17 星空のトロイメライ
飛び起きると、蓄光の星空が見えた。見慣れた天井だ。ほっとして、私は胸を撫で下ろす。さっきまでの夢はなんだったんだろう……。狐が出てきたような気がする。赤い眼を見た記憶がぼんやりと残っている。けど、あれは尭の眼? ダメだ。よく思い出せない。薄暗いグレーのイメージだけが、頭に残ってる。
とにもかくにも、奇妙な夢だった。
けど、寝ぼけ眼の頭じゃささやかに残っていた残滓も片っ端から忘れていく。勉強机に置かれていた紙切れのせいで、余計一気に吹き飛んだ。ノートの端を切り取ったものに、靖の筆跡でこう書かれてる。
勉強、ガンバレッ!
ただ、それだけだ。それに、動揺する。だって、私の成績が落ち込んでも誰も何も言わなかったんだ。家族も友達も。学校の先生がほんのちょっと苦言を呈したくらい。
今日まで勉強に言及したのは、オサキくらいのものだった。いくら私が落ち込んでも躓いても、大半が言う。部活、ガンバレッ! って。春が突き指するまで、部活で辛い思いも苦しい思いもしたことなかったっていうのに。それなのに、口を開けば部活部活。靖だって、例に漏れずそうだったはずなのに、なんでこんな紙切れがあるんだろう。
「汝の兄上も、案じているのさ」
満足気に頷くオサキの気が知れない。
「こんなの……」
と、悪態をつきながら拾い上げようとして、左手を伸ばした。そこで、左腕全体が狐と化していることを視認する。浮かぶのは、やっぱりって気持ちだけだ。昨日だってオサキ本人が言ってたんだ。わかりきってたことだ。今更悲しいなんて思わない。淡々と、袖をまくって肩からは人であることを確認する。
「尾がなくなった分、負担を強いた」
何言ってるんだか。
「いいよ、そんなの」
私を守るために、尾を喰われたくせに。
「それより、さっさと行こう」
「何処へ?」
「私の嫌いな場所だよ」
言いながら、私はワイシャツをカラーボックスから引っ張り出した。
それから、制服に着替え、マンションの一つ上の階、大崎と書かれた表札の前で待つこと数十分。いってきますという明るい声と共に扉が開いた。諒が大きな画板を抱えてて出てくる。
「おはよ、諒」
シミュレーションのおかげか、いつも通りの変わらない声色が出た。
「え、……え!? 雨沢さん!? え、どうしてここに!?」
眼を白黒させ、わたわた慌てる諒に笑いを噛み殺す。
「一緒に学校行こうよ」
「え、いや……それはいいんだけど……でも」
今まで、示し合わせて一緒に学校へ行ったことなどなかった。通学途中にばったり会えば、並んで登校する。約束は一度もしていない。どちらかが待ち伏せしていたこともなかった。いや、本当はどうだったんだろう。私は待ち伏せなんかしてなかったけど、諒がどうだったかまではわからない。
私には、諒の気持ちはわからない。
「諒! 行こう」
先導してエレベーターのボタンを押すと戸惑いがちに諒が隣に立った。
「今日はね、諒と行きたいところがあるんだ」
「い、行きたいところ……?」
全く検討がついてない顔で、諒は首を傾げる。
「うん。そっちの部活が終わった後でいいから。ダメ?」
「全然! 全然いいよ! ご、ごめんね。部活がなかったらすぐ行けたのに……」
「あははっ。そんな急ぎじゃないってばっ」
「そう……? ならいいんだけど……」
少し不満げに眼を伏せる諒は、オサキとは似ても似つかない。この諒が、オサキの主ねえ……。
当のオサキは、私の足元で呑気に顔をかいている。諒に対する尊敬の念が全く感じられない。なんだか、オサキの話の信憑性が疑わしくなってくる。そもそも、本当に諒が私のことを好きかなんてわからないじゃないか。オサキも春も間違ってるだけかもしれない。
今日は、……それを確かめるんだ。
私は決意を固めて、エレベーターへと乗り込んだ。
が、そんな決意虚しく、学校に到着するまでの間で諒に尋ねることはできなかった。それはこっちの決意以前の問題だった。諒が珍しくマシンガントークしてきたのだ。エレベーター内で、一緒に行きたい場所はカラオケだと告げてから、異様なまでに上機嫌になったのだ。ついオサキに向かって肩を竦めてしまうくらいに。
「昨日の晩御飯何食べた? 僕は、カルボナーラだったんだけど、上に乗ってた半熟卵がとろっとろで美味しくてっ! 父さんはほんと料理が上手いと思うんだよね! 雨沢さんにも一度食べてもらいたいなあ! あ、料理といえば、最近は男でも料理できるほうがいいって言うじゃん? でもね、僕は苦手なんだよなあ。下手くそすぎて見てらんないんだって。同じ男でも父さんとは雲泥の差なんだよ。雨沢さんはできる?」
「まあ、ちょっとは?」
「すごいね! 僕は本当にさっぱりなんだよ。センスがないってやる前から父さんは決めつけるんだ。本当に酷いよね。父さんはいっつも決めつけるんだ。全部がマイナスってわけじゃないんだけど。たとえば美術部に入るって言った時は……」
この調子だ。
基本的に、こっちに口を挟ませようという気概が見られない。
「ああ、でも本当に……楽しみだなあ」
感慨深そうに諒が長く息を吐いたのが、ちょうど校舎に入る段階だった。たかだか数十分程度の時間だったはずだけど、正直物凄く長かったように思う。なんなんだ。こんな喋る奴だったっけ……? 体力が根こそぎ奪われた気がする。
「そ、そんなに……?」
「勿論。この前は結局、僕一人だったから。ありがとう」
「いいよ。お詫びも兼ねてるし」
昇降口で共に上履きへ履き替えながら、答える。
「それでも、だよ。僕はやっぱり、雨沢さんの音楽が聴きたかったんだ」
「あ、でもギターは無理だよ?」
流石に、両手が狐のままじゃどうしようもない。日焼け防止の黒い手袋で何とか誤魔化してるところなんだから。こうやって、靴を履き替えるくらいなら、何とかなるんだけど。手全体で握る放すの動作くらいはぎりぎりオッケーだ。
「ううん。それでいいんだよ。……本音を言うと僕は、雨沢さんのギターより歌声のが好きなんだ」
「歌声?」
あまりにも怪訝そうな声が出てしまったんだろう。階段を数段昇った先から、諒が振り返ってはっきりと頷いた。
「うん。また、聴きたいんだ」
「またって、そもそも私、諒の前で歌ったっけ? それに、私の歌声なんかより何百倍も春の歌声が綺麗でしょ」
「森山さんの歌声は、うん、確かに綺麗だと思うよ。でも、そうじゃないんだ」
「はあ?」
ますます意味がわからない。音楽を愛する春と音楽に何の感情も抱いてない私とじゃ、その歌声に天と地の差があって当然のはずだ。
それを、諒は一体何を言ってるんだ? 耳鼻科にでも行ってきたほうがいいんじゃない?
「僕が、雨沢さんの歌声を聴いたのは……四月の始めの頃だよ。校歌を覚えるための授業があったりしたでしょ? その時期」
それは、確かに入学して本当に間もない頃だ。私が、落ちこぼれ出すよりも前の話。未だ自分の力を過信していた時のこと。
「授業中……? でも、クラス別じゃなかった?」
「授業じゃなくて、放課後」
耳を傾ける私とそばだてるオサキに、諒は話し出す。もはや私本人でさえ忘れてしまっていることを。
「僕はその時、校舎を見て回ってたんだ。どこに何があるのかってなかなか覚えられなくて、人気のないところにも足を運んでたんだ。屋上に繋がる階段の傍にもね。そこで、歌声を聴いたんだ。最初は微かな声量で、おずおずと校歌の音をとっていたけど、次第にはっきりと、でも邪魔にならないくらいの大きさで歌い始めたんだ。僕はそれを、階段上の主に気づかれないように隠れて聴いてたんだけど、すごく…………なんだろ。楽しかったんだ。敢えて言うなら。
他にも、言い方はあるのかもしれないけど、ただ僕の心情だけ表すなら、楽しかった。幸せだった。そんな言葉がしっくりくる。充足感で満たされていく。そんな感じ。
ただの校歌なのに、こんなに楽しめるものなんだって、正直びっくりだった。……それにね? 階段上の主はもう一曲歌ったんだ。僕が好きなマイナーバンドの曲だった」
「星空のトロイメライ」
「そう、その曲」
ぽつりと口の端から零れた曲名を、諒が拾う。
「夏の大三角形について歌った歌。シングルのカップリング曲であんまり有名じゃないのに、知ってる人がいるなんて思わなかったよ。そもそも、僕だってあの曲をそんな名曲だなんて思ってなかったんだ。……雨沢さんが歌うのを耳にするまでね」
星空のトロイメライ。確かに、名曲とは言い難いかもしれない。けれど、私はその歌が好きだった。だから、何となしに歌ったのかもしれない。屋上に昇る階段に腰掛けて歌を歌った記憶は、頭をひっくり返しても出てこないから、確実なことは何もわからないけど。
「そんなのが、よかったの?」
「そんなのだなんて言わないでよ。僕はほんとに好きだったんだから」
好き。不意打ちの言葉に、心臓がどくりと鳴った。
「僕はおかげでいっそう好きになったんだ」
「あの、曲が、だよね?」
「うん」
頷き、廊下を行く諒の背を見る。決して広くはない。逞しくもない。ただ、優しさだけが滲み出てる気がする。
「そう、優しいよね」
「ん? 何か言った?」
「いや、ただ優しいなって思って」
「……そんなこと、ないと思うけどなあ」
歩みを早めて隣に並ぶと、苦笑する諒の顔が見えた。少し、申し訳なさそうな恐縮した顔。
「やっぱり、優しいよ」
その優しさに何度救われたかはわかったものじゃない。
私は先に立って美術室の扉を開け放つ。中には、ちょうど誰もいない。だから私は、数歩中へ足を踏み入れて、息を吸った。
「諒、私のことを好きって、ほんと?」
でも、その優しさは時には残酷だったんだ。
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