13 プラネタリウムの星空
目的地はバスの終点にあった。
人気のあまりない場所だ。住宅街の外れって感じで道路も広ければ、家同士の間隔も広めだ。そこで悠々と立っているのは、ドームを持つ大きな建物。
プラネタリウム付きの天文台だ。
慣れた様子で足早に自動ドアをくぐり抜けた糸魚川に続く。受付の女性がこちらを見て顔を綻ばせた。
「今日は友達も一緒なんだね」
糸魚川は軽く頷いて、料金と引き替えにチケットを受け取ると、我が物顔で奧へと進んでいく。私は迷った末、受付の女性に浅い会釈をしてついていく。
プラネタリウムなんて、来たことあっただろうか。記憶にない。毎夜はマンションの屋上で星を眺めてるとはいえ、別に愛好家なわけではない。夏の大三角形を形作るペガ、アルタイル、デネブがどの星座なのかも知らないくらいだ。でもきっと、糸魚川は知ってるんだろう。様子から察するに、足繁く通ってるみたいだし。
にしても、昼間に肉眼で見える星がプラネタリウムか。存外夢がない。いっそ併設されてる天文台につれてってくれればいいのに。案内板によると、上の階に天文台はあるらしい。一般人が入れるのかどうかはよくわからないけど、常連ならばつれていってくれればいいのに。たとえそこで、ただ空だけが映った望遠鏡を覗かされても文句を言う気はないのにな。
そんな私の気持ちを糸魚川は少しもわかってないらしい。足を一度も止めることなく、映画館のような空間へ入り込んで、適当な座席に腰を下ろす。客はちらほらとしか見当たらなかった。ため息を吐きながら、隣で同じように上を見上げる。だが、今はまだ真っ黒なドーム上の天井が見えるだけだ。
これからここに、星々が映し出されるのだろう。首が痛くなりそうだ。ちょっと辟易する。これじゃ、本物の夜空を眺めてるほうがいいと思う。けど、赤い眼を心なしかキラキラさせてる糸魚川に止めようなんて切り出しにくかった。そもそも奢ってもらってるんだ。それなら彼の言う「見えなくてもある」ものとやらを最後まで拝見するとしよう。
私はスピーカーから聞こえてきた係の人の声に、意識を集中させた。
それから、小一時間くらいだっただろうか。全ての解説が終わって、星空がただの真っ黒な壁に戻った時、私の体は椅子にはりついてしまっていて、立ち上がることができなかった。それ以前に、天井から目を逸らして、糸魚川を見遣るので精一杯だった。
「ね、ねえ」
言葉にしようとした何かは、喉につっかえて出てこない。
「なんていうか、その」
こういう時、なんていうんだっけ。そうだ。
「すごいっ! すごかった! 満天の星空だった!」
興奮して、すごいくらいしか言えない私に、糸魚川はほんの少しだけ口の端を上向きにして、しっかりと頷いた。それだけで、あ、伝わったんだなって思った。いつも私を見下していた赤い眼は、余韻を惜しむように真っ暗な天井に向けられる。そこには、蔑みの思いなんて一欠片も感じられなかった。ああ、綺麗だなあっていう感想が、じんと胸に響いてくる。
そう、本当に綺麗だった。頭の上いっぱいに数え切れないほどの星空が広がっていて、首の痛さなんて考えにも上らなかった。考えていたのは、小学生みたいなことだ。空が綺麗って、ただそれだけ。マンションの屋上で、宿題のために夏の大三角形を見上げてた時の思い。光ってるー。なんて、当たり前のことを、当たり前みたいに言っていた時のこと。
だって、プラネタリウムの空は、信じられないくらい近かった。毎夜見上げていた夜空はあんな遠かったはずなのに、手が届きそうだと思えてしまった。飛ぶことができたのなら、あの星々の元まで行ってみせた。きっと、私はいけただろう。それくらい、あの星空は美しくて、それでいて私の傍にいた。ペガ、アルタイル、デネブ。語られたいくつもの神話にはよく知っていたものが含まれていた。七夕の織姫と彦星。まさか夏の大三角形がそうだなんて、知りもしなかった。ペガが織姫で、アルタイルが彦星。彼らは天の川に隔てられながらも、七月七日を毎年待ちわびているんだ。素敵な恋物語。
「ひとりぼっちのデネブ」
ふと、真横で呟く声が聞こえた。真剣に上を見上げながら——多分、糸魚川には星空が見えているのだろう——夏の大三角形があるであろう場所を指差した。
「一際光り輝くデネブ」
連ねる言葉の意味は判然としない。
「白鳥、カササギ、めんどり……空を飛ぶデネブ」
ただ、それが私に向けられたものなのだろうということは、何となくわかった。
「夏の大三角形は、美しいんだ」
確固とした思いを持って、告げられる。
「そうだね。……異論はないよ」
眼を閉じて思い出す。さっきまでプラネタリウムに浮かんでた夏の大三角形を、そしていつも見上げていたマンションの屋上から見える本物の夏の大三角形を。
確かに、あれは美しかった。
私は、勢いよく立ち上がる。
「糸魚川、ありがと」
彼が何の意図を持ってここに連れてきたのかはわからない。けれど、気分が明るくなったのは事実だ。無感動に首を振る糸魚川と外に出て、私は笑う。
ああ、空がほんのりと茜色に染まってきてる。本物を見れるまで、あと少しだ。
「ねえ、糸魚川。下の名前は、なんて言うの?」
質問の意図がわからないのか、糸魚川は目を瞬く。それにじれったくなって、私は更に言葉を重ねる。
「だから、下の名前。忘れちゃったんだ。教えてよ」
「尭、だけど……」
「尭、ね。オッケー覚えた。これからは尭って呼ばせて。私の名前はー、把握してる? フルネーム。……してないか。雨沢瑠依。好きに呼んで。私、元々星空を見上げるの好きだったけど、今日は一段と大好きになった。尭ほど詳しくはないけど、すごいって思った。だから、ありがと」
尭は、ただ頷く。その無言の頷きがもう心強くなってる。だからもう一つ、勇気を振り絞って付け足す。
「私ね。少し、尭のこと勘違いしてた気がする。その、——赤い眼がずっと恐くて」
多分、それは私のせいだった。私が勝手に恐がってただけで、尭は私のことを何とも思っていなかったんだろう。世の中なんてそんなもんだ。自分で勝手に意気消沈してただけ。やっぱり私は、バカなんだ。知っていた。
「これは、寝不足」
「寝不足?」
「星を見てると、寝る時間がなくなる」
「なーんだ、そんなことか」
声を出して笑ってしまう。ほんと、なーんだって感じ。寝不足のせいもあって、元々目付きがキツイんだ、尭は。それを私が勘違いしてた。見下されてる、なんて。
でも、今日の尭を見てたら自然と違うんだってわかってしまった。星のことにしか興味がないだけなんだ。星だけを見てるから、きっと私なんて眼中になかった。始めから。今日だって、私が星を見ようとしてるって勘違いしたから、ここに連れてきたんだろう。そんなつもりは全くなかったけど、嬉しかった。……ほんとに。
「雨沢も、」
「ん?」
「寝不足?」
「え?」
予想外の質問に、体が強張る。
「なんでー、そう思うの?」
「大変だろ?」
もしかして、何もかも見抜かれてる? 咄嗟に、右腕を後ろに回した。大丈夫。日焼け防止の黒い手袋はつけてるし、バレるはずがない。異常な食欲だって、油揚げで抑えてる。ヘマは踏んでないはずだ。じゃあ、なんで? ごくりと、生唾を呑み込んだ。
「部活。…………ほら、森山……さんが」
「春? ああ、突き指のこと?」
拍子抜けした。なんだ。それか。オサキのことでも、勉強のことでもないのか。緊張して損した。私は警戒を解いて、気軽に問う。
「よく知ってるね、尭。春にそんな興味あるの?」
「そっ!? そんな、……ことは…………」
ただの冗談だったのに、尭は予想以上に取り乱した。視線が忙しく彷徨ってる。語尾も小さくなって聞き取れない。何やらごにょごにょと言ってるみたいだけど。
「もしかして、好きだったりするわけ?」
尭の顔が、一瞬で真っ赤に染まる。冗談だったのに。意外なことに大当たりみたいだ。
「それならそうと言ってくれれば協力したのになー」
「だって、ほら……彼氏」
「ああ、うん。まあいるけど」
なんだかんだ仲良くしてるっぽいもんね。気が引けるか。
「まあ、いいや。とにかく、ガンバレッ!」
背中を思いっきり叩くと、尭は苦しそうに咳き込んだ。あれ、力加減間違えたかな?
「えっと、ごほ……気にはしなくていい」
「何を? 尭のこと?」
尭と話してると、話の根幹がいまいち掴みづらい。
「突き指。雨沢のせいじゃない」
「……そんな。気にしてないよ」
突き指のことなんて、気にしてない。それは多分、嘘じゃない。
「ほんと、気にしてない」
気にしてるのは、その、後のことだから。
はっきり思い出せる。よく晴れた真っ昼間、狭苦しい応援席から響く声援、選手の間に走る緊張感、隣の女子の馴染まない体温、天へと掲げられたスターターの黒さ、高鳴る心臓の音。
どれもこれも、気持ち悪い。
胸中を占めるのは、埋めようのない欠落感。
自由の聞かない右足が、鉛のようで。
いち、に、と声を出す隣の女子の顔だけが曖昧だ。
ああ、転んでしまいたいと思う。——違う。転んでしまいたかったと思う。
春じゃなくて、私が転べばよかったのに。うわの空のまま、私は足を動かしていた。
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