09 九尾の女狐

「八咫烏の居場所、知ってる?」

 名残惜しげにする諒に別れを告げ、すたこらさっさと校舎を飛び出し、住宅街にある自動販売機の傍で人気がないことを十二分に確認し終えてから、蝉の音に紛れるよう声を潜めてオサキに尋ねたけど、あっさり首を振られてしまった。

「八咫烏との邂逅は、過去一度か二度ほどさ。それも二百年は前のことだ」

 当てにならなすぎる情報だ。二百年前って、そもそも何時代よ……。

「導きの神であり、太陽の化身でもある八咫烏との遭遇はこちらの願いでは叶わない。もっと力のある妖怪ならば話は違うかもしれぬが」

「力のあるって、オサキは強くないわけ?」

「あと六百六十六年ほど生きれば妖孤の頂点となろう」

「六百六十六年……」

 途方もない年月だ。一生の単位が違いすぎて、想像もつかない。私にとっての一日はオサキにとっての百分の一秒くらいなのかもしれない。だからこうも呑気なんだ。夢の瞬きのような時間ならば、驚くほどあっさりと過ぎてくだろう。私が、困ってることを知りもしないまま。

「たとえば——、あの九尾の女狐のようにさ」

 だから、何気ない様子でオサキが鼻先で前方を指し示しても、私をバカにしてるんだとしか思えなかった。何が、あの九尾の女狐のように、だ。私が妖怪じゃないからって、適当なことばっかり言って!

 盛大に文句をぶちまけてやろうと息を吸って、はたと気づいた。風がない。いや、真夏に風が吹かない日があるのはおかしいことじゃない。でも、庭の木々まで揺れ動かないのは、異常だ。そもそも、空気が張りつめすぎてる。じっとりと蒸し暑さが体に纏わりついて、私を圧迫する。そういえば、蝉はどうしたんだろう。なんでこんなにも音がないの? オサキは、黙って前方を見つめたままだ。

 恐る恐る、前方へ目を向ける。蜃気楼漂う道の真ん中には黒い毛並みに覆われた狐がいた。オサキよりも多い九本の尾は、先端だけが白く、綺麗だ。顔には赤い隈取りがしてあって、黄色の眼が際立って見える。

 真夏の炎天下にいるべき存在じゃない。

 まさしく夜の世界の女王みたいな、そんな威厳に満ちた狐だった。

「アタシはね、オサキツキにお願いがあってきたのです」

 九尾の女狐とやらは、オサキを完全に無視して私に話しかけてきた。つい、居住まいを正してしまう。それだけのものを感じたから。妖怪の世界に右手を突っ込んでしまってるから、きっとわかってしまうんだ。この九尾の女狐は、何もかもが違う。夜の住人であるはずなのに、日の光の下に平然といられるだけの力を有してる。蝉の音も風の音も抑えつけてしまうような、空間をねじ曲げるだけの異様な力。あの白狐ともオサキとも全く異なる生き物だ。

 あの白狐とオサキの格の違いは、気品の違いのようなものだった。けど、この九尾の女狐は、威厳がある。一音一音に有無を言わせぬ響きが込められてる。なるほど、あと六百六十六年生きなきゃいけないわけだよ。

「アタシにね、喰われてはくださらないかしら?」

 耳にその声音が届くよりも早く、九尾の女狐は尾で私の体を絡め取っていた。いや、実際のところはただ優しく包み込んでいるだけでしかなかったんだけど、九本の尾に囲まれてしまうと、抵抗する気力は沸いてこなかった。指一本でも動かした途端、そこの部位が無くなることを覚悟しなきゃいけないのだと、本能的に悟ってしまった。機嫌を損ねれば、一発で死ぬ。いや、違う。損ねなくたって死ぬのだ。だって、この九尾の女狐は私を喰いたいと言ったのだから……。

 それを自覚した瞬間、震えが止まらなくなった。歯の根が噛み合わない。死ぬ可能性とかじゃない。この九尾の女狐と行き会うということは死ぬことそのものなんだ。

「九尾の女狐。契約を違えないでもらいたい」

 その中で、凛と響く声があった。恐怖に支配されてない澄んだ音色が、ただただ不思議だった。ぼんやりと滲む視界の中で、決然と立つ大きな輪郭だけが何となしに捉えられる。

「アタシはね、オサキツキにお願いしているのです」

「それも、止めていただきたい。契約は契約さ。この尾に懸けてお誓い申したはず」

「アラシにね、その尾を喰わせてくださるのかしら?」

 舌なめずりするような音が聞こえて、肝が冷える。この九尾の女狐は一瞬の躊躇いすら見せないんだろう。人間が植物を食らうように、オサキが油揚げを食らうように、平然と喉に落とし込む。同情はない。嘆惜もない。あるのはきっと、歓喜だけ。

「……よかろう」

 鷹揚に、首を縦に振るオサキの姿に悲鳴を上げたくて、でも上げられなかった。ゆるりと解かれていく拘束に、膝を突くだけで精一杯だった。熱を持ったコンクリートが嫌に気持ち悪い。それが、私にこれは夢ではないと訴えかけてきていた。

「アタシはね、愛しているのです」

「承知の上さ」

 哀願の思いが、オサキの調子からは聞き取れたって言うのに、腰は情けなくも抜けたままで立ち上がることすらできやしない。顔を持ち上げるだけで、残っていた気力の全てが使い果たされてしまう。

 赤の隈取りが歪んで、大口が開かれるのを呆然と見つめるだけ。目を逸らすという選択肢はなかった。あったとしても選び取るだけの余力などない。先だけ赤い小麦色の尾は一口で悠々と九尾の女狐の口内に収まった。音もなく咥えられたと思った刹那、噛み千切られる。吹き出た赤い赤い血が、九尾の女狐の黒い毛並みをまた赤く染める。あの隈取りも誰かの血だったんじゃないかって確信してしまうほど、その姿は似合っていて、……末恐ろしかった。

 夏風が、二叉になった尾を穏やかに揺らしている。え、風? 気づけば、九尾の女狐の姿はどこにもなかった。風が吹き、蝉が鳴いている。蜃気楼もない。普通の夏の昼下がりだ。

 いつの間に、消えたんだろう。いや、ただ普通に踵を返しただけかもしれない。それさえ記憶が確かじゃない。瞼の裏に残っているのは、黒と赤。それだけ。

「人間、行くぞ」

 血を浴びたオサキはまるで何でもなかったように、私を二叉の尾で背に乗せて歩き始めた。あのやり取りは陽炎だったんじゃないかって錯覚してしまいそうだった。けど、オサキの体に飛び散った血が頬に張りついてもたらす不快な感触は、現実をありありと突きつけてきて、愚かな私を嘲笑うのだった。



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