12 真昼の星座

 家に帰っても、動揺は収まってくれなかった。当然だ。こんなにも混乱してるんだから、仕方がない。仕方がないと思うのに、私は部屋中を歩き回ることしかできなかった。

 合宿の準備をしてた靖に五月蠅いと文句を言われても、止めることなんかできない。最終的に靖は肩を竦めて部屋を出て行った。少し、悪いなとは思ったけれど、正直兄なんかに構ってる暇はないのだ。

「契りを交わすことのに何がそんなに問題だ?」

 オサキは検討もつかないって感じで首を傾げる。やっぱりこの狐は感覚がおかしい。

「好きでもない人と付き合いたくないでしょ、普通」

「ふむ。そういうものか」

 恋心なんてものを到底知らなさそうな顔だ。自分の主のことでも思い出せ。バカやろう。って、それが諒なのか。う、う〜ん。どうしよう、ほんとに。

 会って、確かめればいいんだろうか。なんて聞くんだ? 私のこと好き? ……それ、ただの自意識過剰だろう。気持ち悪い。

「無理」

 こういうなんか甘酸っぱい状況ってのが無理だ。私の手には負えない。これなら呪われたほうがまだ楽だったかも。精神的に。呪われる自信ならいっそあったのに。好かれる自信なんて、これっぽっちも持ち合わせちゃいない。ああ、ほんと止めてほしかった。

「吾が主は、そこまで忌み嫌う存在か?」

「嫌いじゃあ、ないよ」

 むしろ単純な、友達としての意味合いなら好きなほうだ。大好きなくらいだ。あの絵心も含めて尊敬してるし、いいなって思う。美術部に入るのも楽しいだろうって気持ちが毎度揺らぐくらいには、諒のことを大切に思ってる。でも、違うだろう。それと恋愛は。……もう、全く、全然。

「クラスのことが、あるから……そこまで思い悩むか」

 ぴたりと足が止まった。

「オサキ、あんた、知ってるの」

 尋ねてから、愚問だと気づいた。オサキは終業式の日、朝から私に憑いていたんだ。体育館からHRまで、私の様子を全て傍で見ていたのだ。

 自嘲気味の笑いが漏れた。抑えがきかなかった。

 はたとして様子で、オサキが私を見た。ああ、嫌な眼だ。赤い眼がしまったと告げていた。私はまるで腫れ物のようだった。オサキは確実に私を憐れんでいた。同情なんて、まっぴらだっていうのに。

 だから私は、必死に全てを覆い隠していたのに。

 泣き叫びたいような衝動がどんっと胸の奥から突き上がってくる。目尻の端辺りの視界が、かすかに歪む。

「黙ってて!」

 喉が痛かった。絞り出した声は、酷く醜い。ああ、嫌だ。やっと、誰も私を見ないでくれるようになったと思ったのに。もう、あの赤い眼に見られたくなかった。夏休みに入ったというのに、なんでまたあんな眼と遭遇しなければいけないのだろう。

 私は、あてもなく部屋を飛び出し、吃驚したまま固まってるリビングの靖のことも無視して、走り出していた。行く当てはなかった。ただ、人の多いところへ向かっていた。そうすれば、泣けないから。そんなかっこ悪いことはしないで済むから。

 そうしてしばらく、辿り着いた駅前をふらふらと歩いていた。つま先を見下ろしながら、必死に唇を噛み締めていた。一滴たりとも零してなるものか。私は、一生懸命今まで耐えてきたんだから。泣いてなんかやるものか。

 これが、ただの意地だというのはわかっている。誰も興味を示していないことだってわかってもいる。それでもやっぱり止められないのは、呪縛だ。

 別にそれは、恋でも愛でもなくて、ただの自業自得だった。

 赤い眼に焦がれたことは、醜いおまけでしかない。分不相応な夢を抱いてしまっていたのが、全ての原因だ。

 机に齧りついている私はさぞかし滑稽だったことだろう。今だって、本当は齧りついていたいくらいなのだ。教室で、バカみたいに勉強をしていたかったのだ。そんなのもう、かっこ悪くて無理だけど。

 でも、当時の私は、高校入学したてだった頃は、まだ、それがやれていたのだ。それが美徳だとすら、勘違いできていたのだ。なんと哀れで、なんと不幸なのだろう。笑ってしまう。あんな惨めで不幸な女は、きっと地球上に私以外いなかった。

「雨沢さん」

 私に話しかけてくれた隣の席の女子。

「何?」

「次の英語の小テスト、どこ出るかなあ?」

「どうだろ。一昨日やったとこかなーとは思うけど」

「ああ、あそこね。……うーん自信ないな」

「私も」

「だよねー。あの先生、厳しいし」

「ほんとそれ」

 他愛のない会話だった。まだ四月くらいの、私が中学から高校の差を何にも知らなかった時の、油断した会話。

「はーい、終わり。シャーペン置いて、赤ペン出してー。隣の席の人と交換して丸つけするぞー」

 それが、多分始めのきっかけだったはずだ。私は、赤ペンをノックして先生が黒板に書く答えを呑気に眺めていたのだ。これから始まる転落を予期することもできずに。

 ただ、隣の女子の丸つけをしながら、自分の解答を思い出して、軽く、本当に軽く凹んでいた。

「残念。惜しかった」

 眉を下げられ、返ってきた私の小テストの出来は、あまりよくなかった。十五点中の六点。ちなみに彼女は、十三点だった。

「あはは。やっちゃった」

「次、がんばろーね」

「うん」

 私もその女子も、事態を重く捉えていなかった。当然だ。これが序の口にすぎないなんて、誰が知っていたんだろう。いや、もしかしたら、誰かは知っていたのかもしれない。だったら教えてほしかった。これからの全てを回避する方法を。

 もう今みたいに誰からも、勉強について一言も触れられなくなるようなことにまで、ならない術を。私は誰かに、ずっと教えてほしかった。

 日々は奇跡なんか何も起こらず、ただ積み重ねられていく。不具合は突然起きたんじゃなかった。回っていたはずの歯車は、ゆっくりと錆びて、気づけば動きを止めていた。いくら手動で必死に回転させようとしても、びくともしない。焦って、油を差してはみたけれど、効果など現れるはずもなく。

 ただ、私が不要になった歯車にいつまでもしがみついている様だけが、無様に晒される。哀れだ。隣の席の女子は、やがてとってつけたような「ドンマイ」の言葉だけを口にするようになり、やがては無口な男子へと交代された。彼の充血した赤い眼は、私を見下していた。

 それが、中学時代に好きだった彼だったことは、不幸というべきか、不運というべきか。いっつもだるそうに、充血した赤い眼をしていて、そのくせ勉強は物凄くできて、私の憧れだった。勉強できるっていいなって、中学時代から抱いていたその思いには、多少なりとも恋心はまとわりついてたんだろう。滑稽すぎて笑える。

 中学時代は、同じクラスになったこともなかったから、私が勝手に彼の噂を聞いていただけだった。でも、高校で同じクラスになって、隣の席に座ることになって、彼の赤い眼が私に向けられるタイミングが生じた。けれど、赤い眼からはただバカな奴と断罪する思いしかそそがれない。

 その頃、私の小テストの点数は、もはや六点なんかとっくに夢のまた夢となり、零と一を繰り返す無機質なパソコンみたいに成り果てていた。彼はもしかしたら無口ではなかったのかもしれない。友達との会話を思い出すと、そんな気さえする。けれど、零と一の繰り返しを目撃して、言葉なんて発することができるのだろうか? なんて、言うんだ? 自分は満点近くをいつも取っているというのに。声をかけるほうが、惨めさが増す。あの赤い眼だけで雄弁に彼は物語っていたのだから。

 いつの間にか、私と友達との会話も、少しぎこちなくなった。だって、授業に関する愚痴というのができなくなってしまったのだ。あまりにも生々しすぎる。勉強ができない。それがあまりにも形を取りすぎていて、引く。気持ち悪い。

 一学期の期末を結局乗り越えることも出来ず、本当は、机に投げ出されたままのスクバには補習の課題がたまってる。でも、狐の手になってしまったんだし、いっそできなくなってよかったのかもしれない。成績が落ち込んだことを、大したことでないみたいに振る舞うのも疲れたから。家でだって、私は仮面を被って、何でもないって顔をして勉強してる。内心は、バカみたいに必死なのに。取り零されないように、落ちていかないように、無我夢中で縋りついているというのに。本当にもう、哀れだ。

 じりじりと肌を焼く太陽の下、私は膝を折りそうになるのを堪えて前を向く。人類全てが、敵のような気持ちを何とか振り切って、ただ意味もなく、歩き続けていた。

 途中でふと、オサキはどうしたのだろうと思った。傍を離れられないと言っていたくせに、姿は見当たらない。あれは虚言だったということなのか。だったらそれでいい。いないまま、見えないままでいい。否応なしに、狐となった右腕の感覚は残っているのだ。

 逃れられはしない。クラスと一緒だ。抜け出すことなんかできないんだ。部活に救いを求めたって、諒に癒しを求めたって、それは単なる一時的なことにしかなりはしないんだから。どちらも結局壊れてしまった。春の突き指に、諒からの思い。私が持て余すには、充分すぎる。

 ああ、もう嫌だ。早く、日が傾いてほしい。無駄に晴れ渡った空を見上げて思う。夏の大三角形が見たい。ペガ、アルタイル、デネブ。屋上で、息を吸いたい。明日を生き抜くための力がほしい。さっきから零れそうになっている涙を止めるだけの強さが、ほしかった。

 でも、やっぱり真昼の空は、ただ爛々と太陽が輝くだけで、私は眼をそっと閉じるのだった。

「雨沢」

 正面からの予期しない呼び掛けに、慌てて眼を見開いた。聞き覚えのあるその声色は、間違いなく赤い眼の彼——糸魚川のものだ。

「やっぱり、雨沢だ。……どうかした?」

 なぜ、彼が今この瞬間私に話しかけてきたのかはわからない。自ら話しかけるようなタイプじゃなかったはずなのに、ずいと、私の方へ足を踏み出して、顔を覗き込んでこようとする。

 必死に瞬きをして、涙の予兆を追い払うと、私はつとめて明るい声で答えた。

「糸魚川こそ、どうしたの?」

 半袖の白いシャツが日の光のせいか眩しかった。中に着た黒いTシャツを軽くぱたぱたやりながら、糸魚川は口を引き結んでいた。問いかけには答えず、ただ眉間に皺を寄せている。

「ねえ、無視しないでよ」

 重ねてみても、糸魚川は不審そうな顔を止めない。ずり落ちそうになったスクバをかけ直す暇があるなら、口を開けってば。

「…………星を、見ていたのかって思って」

「星?」

 やっと言ったかと思えば、これだ。今度はこっちが訝しげになる番だ。今は昼間だってことを理解してるんだろうか? もしかして、糸魚川はテストの方面以外ではバカなのか?

「昼間にも、見える星はある。……望遠鏡を使わないと、無理だけど」

 空を見上げながら、そんなことを言う。結局それって見えないってことじゃないか。

「見えなくても、あるものはあるんだ。……月がいくら満ちても欠けても球体を保ち続けているように」

 不器用な例えだと思った。何を言いたいのかよくわからない。けど、「見えなくてもあるものはある」なんていうのは、まるでここ数日の私の見解そのものだ。私は妖怪を見たことなんて今まで一度もなかった。狐に化かされるなんて——憑かれるなんて、思いもよらなかった。今、ざっと駅前を見回しただけで、妖怪らしきものがちらほらと目につく。名前がわかるのは、一つ目坊主とろくろ首だけなんだけど。

 多分、ろくろ首がいるくらいだし、人間に化けてるのもまぎれてるはずだ。私も……その一人なのかもしれない。握り締めた右手の違和感に、吐きそうになる。

 果たして、私はまだ、人間なんだろうか。いつまで、人間なんだろうか。オサキツキとは、人間と妖怪の狭間にいるのだろうか。ああ、そうだ。私は知ってる。こういうの漫画で読んだことある。半妖って言うんだ。結局私は、どっちつかずなのだ。いつだって、どこでだって。

 うすら笑いを浮かべた私を、糸魚川がどう思ったかはわからない。けれど、真面目な顔で、一言。

「肉眼でも見えるとこ行く? せっかくだから」

 何がどう、せっかくだからなのかはわからない。ただ、「見えなくてもある」ものを見せてくれるなら、ついていこうと思った。傷口に塩を塗るはめになるのか、それとも微かな慰めにでもなるのか。どちらかはわからないけれど、今帰ってオサキや靖と顔を合わせて、気まずくなるよりはきっといい。

 頷いた私に、糸魚川はバス停を指差した。あれに乗るということらしい。駅から離れてどちらかといえば住宅地のほうに向かうみたいだ。いいよ、ついて行ってやる。

 私はタイミングよくやってきたバスに、糸魚川を押し退けるように飛び乗った。

 しかし、整理券を手に、後部座席を陣取ってはたとした。隣に座ろうとする糸魚川に慌てて言う。

「ごめんっ! お金持ってないっ!」

 誤算だった。無一文で飛び出してきたのをすっかり忘れてた。どこに行くにしてもこれじゃあダメだ。一度家に帰ってまた戻ってくるのも気分が悪いし、糸魚川の誘いは断るしかない。とにかく、バスを下りないと。

 そう思うのに、糸魚川が通路近くに立ったまま邪魔をする。

「ちょっとっ」

 そのままスクバを漁り出す始末だ。そんな呑気なことをしてる場合じゃないんだってば。出発したらどうしてくれる。

 無理矢理押し退けてやろうと決意を固めた時、糸魚川が何やら券を取り出した。

「これ」

 差し出されたそれは、バスの回数券だった。金額の書かれた紙がずらずら連なってる。おごってくれるってことか。目顔で尋ねると、糸魚川はさっさと腰を下ろしてそしらぬ顔だ。

「ありがと」

 とりあえず礼を言って、私も座る。

 一体どういう意図なんだろう。不思議に思うけど、横顔からは何も伺い知れない。しばらくしてバスが走り出してからも、口を開こうという様子は見られない。ぼんやり、遠くを眺めてる。声を掛けようかと、正直迷ったけど、何を話していいかわからない。そもそもどこで降りるかもわからないし、私もぼんやりしてしまおう。考えなきゃいけないことはたくさんある。私の右腕のこと、オサキの尾のこと、八咫烏の居場所のこと、九尾の女狐のこと、……そして諒のこと。

 冗談じゃないかって思う。諒が私を好きだなんてことも、糸魚川が私の隣にいることも。

 今、私の心臓は高鳴らない。精神も平常通り。やっぱり、糸魚川に対する思いは恋ではない。焦がれていたのは、彼の能力、彼の姿だ。クラスで見ていても、糸魚川は一匹狼といった風だ。一人、教室で存在できる強さは焦がれてしまう。私は、あそこで息をするだけで精一杯なのに。

 どうして彼はこんな風に、一人立つ力を持っているんだろう。寝不足の赤い眼からは、結局何も読み取れなかった。



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