18 優しさという毒
ぱたぱたと微かにはためく淡い暖色のカーテンが五月蠅いと思った。でも、諒の息を呑んだ音は聞こえたから、それは私の逸る心のせいだったのかもしれない。余計な音が耳につく。野球部の伸びる掛け声。ぽーんと響くピアノの音。それらは、幻聴なのだろうか。私には判断がつかない。
「諒」
急かすように名を呼ぶと、諒はびくりと肩を跳ね上がらせた。いまだ美術室に足を踏み入れてはこない。
まるで、私を恐がってるみたいだ。それに少し笑う。私の足元には、オサキが纏わりついている。見下ろさなくても、感覚でわかる。あの赤い眼はどちらを見ているのだろう。この話の如何によっては、私に憑くのは止めることになるはずだ。それをやっぱりオサキは望んでいるのだろうか。
私と諒が付き合うことを。
「もしかして、聞こえなかった?」
諒は首を振った。
意地悪な質問をすると、自分でも思う。けど、はっきりとした答えがほしかった。そうでなければ、先に進めない。この両腕を元に戻すためには、立ち止まってはいられない。遠くないうちに、全身が狐になってしまう日が来るのだから。
「僕の絵のせい?」
「絵?」
キッ、とこちらを力強く見返した諒の言葉は要領を得ない。
「そこにある絵だよ」
言いながら、あっさりと美術室に入って、キャンバスを一つ取り出した。幾何学的な模様で描かれた教室で、女子生徒が歌ってる絵だ。華やかな色合いで、心の温まる素敵な絵だ。
「これがどうかした?」
「これじゃなかった? ……雨沢さんを描いてたんだけど」
「私?」
予想外の答えに、慌てて絵を覗き込む。
確かに、女子生徒は私と同じセミロングの髪だったけど、全体が抽象的で、絶対に私だとは言えそうもない。
「歌声が……好きだって言ったでしょ」
キャンバスを眺めながら、諒は好きと口にする。それはさっき私の心臓を鳴らせた好きとは全く異なる声色だった。つい、たじろいでしまいそうなほど、そっと大切に紡がれた声。
「……物好きだよ」
「そうかな? 僕だけじゃないと思う。少なくとも、森山さんは雨沢さんの歌声が好きだったんじゃないかな。じゃなきゃ、あんなに音楽を愛してる人が誰かとバンドなんて組まないよ」
甘言だった。
「いつもそうだね。諒は優しい。私が言ってほしいことを言って、してほしい勘違いをしてくれる」
やっぱりそれは、どこか残酷だ。向き合うことを拒絶されて、立ち向かうことを許されないと断じられたような気がする。
「僕は、嘘なんて吐いてない。思ったことを言ってるだけだよ」
「だからだよ、諒。だから、私は苦しいんだよ」
「苦しい?」
「苦しい。だって、まるっきり違うから。私が認識する私と、諒が認識する私はあまりにもかけ離れてる。その差が、辛い。諒が見てる私は、ここにはいないのに」
この絵みたいな女子生徒はいやしないのに。
「そんなことない。ちゃんと僕の前にいる。僕が……僕が好きになった子はちゃんといるよ。だって、だってじゃなきゃ、どうしてこんなに泣きそうな気持ちになってるんだよ。おかしいでしょ?」
苦痛に歪められた顔は、本人の言うとおり、今にも泣き出しそうだった。
「あははっ……どうして、バレちゃったのかな。僕やっぱり、わかりやすかった?」
「ううん。私が、ちょっと聞いてしまっただけ」
「そっか……。それで、僕に直接聞きにくるんだもんなあ。雨沢さんはまっすぐすぎるよ」
諒が、目元を隠すように腕で覆った。
「そうかな」
「そうだよ」
頷く声は震えている。
「でもね、僕。そんな雨沢さんが好きなんだ。あんな素敵な歌声を披露していた子が、僕の絵を気に入ってくれるなんて、夢のようだったからすぐには信じられなかったけども。あんなにまっすぐ、仲良くしようよなんて言えるところが、堪らなく大好きだったんだ」
顔をくしゃくしゃに歪めて、不格好に笑っていた。私のことをまっすぐに見ていた。
「ありがとう、諒」
「嫌な答え方するね、こういう時だけ」
「もっとわかりやすく言ったほうがよかった?」
「ううん。いいよ。わかってた」
「諒が嫌いなわけじゃないんだ」
「いいよ。もう、それ以上言わないで」
「ごめんね」
「謝らないで。……ただ、許してほしいんだ。僕はまだちょっと、諦めきれないんだ。だからこそ、今日部活の後、一緒にカラオケに行く約束は、………………改めて僕から誘うよ。僕はやっぱり、雨沢さんが好きなんだ。だからさ…………いいかな?」
「うん。今は友達だけど、これからはわからないから」
「その言葉だけで、…………充分だよ」
ああ、やっぱり。諒は毒のような優しい嘘を吐くんだ。私は唇を噛み締める。
カーテンが静かにはためく朝のことだった。
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