を進める。もう出掛けるべき人は出掛けた後だ。じりじりとした暑さだけで、人の声は遠い。それに、少し安堵する。意図せず漏れたため息で、喉がからからなことを自覚した。数メートル戻って、自動販売機の前に立った。小銭を入れて、適当なスポーツドリンクのボタンを押す。下へと落下したそれを拾い上げて頬に当てると、キンキンに冷えていて心地良かった。

「大丈夫」

 何がどう大丈夫なのかはわからなかった。でも、そう言わなければならない気がした。肌がなぜか粟立ってる。嫌な気分だ。軽く辺りに目線を走らせて……、ぞっとした。

「ダメだ」

 呟くと同時に、踵を返して走り出していた。オサキがきょとんとした顔のまま、私の隣を駆ける。

「どうした?」

 私はそれに、うまく答えられない。

「あ、……あいつが……」

 立ち止まってはいけないと、全身が警告を発している。足を一歩進める度に風を感じられるのが、救いだ。蝉の音もちゃんと五月蠅い。このまま走っていれば、逃げ切れるかもしれない。

 ああ、油断した。昨日の今日で——なんてそんな理屈、妖怪相手に通じるはずないのに。

 オサキは判然としない私に首を捻り、後方を見遣ってふっと表情を殺した。それだけで察する。もう、視界に入るくらいの距離にいるんだ。汗がどっと沸き上がってきた。はやる心臓の音が頭に響く。ただ、手袋越しに感じるペットボトルの冷たさだけが、ここが現実だと訴えている。

 ヤバイヤバイヤバイ。

 思いだけが先走っていく。対処法が何一つ思いつかない。だって、昨日だってオサキの尾が一本犠牲になったのだ。このままじゃ、もう一本犠牲になってもおかしくない。

 いや、それより前に、私が喰われたって何の不思議もないのだ。

 夜の世界の女王。

 九本の尾を持つ女狐。

 黒い毛並みを持ち、赤い隈取りの合間から黄色の眼を光らせる安倍晴明の血族。

 私たちを狙うもの。

 無我夢中で駆け続ける。方向なんて考える暇もない。ただ、少しでも九尾の女狐から遠いところへ逃げなければ。

 けれども、そんな都合よく逃げられるほど、相手は甘くなかった。

「アタシはね、空腹で堪らないのです」

 耳元でねっとりと囁き声がした。足がつんのめるように、止まった。全身の毛が文字通り逆立った。両の腕に生えた狐の毛がざわざわと音を立てる。

「アタシはね、オサキツキをも喰らいたいのです」

 舌なめずりする音と共に、生温かいものが首筋を撫でる不快な感触に背筋が凍った。殺される。嫌だ。嫌だ。死にたくない。嫌だ。嫌だ。

「嫌だ!」

 喉の奥底から振り絞るように叫んでいた。前方へ倒れ込むように這い、逃げる。体裁とか面目とかそんなことは一切考えてなかった。ただ、九尾の女狐から一刻も早く離れたかった。

「九尾の女狐。吾の尾ならくれてやる。…………腹の足しにはなるだろうさ」

 振り返ると、オサキが九尾の女狐と向き合っていた。二叉となった尾の一本を、差し出すように向けている。また、喰わせるつもりなんだ。……私を助けるために。

「オサキ!」

 気づけば、地面を蹴っていた。そんなことして、どうにかなるわけないのに、二人の間に割って入っていた。

「わ、わ……」

 口を開きながら、何をバカなことをしているんだろうと思った。でも、体が咄嗟に動いていた。オサキにこれ以上、私を守ってほしくなかった。どうしてだろう。全ての発端は、このオサキのはずなのに、どうしてか私は憎めない。憎みきれない。

 だって、……全てがオサキのせいじゃないから。この九尾の女狐が狙ってるのは、最初っから私も含まれていたんだから。

「わ、私は……オサキを喰わせないっ!」

 後先考えずに飛び出た台詞と同時に、喉から熱いものが迫り上がってきたような気がする。

「あ、あああああああああっ!」

 叫びながら、それを吐き出した。青白く燃え上がる、その狐火を。唖然とする私を置いて、狐火は真正面にいた九尾の女狐に直撃する。けれど、九尾の女狐は悠然と佇むままだった。狐火の中、微笑さえ浮かべているように見える。

「アタシはね、オサキツキをも愛しているのです」

 何の動揺も見せない九尾の女狐に、たじろぐ。どうしたらいい。今の狐火でやっと、奇跡みたいなものだったのに。他にどうすれば、オサキと一緒に逃げ切れる!?

「人間、戯れ言は寄せ。その生を容易に諦めるな。幾度言の葉にすれば、汝は聞き分ける? その九尾の女狐に、そんな目眩まし程度の威力では意味がないさ」

「アタシにね、深く深く愛されたいかしら?」

「御免さ、九尾の女狐。汝と相対するのは、吾が一匹。とくとご覧にいれようぞ。しがなきオサキの狐火を!」

 直後、凄まじい咆哮と共に巨大な狐火が燃え上がった。その光景に眼が釘吐けになる。同じ狐火でも、物が違いすぎる。所詮私は、半妖という奴だということか。

 立ち尽くして、揺らめく狐火を見上げていたら、強引に私を引っ張るものがあった。オサキだ。いつの間にか、一回り大きくなって、私を背に跨らせる。

「手を、離すな」

 それだけ言って、速度を上げる。小麦色の風が住宅街を走り抜ける。でも、後ろからは漆黒の風が追いかけてくる。

「オサキっ!」

「承知しているさ」

 いっそう、オサキは足を速める。けれど、九尾の女狐が諦めてくれるはずもない。どうしよう。どうしよう。私は一体何をすればいい? 何をすればオサキの助けになる!?

 ぎゅっと身を縮こまらせて、顔を覆った。そこでふと頬にひやっとした感覚がして、我に返る。右手にいまだ持ったままのスポーツドリンクのせいだった。少しそれで、冷静さを取り戻す。でも、だからってどうしたらいいかはわからない。何か。何か、この窮地を脱する方法は!

「人間、息をしろ。汝は——できる」

 オサキは確かにそう言い切った。なぜだろう。オサキは私の落ちこぼれ具合を目撃していたはずなのに、一切の迷いなく断言する。ずっとそう。始めから、そうなんだ。

 私は改めて深呼吸して、考える。今ある力を総動員してできることを。オサキの助けになれることを。

 冷たいスポーツドリンク。目眩まし程度の狐火。中身の少ないスクバ。狐となった両手。妖怪を見れる眼。その他諸々。

 さて、やれることはなんだ。

 私は黒い眼で、漆黒の風を見据えた。


 作戦をまとめてオサキに伝えると、頷きが返ってきた。息が荒い。もう限界に近いんだろう。明確な目的地があるのか、オサキは一切足を止めず、迷いなく進んでいく。

 住宅街をしばらく駆け続けたと思いきや、飛び出した先は大通りだ。一瞬、車道に飛び出すのかと思って身構えたけど、流石にそんなことはせず、歩道橋を上っていった。そこでやっと、意図を察する。

 稲荷神社だ。

 あの白狐がいた稲荷神社にオサキは向かってる。なるほど、神域に逃げ込めば少なくとも、襲われることはないってことか。あの白狐に再び会うと思うと憂鬱だが、九尾の女狐よりは何千倍もマシな相手だ。

 念のため、背後を見て、九尾の女狐と充分に距離が空いてることを確認する。多分、九尾の女狐は地理に明るくないのだろう。くねくねと何度も曲がって翻弄していたのが効いたみたいで、大通りに飛び出した時には、しばし私たちを見失っている様子だった。やった。軽くガッツポーズをする。歩道橋はもう中程まできてる。階段を駆け下りれば稲荷神社は眼前だ。ほっとして、胸を撫で下ろす。このまま、逃げ切れそうだ。拙い作戦を披露せずに済みそう。

 なんて、流石に甘かったらしい。

 気づけば、九尾の女狐は視界から消えていた。慌てて真下をよく見回すと、幾多も車が行き交うのを構いもせずに車道へ飛び出す姿があった。呆気に取られてると、軽自動車の天井に飛び乗り、隣の車線のバスに移り、あっさりと歩道橋に着地した。向かい側の階段ギリギリ手前だ。咄嗟にオサキは飛び退いて、数十メートル間隔を空ける。

「アタシはね、愛しきものを喰らいたくて仕方がないのです」

 舌なめずりした九尾の女狐は妖艶に笑みを象る。真昼であるせいか、余計黒い毛並みが際立って、異質さを底上げしてる気がする。蜃気楼を背負っているのが、酷く不気味だ。この暑さもこのべたつきも全て、九尾の女狐のせいみたいに思えてくる。

 いつかと違って、風も吹き、蝉の声もあり、車の走行音も聞こえてくるのに、この歩道橋だけが地上と遮断されてるみたいだ。すぐそこの稲荷神社が遠い。

「オサキ」

 そっと背から降りて体調を尋ねるような視線を向けたら、思いの外しっかりと首肯された。多少無理をしてる風はあるけど、九尾の女狐相手だ。それくらい、許してもらうしかない。

 私は、黒い眼で黄色い眼を見つめる。

 九尾の女狐は私を見ているようで、見ていない。人としてじゃなく、食料の一種として眺めてるような雰囲気だった。ぞっとしない。

「私は……諦めないから」

 自分を叱咤して、しっかりと踏ん張る。

 それから、深く肺に空気を溜め込んで、必死に感覚を思い出しながら、これ以上ないほどの大口をあけ、叫んだ。青い狐火が、いくつもまとまって一直線に九尾の女狐へ向かっていく。こけおどしだと理解してるからだろう。九尾の女狐は微動だにしない。いきなり動きを変えて、自分を取り囲むようになっても、無視を決め込んでる。そのあまりにも余裕綽々な態度にイラッとくる。その苛立ちに任せて、スポーツドリンクの入ったペットボトルを思いっきり放った。平然と尾の一つで受け止める相手は、私が足掻くのを面白がってみたいだ。

「ちくしょう!」

 吠えながら、駆け出した。無謀な私に、九尾の女狐はいっそう愉快そうに先の白い尾を揺らす。

「いっけーー!!」

 合図に従い、ぐるぐると回ってた狐火が中心の九尾の女狐へ一斉に襲いかかった。私の放った狐火は、どれも威力のない目眩まし、避けられることさえなく儚く消えていく。けど、一つだけ——オサキの放った狐火だけは違う。

 足元へ直進したその狐火は、容赦なく九尾の女狐の前足を焼いた。反射的に悲鳴を上げ、前足を持ち上げたまま後退る九尾の女狐へ、私は走るスピードを一切緩めず、体当たりを喰らわした。

 狙い通り、九尾の女狐の体勢がうまく崩れてたおかげで、諸共重なるように倒れ込み……、宙へ浮いた。予想してなかった浮遊感に眼を剥くと、歩道橋の階段がありありと映る。平地でのことを想定して立てた作戦は、どうやら最終段階で著しいミスとして現れてしまったらしい。

 絶叫が口から溢れ出た。九尾の女狐は、いまだ変わらず、笑っていた。かと思うと、その姿は陽炎のように揺らぎ、跡形もなく消え去った。代わりに迫り来る地面だけが、はっきりと認識できる。

 縋るように、半身を翻した私は空へ手を伸ばした。

 引っ掻くように、何かが私の手を掴む。

「ふふっ」

「何故笑う」

「いや、掴んでくれるだろうと思っただけ」

 太陽を背負うその狐は、不機嫌そうに私を引っ張り上げて、階段途中へ連れ戻した。



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