08 夏休みの美術室

 翌日、昼前。私は、肩にオサキを乗っけて学校へ向かっていた。目的は、諒に謝ることだ。もっと言うと、取り繕うこと。つい焦ってしまったけど、カラオケでの暴飲暴食は恥ずかしかったからという理由で誤魔化せやしないだろうか。うーん、キツイよなー。諒なら怪しいと思っててもスルーしてくれそうなタチだけに悩ましい。

 ちなみにその著しい食欲については、朝食に油揚げを貪ることで事なきを得てる。油揚げ最強説だわ……。人間に戻ってもしばらくは油揚げを食べてしまいそう。とにかく、油揚げがあれば平均的な量でも特に問題はない。地味な出費は痛いけど、昨日の一万円より断然マシだ。

 諒はあの後、しばらく歌って帰ったんだろうか。そそくさと何もせずに帰っていそうな気もする。せっかくなら歌っていってほしかったなー。っていうか、私が歌いたかったなー。もうなかなか遊べないだったろうに、悔しい。

 さっき、夏休み初日だから家にいるだろうと、マンションの八階まで行ってチャイムを鳴らしてみたけど、諒の親に部活に行ってしまったと聞かされた。だからこうして、わざわざ学校に向かってるわけだ。足取りは重い。夏休みになんで学校に行かなきゃならないんだかわけがわからない。けど、諒のことを先延ばしするわけにもいかない。

 今朝の時点で、右腕全体が狐の物と成り果てていた。とは言っても完全に狐の手と成り代わったわけではなく、人間に狐の毛が生えたような状態で、肘を曲げたり腕を回したりはできる。が、やっぱり鉛筆もまともに握れなかった。オサキは勝手に「学ばせることができぬとは……」なんて勝手に嘆いてる。何が何でも私を勉強させたいらしい。……珍しいことだ。

「全身が狐になることが、主の願いって奴なの?」

 試しに朝、オサキに聞いてみた。

「否。オサキツキとなると必然的にそうなってしまうだけさ」

 首を振るオサキはなんだか少し、寂しそうだった。

 何を考えているのか読めない。じゃあ一体、主の願いって奴はなんなんだろう? それに関しては当然のように、オサキは口を割ってはくれなかった。だけど、油揚げの礼にと、約束通り右腕を元に戻すヒントは教えてくれた。

「快晴の下、雨を降らすのさ」

 と一言だけ。

 その意味をちゃんと理解するのは、もっと先のことだ。この時の私はただ天気予報が晴れ続きなのを見て、嘆いたくらい。オサキがどんな思いでこれを言ったのかなんて、当時は知りもしなかったんだ。

 閑話休題。夏休みの学校は、やっぱり普段と雰囲気が違った。運動部の掛け声がよく聞こえる。廊下もバタバタと走ってく子ばかりだ。私も、部活があればこんな感じだったのかなー。すれ違いながら、そんなことを思う。春とはしゃいで、ギターを弾いて。オサキになんか憑かれることもなくて。場所がたとえ学校だったとしても、私は楽しめていたんだろうか? 部活は楽しくやってたはずなのに、うまく、想像ができなかった。

 むしろ、美術室で淡々と絵を描いてる諒を見て、これこそが夏休みの部活だってすっごく納得がいった。

 真っ白な入道雲と真っ青な大空を背に、汗を流しながら絵と向き合ってるんだ。女子の喋り声なんかはまるでBGMとしてかかってる感じがする。この広々とした空間の中で、きっと諒の視界は絵だけに狭まってるんだろうなーって思うと、羨ましくなる。

 カラオケにいるより断然いい。諒はマイクより筆を握ってるほうがあってる。楽しそうだもん、何倍も何十倍も。

「遊びにきちゃった」

 近寄って声をかけると、弾けるような笑みを返された。

「大歓迎だよ」

 昨日の負い目なんて感じさせないようなその雰囲気は、ほんと救われる。木の椅子を引っ張ってきて、隣に腰を下ろした。オサキは空いてる机に登って、他の人の作品に熱心に目を向けてる。何か面白いものあったっけ。

 この中で一番いいのは、考えるまでもなく諒の絵だと思うけど。キャンバスに描かれてるのは教室の風景だけど、幾何学的な模様でアレンジが入ってる。抽象的な教室って感じだ。その奇妙な空間の上で、女子生徒が歌ってる。オレンジの音符や光がその女子生徒から華やかに広がってて、なんだかわくわくする絵だ。

「やっぱこれ、楽しい絵だよね」

「ほんと? 雨沢さんにそう言ってもらえると嬉しいよ」

 答えながらも筆を止めないのが諒らしかった。

「もう少し全体のバランスを整えたほうがいいとは思いますけどね」

 背後からアドバイスをしたのは、美術の宮木先生だ。アップにした髪が涼やかで気持ちがいい。紺色のエプロンも似合ってるし、何より美人だ。

「雨沢さん、部活は? 夏休みは練習で忙しくなるって言ってなかったかしら」

「あ、そうだったんですけど……」

「怪我しちゃったんだそうですよ、もう一人の子が」

 口ごもる私に、諒がさり気なく助け船を出してくれた。

「そう、春が突き指しちゃったんで」

「それはそれは、お気の毒に。じゃあ、雨沢さんは自主練習ってことになるのかしら」

「一応、ギターは自分んちに持って帰りました」

「残念。階段の辺りに行くと、四階から軽やかな音が聞こえてくるの好きだったのに」

「ああ、階段傍の教室借りて練習してましたからね」

 でも今日からは、きっと誰もいないがらんとした場所になってることだろう。日光だけが差し込む味気ない教室の姿が脳裏に浮かんだ。

「あ、でもそれなら、夏休みの予定がぽっかり空いたってこと?」

「そう、なりますね」

 日焼け防止用の真っ黒な手袋でどうにかこうにかカモフラージュしてる狐の右手が元に戻れば、だけど。

「だったら、諒くんの制作を邪魔しない程度だったら美術室に来ていいからね。いっそ、兼部する? 大歓迎よ、雨沢さんなら」

「私、絵は得意じゃないんで……」

 好意はありがたいけど、兼部なんて無理だ。そんな器用なほうじゃない。

「絵じゃなくても、立体を作ったっていいのよ」

 ほらと示されたのは、奇しくも狐のオブジェだ。オサキがさっきから興味深そうにしてたのはあれのせいか! 何だろう、親近感なのかなー……。

「あははは。き、気が向いたら? ですかね?」

「うん、是非ね」

 なんて上機嫌で言って、他の生徒の様子を見にいく宮木先生に隠れてそっとため息を吐いた。

「いい先生だよね、宮木先生」

「いや、いいはいいんだけど……押しがちょっと強くて困るかなー」

 実のところ、美術部に誘われるのは今日が初めてじゃない。むしろ顔を出すたびに言われてる気がする。確かにうちの美術部はどちらかというと閑古鳥が鳴いてるほうで、あの狐のオブジェを黙々と制作してる三年の先輩男子、ひたすら胸像のデッサンをし続けてる二年の先輩女子、文化祭に向けるパネル制作に精を出す一年の女子三人組に、諒を加えた六人しかいないのだ。絵が好きな子は大抵漫研に流れてしまうらしい。世の流れって奴なのかな……。私も吹奏楽じゃなくて、軽音だから人のこと全然言えないんだけどさ。

「宮木先生のは優しさだよ、きっと」

 諒が柔らかく微笑んだ。

「部活、……結構大変なんでしょ?」

「へ?」

 思いがけない台詞に、間抜けな声が漏れる。

「ギターが弾けなくて大変だーって、難しいーって喚いてたじゃないか。つい最近は、やってもやってもうまくいかないから最悪だって」

「……言ったっけ、そんなこと」

 誤魔化しの常套句すぎて、いつのどれだか、わからない。

「言ってたよ。まあ、あんまり無理しない程度にしなよ。僕だって描けない日って描けないからさ」

「そうだ、諒のほうがスランプだって言ってなかった? 正直、絵を見る限りそんな感じしないけど」

「え!? えーっと、まあスランプっていうかインスピレーションが沸きにくくなって困ってるって感じ。ほら、環境が変わるとやりにくいって言うでしょ?」

「ああ、夏休みだから?」

「それもあるかもしれない。でも僕としては、軽音部の音が聞こえてこないのが寂しいかな〜なんて……ね」

 薄く染めた頬をかいて、上目遣いをする姿はまるで女子みたいだった。なんだかこっちも気恥ずかしくなってくるから、適当に諒の背を叩く。

「もう、嬉しいこと言ってくれるよねー、諒は!」

「あはは……。本当は昨日も、気分転換って意味合いだけじゃなく、雨沢さんの音楽が聴きたいなって思ってたんだ。叶わなかったけど」

「それならそうと言ってくれればよかったのに。そんくらい弾いたよ。練習サボってばっかだからあれだけど」

「ほ、ほんとに? あんまり、ギター触りたくない気分じゃないの……?」

「え、そんな風に思ってたの? 違う違う」

 全然大丈夫だって! と続けようとして、思い出す。そうだった、狐の手じゃピックは持てない。

「あー、弦が切れてて。だからそう、サボってたのもあるんだよね。楽器屋いくのめんどくさくってさ」

 咄嗟の言い訳にしては悪くなかった気がする。諒もあっさり、それじゃあ仕方ないねと納得してくれた。ふう、一安心。

「あ、それと全然関係ないんだけど、昨日のカラオケなんだけどさ」

 安心なんてしてられなかった。一気に緊張が全身に駆け抜ける。十中八九、あの異常な食欲についての言及だろう。うわあ、なんて言い繕えばいいんだろう。このために来たはずなのに、もう帰りたい逃げたい。

「お釣り、五千三百三十二円だったから」

「へ?」

「一万円置いてったでしょ? でも普通こういう時は割り勘だから」

 ま、まさかあの私一人で食べた分も含めての割り勘だと言ってるのか……? 信じられない思いで、ごそごそとスクバを漁る諒を凝視する。取り出された長財布も錯覚じゃないかと思えてくる。正直、五千三百三十二円ぴったり渡されても夢じゃないかと疑ったくらいだ。

「あの、大食らいについてじゃ、ないの……?」

 そんな、言うつもりじゃなかったことを口走ってしまうくらいに、私は混乱していた。

「あれはお腹が空いてたんでしょ? 女子で大食いって恥ずかしいって聞くから、慌てちゃったんだよね。大丈夫。びっくりはしたけど、少し羨ましくもあったから。僕、基本小食だから。ちゃんと食べるのって大事だよね」

 後光が差してる。確実に、諒の後ろからは後光が差してる……! ヤバイ! 感激でちょっと泣きそう!

「今度はカラオケの前に、食べ放題とか行こうよ。えーっと、スイパラとか? どこにあるのか知らないけど……」

「わかった。次はスイパラ奢る……」

「え、いやいや割り勘しようよ」

「奢りたい……ありがたすぎて奢りたい……」

「ええ? ど、どうしたの、雨沢さん?」

「マジ神」

 なんてコントは脇に置いて。泣きそうになったのはほんとだ。バカバカしいこと言って、誤魔化さなきゃやってらんない。諒は優しすぎて、ずるいと思う。やっぱり、同じクラスだったらよかったのにな。すっごく、残念だ。

 ギター、弾いてあげられたらよかった。狐の手じゃなくなったら、すぐに聞かせてあげよう。下手くそだけど、諒に聞かせるって目的なら、もう少し練習頑張れそうだから。

 


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