14 オサキの赤い眼
春が七月の体育祭で怪我を負った。二人三脚の練習中に転んで突き指をした。それは、私と一緒に練習してた時のことだ。部活対抗で二人三脚をやるのが、うちの学校の恒例だった。私は春と組んで、出場する予定だった。本番前の空き時間。試しに少し走ってみようってしてみたのがいけなかった。
体育祭は人の行き来が激しい。端に寄って練習していたとはいえ、人はどこもごった返してる。駆けてく人を避けようとしたはずみで足がもつれて、転倒した。人を避けたのも春で、怪我を負ったのも春だった。つまりあれは、春の過失だ。私が思い悩むことじゃない。ドンマイって声をかけあって、春は休んで補欠の子と交代する。簡単なことだった。それが、私にはできなかっただけの話だ。
運悪く、補欠の子とは全くと言っていいほど喋ったことない女子だったし、練習時間は春を救護室を連れてく間に消滅していた。ぶっつけ本番の勝負。いち、に、でいこうね。そんな確認に頷くだけ。私の右足と彼女の左足は布の枷で一本の足と化すはずが、鉛の足へと変わってしまったみたいに重い。
おかげで、私たちはビリだった。転ばなかっただけ、マシ。私たちは部活のみんなにしょうがないよって慰められて終わった。
いや、終わったわけじゃない。
私がより鮮明に覚えてるのはこの先だ。
種目を終えて、クラスの応援席に帰る気のしない私はふらふら当てもなく歩いていた。春以外に、私と一緒に時間を潰すような友達はいない。救護室に元気な私が長居することは許されなかったし、ただ、ふらふらと徘徊するだけ。
晴れ渡ったの空を、見上げてみたり。誰かの話し声に、耳を傾けてみたり。そうしていると、どんなに人がごった返す場所にいても、一人だと思う。一人ぼっちだ。
周りが五月蠅ければ五月蠅いほど、明るければ明るいほど、自覚する。自分がどのくらい惨めなのか。
諒を探しにいこうかと考えかけて、止める。クラスの友達と楽しそうに談笑してるのが、見えてしまったから。
春がいれば、と思う。
春がいれば、こんな思いしなくてすんだのに。
それはきっと、責任転嫁だ。クラスで息を吐けない私が悪い。あそこで息をできない私が悪い。
全て私が、悪かった。
「森山さん、…………平気?」
黙り込んだ私を心配してか、いや、違った。黙り込んだ私のせいで春を心配して、尭が恐る恐る声を掛けてくる。私は笑顔を作った。
「平気。すぐ元気になるに決まってる」
ほっとしたように、尭は胸を撫で下ろす。彼の関心も私には向いていない。全てはきっと春のためだった。それを突きつけられた気がする。
やがてやってきたバスに乗ろうと促され、隣同士で座って、他愛のない話さえもせず、揺られ続ける。窓の外を見る尭の赤い眼には、星がもう見えているんだろうか。一番星すら、私には見つけられない。ただ、ぼんやり浮かぶ雲と茜色の空が見えるだけ。
「星はやっぱり、遠いな」
そんなことを、ぽつりと呟いてしまった。
終点の駅前でバスを降りて、尭と別れた。彼はどこか満足気だった。やっぱり、春の無事を確認できたからだろうか。なんでもいい。今更もう、なんでもよかった。
夕方の帰宅ラッシュで賑わう駅前から足早に離れる。少しでも早く一人になりたかった。もう少し、星が近い場所に行きたい。
どこへ行っても、息苦しい。あの体育祭の後から、ずっとだ。春が突き指してキーボードを弾けなくなってから、ずっと。居場所が泡のように消えた。あっけなかった。
ああ、私は春に縋って生きてたんだって思い知らされた。だって私は彼女の歌が、彼女の鍵盤を跳ねる指が好きだった。好きだったのに。
私以外の人もそうだったに違いない。だって、尭がそうだった。私を気にかけてくれたのは、春とバンドを組んでたから。それ以上でもそれ以下でもなかった。わかっていたはずなのに、私を見ていてくれてるんじゃないかって期待をしてしまっていた。
自分でついさっき思ったばかりだったのに。尭は私のことを何とも思っていなかったって。世の中そんなもんだって。やっぱり私は、バカなんだって。始めから私なんて眼中になかったって、理解したはずなのに。それを嬉しいとさえ、思ったはずなのに。
どうして私はまた、泣きそうになっているんだろう。どうして、一番星すら見えないんだろう。
人混みから逃れ、マンションに向かういつもの道すがら、私はぼうっと足を動かす。昼間にはここを泣きながら走ってきて、夕方には泣きながら帰る。なんて滑稽なんだろう。
夕暮れの町並みはオレンジ色と黒色のせめぎ合いだ。コンクリートに伸びる私の影はふらふらと揺れている。私自身の心象をそのまま投影したみたいに。夏風がセミロングの髪を散らした。民家から漏れ聞こえる団欒の声に唇を噛み締める。顔を覆ってしゃがみ込みたい気持ちを抑えつけて、歩く。頬を濡らす涙のことは無視をしたまま。
幸い、人通りは少ない。きっと、誰も見てない。私のことなんか、誰も見てやしない。だから、少しくらい泣いたって誰も文句は言わないよ。安心して、私は物思いに耽ることができる。
春の紡ぎ出す音色を思い出す。それが素晴らしいってことには、何の異論もない。私はそれに魅せられて、軽音に入ったくらいなんだ。歌うことは私も前から好きだったけど、音楽を愛している人間というのと初めて出会った。
たとえば、絵に愛されているのが諒だとして、その反対に春は音楽を愛していたのだ。その能力の高さは、お互い同等と思えるけれど、向き合い方の違いは一目瞭然だ。
諒はまっすぐな眼で、絵を見てる。
春は研ぎ澄まされた耳で、音楽を楽しんでる。
片方はプロフェッショナルで、片方はアマチュアなのだ。でも、どちらも最高峰であることに変わりはない。もっと端的に述べてしまえば、真顔か笑顔かの違いだ。
どちらも違った素晴らしさがある。だから私は、二人を好きになった。憧れた。
それは当然のことだ。そうわかってはいるのに、少し悔しい。あんな風に、私もありたかった。あんな風に、息をしたかった。叶いもしない願い事。
だって、一番星を見つけることさえ、できないんだから。
夏のじめじめと纏わりつく暑さを運ぶ風たちは、そんな私を嘲笑う。木の葉を揺らしながら、ガサガサ、ガチガチと音を立てる。自然、早足になる。
帰りたい。帰って、いつもの場所で本物の夏の大三角形を見たい。それは、一番星が遠いように、遙か彼方だと感じさせられるのだろうか。それともプラネタリウムのように身近だと思えるのだろうか。わからない。けど、縋るべき相手はそれしかないと思った。前へ前へ、唇を引き結び、涙を捨て、半ば駆け足で進む。
だからいくら背後で風が笑おうと気にはしなかった。骨が鳴るような不気味な音に聞こえても振り返ることはしなかった。沸き上がってくる寒気は、自身の弱さのせいだと勘違いしていた。
真っ白で巨大な指の骨が、腹を無遠慮に掴むまで。
強制的に止められた歩みと体を不必要なまでに拘束する原因を暴こうと、真っ白な骨を辿っていくと、骸骨が見えた。民家一つは丸呑みにできそうなくらい大きな骸骨だ。ひっと、思わず竦み上がる。頭蓋骨に空いた真っ黒な眼の穴が私を得物として見ていた。ああ、また油断したんだ。私は。
逢魔が時という言葉をふと思い出した。そうして薄く笑う。逃げられない。見定められてる。なら私はこの骨の指に身を預けるまでだ。ちょうどいい。息もうまくできないのなら、ここで終わるのだって一興だ。
「死にたいのか。人間」
響く声があった。どこからともなく、怒気を含んだそれは肌を粟立たせる。
「汝の言の葉を忘れるな。それは誓いだ。それは盟約だ。前を向け。抗うことだけが汝のすべきことさ」
背後を振り仰いだまま諦めようとしていた私は、その言葉通りに前へと向き直る。
いたのは、一匹の狐。二叉の尾を伸ばし、四肢で地に立ち、赤い眼で私を射貫いている。その姿に諦めなんて言葉は全くもって似合わない。
「オサキ」
「そう。吾はオサキ。そして汝はオサキツキ。離れることなど、許されないさ」
不敵に口角をつり上げたオサキは、前足で軽く踏み切って、跳躍した。巨大な骸骨に向かって大口を開き、青き狐火を幾多も燃え上がらせる。
「恐れよ。がしゃどくろ。吾が命の糧となれ」
がしゃどくろと呼ばれた巨大な骸骨は、あっという間に狐火にのまれ、巨体を捻りながら咆哮する。骨の鳴る不気味な音色は悲鳴のように高く鳴り響き、やがて狐火と共に消失した。
その場に残るのは、二叉の尾を持つオサキのみ。
「傷は負うておらぬか?」
「うん、大丈夫」
「助けが遅れた」
「ううん」
「顔を合わせたくはないと思ってな。すまぬ」
「いいよ」
オサキはふわりと、相好を崩す。私も少しそれにつられる。ああ、この狐は私が辛く苦しい時ほど、傍にいてくれる。
「ありがとね」
「宿主の体を守っただけさ」
首を振るオサキは何も誇っていない。赤い眼は一切の邪心なしで私を見てる。優しい光だ。
「帰ろう。オサキ」
「ああ」
逢魔が時は恐ろしい。風は吹き荒び、熱気は渦巻く。なのになぜか、オサキが隣にいると夏の暑ささえ心地良いものになった気がした。
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