19 遙か彼方に希う
流石に、そのまま部活の時間を一緒に過ごせるほど、二人の心は強靱じゃなかった。お互いに心の整理がしたかったし、他に用事もあったし、私は美術室を何気ない風を装って逃げ出した。諒と向き合うのは、苦しかった。やっぱり優しすぎる。それできっと損をしてるだろうに、諒はいつまでも優しいんだ。
「断って、悔いはないのか」
「今のところは、だったでしょ」
足元から問い掛けてくるオサキに、吐き捨てる。やっぱり主の恋の行く末は気になるらしい。ずっと静観していたくせに。
「だとしても、何もせぬままでは狐となってしまうぞ。それは望みではなかろう」
「でも、嘘は吐けない。それこそ残酷な優しさだよ。毒みたい」
大切だからこそ、本当のことを言ったっていいはずだ。
「それならば、どうする腹づもりさ」
「ひとまずは他の方法を探すよ。八咫烏、だっけ。会えない?」
「かの者は、……簡単に邂逅できるものではないさ。アマテラスの使いなのだから」
オサキの返答はどこか歯切れが悪い。
「本当は、知ってたりして」
オサキの表情を伺いながら、軽く鎌をかける。
「八咫烏が姿を見せるのは、取り返しがつかなくなる寸前さ。今はまだ、時ではない」
顔を逸らして言うところが嘘っぽいけど、まあ追求しても仕方ない。それより前にやることがある。
「尭の居場所、検討つかない?」
「あの星好きの少年か? 存ぜぬ」
「どこかにいるといいんだけど……」
学校へわざわざ足を運んだもう一つの理由が、尭に会うことだった。家も電話番号も知らないから、連絡の取りようがなかったんだ。ただ、昨日制服を着てたことだし、部活か何かで今日も学校に来てる可能性はある。そう思って、校内を適当に歩き回っていたところ、二階の突き当たりにある図書室から出てくる人影が眼についた。
「尭!」
名を呼ばれて、顔を上げた。ほんの微かに驚きの色が浮かぶ。
「よかった、会えて。えっと、まずはお金」
傍へ駆け寄ってスクバを探り、財布を取り出す。昨日は無一文だからプラネタリウム代もバス代も払ってもらったけど、奢ってもらう道理はなかったはずだ。けど、財布を取り出す前に手で制された。眼が合うと、首を振られる。
まあ、そんなところじゃないだろうかと思った。言うなれば、お金のことはついでだ。
本題は別にある。
「星が、遠かったんだ」
尭に前振りは余計な気がして、単刀直入に話し出す。
「部屋の窓から見たのだったけど、プラネタリウムより何倍も何百倍も遠かった」
マンションの屋上にまで上がる勇気は出てこなかった。そこから見てもまた遠いと感じたくはなかった。そんな風に記憶を上塗りしたら、プラネタリウムの素晴らしかった星空が全部偽物になってしまう気がして。……そもそも、プラネタリウムは偽物に違いないのにね。
「星は遠い。デネブなら千四百光年」
「千四百、光年……」
光年というのがどのくらいの単位なのか、さっぱりわからないけど、千四百って数字だけで遙か彼方だってことくらいわかる。
「そんな遠くじゃ、願いなんて叶えてくれそうもないじゃん」
星に願いをなんて、誰が言ったんだろう。流れ星に三回も願い事を告げるのが無理だって、やってみればすぐにわかることなのに。私みたいなバカだったんだろうか? 毎夜毎夜、夏の大三角形へ意味もないのに縋ってた私みたいなバカがいたんだろうか。滑稽すぎる。
「遠いからいい」
「は?」
「遠いから願う。遠いから手を伸ばす。遠いから輝いて見える」
相変わらず、尭の言葉は謎かけみたいだ。
「近いんじゃダメだって言いたいわけ? 遠いものじゃないとって?」
尭は頷く。
「遠いから、好きになる」
顔色一つ変えず、そんなことを言う。
「何、春のこともそうだって? 好きだね、ほんと」
呆れて肩を竦めると、赤い眼がじっとこちらを見つめてきた。私を見透かすみたいにまっすぐで、つい後退しそうになる。ぐっと堪えて、見つめ返した。
「何?」
「……誰かを、大切に思ってる」
「え? 尭が?」
「雨沢さんが」
「私が?」
「遠い星にまで希うのは、叶わないと諦めてるから」
……俺と同じように。
赤い眼は、私を断罪するかのように厳しい。咄嗟に、違うという言葉が口をついた。
「違う、違うよ! 私が聞きたかったのは、星が遠くって、どうしてそれなのに尭はそれを好きって言ってられるかってことで、別にそういう話じゃない! 私は、ただ、尭みたいに一人で立つには、星みたいな何かが必要なんじゃないかって! ただ、それだけで……。私も、星を見上げてたはずだから……どうにかなるかもって……」
口から溢れ出してくる思いは、不格好な形となってしまって半ば意味を成さない。私は、一体どうしたかったんだろう。自分自身の意図さえ、不明瞭になっていく。
「私は……」
私は、……何だ? どうしたかったんだ?
諒の好意を断って、尭にわざわざ問い掛けて、どんなことを星に願おうとしてたんだ?
誰かを、大切に思ってる? それってじゃあ、誰なんだ?
「わからない。わかるわけない……」
頭を抱えて、しゃがみ込んでしまいたかった。学校は、向き合いたくないものに溢れてる。眼を閉じてしまいたい。
「息をしろ」
はっとして、振り返った。尭の眼前だということも忘れて、足元のオサキを見る。
「たかが戯れ言。気にやむ意味など皆無さ」
片方の赤い眼が、下からもう片方の赤い眼を睨みつける。声も視線も届くことはありえないのに。だからこそ、私を見つめたままの赤い眼は平然と言い切った。
「嘘という偽りは苦しい。誰よりも、自分自身が」
そして、さよならの一言さえもなく、尭は階段を下っていった。
「何なの、尭ってば……」
無闇に心の中を掻き乱された気がする。ぎゅっと掴んだ胸元の皺が、私の苦しみとやらを如実に現している気がして、気持ち悪かった。
「忘却しろ。たかが、人間の狂言さ」
オサキは青い狐火を苛立ち紛れに吐き出して、さっさと歩き出した。何も言わず、私はそれに付き従う。
頭の中はぐちゃぐちゃなままだ。
尭の赤い眼には、一体何が見えていたのだろう?
誰もいなくなった廊下は、ただ夏の陽光をその床で受け止めていた。
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